1:それは報われることなき『一番目』の後悔

 私は、道化だ。ただ舞台の上で踊るだけの、滑稽な道化師。主役になることもなく、気づけば舞台の幕は降りている。物語には触れられもせず、すべてが終わるのを笑いながら見送るのだ。顔に張り付いただけの、偽りの笑みで。




 目を開くと、砂時計の砂は落ちきっていた。寝ぼけ眼で置き時計を手繰り寄せると、時刻は午後四時を回ったところだった。いつの間にかうとうとしていたらしい。


 顔を上げても、北向きの部屋には西日も差し込まない。私はボサボサになった髪をかき回しながら、立ち上がると窓を開けた。秋が深まるこの時期、太陽は足早に空を駆け抜けて行く。


 じきに、冬が訪れるのだろう。冷えた風にはすでに寒々しい気配が混じっている。このオルフェの地の夏は短く、秋は瞬く間に過ぎて行く。そして長く厳しい冬が訪れるのだ。降り注ぐ雪が街を閉ざし、人々は身を寄せ合い季節が過ぎ去るのを待つ。


 私はそんな季節が嫌いだった。あの白い雪を見ていると、ずっと昔に置き去りにした記憶が戻ってくる。それが幸福な思い出ではないことを、私は忘れ去ってしまいたかった。


 窓枠に肘をつき、暮れて行く空を眺める。視線を下げたところで、この窓から見えるのは裏庭くらいだ。だから私はいつも上を向く。下は見ない。見たくなかった。


 なぜなら、ほら——。視界の端に映り込んだ灰色に、私は深いため息をついた。

 うつむきがちに歩く姿、片割れである嫡子とは違う不機嫌そうな横顔。それを見つけてしまうと、どうしても見て見ぬ振りができないのだ。体を起こすと、私は手早く身支度をして部屋を出る。


 面倒だ、と思わないわけでもない。けれど、仕方ないのだとも思う。だって私は、彼の——エンジュの従者で、たぶん彼には私しかいないのだから。





 果たしてエンジュは裏庭にいた。夕刻に近づき、庭の木々も寒々とした風に枝を揺らす。思わず襟元をかき合わせた私とは違い、彼は平然と芝生に寝転んでいる。


 そういえば、エンジュは寒さに強かった。足を進めながらそんなことを思い出す。幼い頃、彼に雪遊びに連れ出されたのを覚えている。私が嫌がろうが、彼は気にも止めずに駆け出していった。

 あの頃はまだ、私も本当に幼かった。何も偽ることなく、まっすぐに生きることができた最後の時代。それと比べてしまうと、今の自分の汚れ具合には反吐しか出ない。


 それが主人である青年への罪悪感からきていることは、今更言うまでもなかった。


「エン様」


 そっと寝そべる彼に声をかける。だがエンジュは空に手を伸ばしたまま動かない。思考の海にでも沈んでいるのか。仕方なく私は歩み寄ると、そばに片膝をついた。


「エン様、こんなところで寝てると風邪ひきますよ」


 再び声をかけると、やっと彼の視線がこちらを向いた。手を下ろし、意図がわからないかのように怪訝そうな表情を浮かべる。彼としては邪魔されたくなかったのだろう。


 だが、従者としては放置するわけにもいかない。我ながら呆れたものだが、無視できないのだから笑うかなかった。それに彼がこんな風になるのは、大抵『あのこと』が原因だった。


「どうしたんですか。またエルンスト様と喧嘩でも?」

「……バカは風邪ひかねぇらしいから放っておけ馬鹿野郎がバカが」

「わかりましたよ! バカは私ですからわかりましたから! とりあえず起き上がってください」


 回りくどいのは正直苦手だった。そうやって直球で投げつけた途端、バカを連呼で返される。いつものことだが、理不尽だと思う。むしろバカはエンジュではないかとも思ったりする。


 しかしそんなことを口にしたら、徹底的に心を折られるに違いない。面倒そうにエンジュが体を起こすのを眺めやりながら、私は思う。まあ、この人に逆らうとろくなことがないのは確かだ。


 ひとまず彼の隣に腰を下ろし、空を見上げてみる。夜へと近づいて行く夕闇に、一羽の鳥が舞っていた。もう遅い時間だが、雲の少ない空は適度に澄んでいる。


「……今日も良い天気ですねぇ。あ、鳥飛んでますよ」

「夕飯のおかずに良さげな大きさだな」


 おかず? 確かにローストチキンにするのにちょうど良さげな大きさ………のわけはない。


「あの、エン様。……お腹空いても拾い食いはダメですからね?」

「心配しなくても飛んでる鳥を生では食べねぇ」


 そりゃ飛んでる鳥は生だけれども。いや待て、それも違うのではなかろうか。


「あの、焼き鳥は空飛びませんよ」

「手羽先飛んでたら面白いよな」


 空飛ぶ手羽先。………夕闇にパタパタ飛ぶのは手羽先だけ………って、なんのホラーだ!


「面白くないです怖いですー! ちょ、しっかりしてくださいよエン様!」


 この主人がおかしなことを言い始めるのは、現実逃避の初期段階だ。うっかり喚いてしまうと、さも面倒そうな視線を向けられた。はっきり言って『面倒』はこちらが言いたい。


 言えないけれど。言わないけれど。言ったら何が起こるか分かったものではない。


「で、お前は何しにきたんだよ。まさか暇つぶしか」


 そして私の真心は踏みにじられるのだった。暇つぶしに主人の様子を見にくる従者って、真面目に従者の鑑ではなかろうか。つまり私は従者の中の従者………だめだ、思考が死んでいる。


「そんなわけないでしょう。私だって忙しいんですー。……や、何というか……エン様が寝てるのが見えたのでー……」

「なるほど。オレがエルのとこに殴り込んだのを、誰かがお前にチクったんだな。どうせ箒ババア辺りだろ」


 殴りこんだのか⁉︎ 思わず私は叫びそうになった。いやまさか、この人と言えどもそんなに物騒ではないだろう。そもそも本当にそんなことがあれば、チクられる前に耳に入っているはずだ。


 それより箒ババアとは、古参の侍女であるあの人のことだろうか。どちらかと言えばその言い方の方が心臓に悪い。顔がひきつるのを感じながらも、私は必死に言葉をつなげる。


「箒バ……そんなこと本人に言ってないでしょうね……? いやだから、チクったとかじゃなくて、みんな心配してるんですよ」

 それは私からすると、限りない真実だった。私が言うのもおかしな話だが、エンジュはいろんな人間から気にかけられている。少なくとも、エルンストよりも親しみを持たれているのは確実だ。

 けれど、彼の目にはその真実は映り込まない。皮肉に歪んだ顔を見て、私は彼にとっての真実が何かを悟った。


「エルの方をな。……お前もいちいちご苦労なことだ。オレについても何の得もないのってのに」

「……エン様」


 ああ、と思う。彼には何もかもが歪んで見えているのだ。多くの人が寄せる親愛も、私が向けてきた想いすらも、エンジュには偽りにしか思えていない。


 そこに至った責任の一端は、私にあるのだろう。だがその事実は結局、私の心とは別のところにあると言うのに——


 そんな想いなど知らず、彼は静かに瞳を陰らせる。それは良くない話をする時の癖で、私は自然に身構えた。


「アイン、お前も知ってんだろ。金耀樹きんようじゅの話」


 金耀樹。森にある神樹のことだ。その樹のことをエンジュが気にかけているのは知っている。しかし樹は枯れ果てたため、切り倒して街を広げる計画が出ているとは聞いていた。


「……ええ、まあ……そこまで詳しくは知りませんけど。その、エン様は、あの樹を切ることに反対なんですか?」


 エンジュがこだわる理由も知らず、私は自然に疑問を投げかけていた。だがその瞬間、間違いに気づく。


「……なあ、アイン」


 エンジュは空に目を向けた。私の問いには答えず、その黒い目は空を舞う鳥の姿を追う。


「なぜ、鳥は飛ぶんだと思う?」


 問いの意味が掴めず、私は何度も瞬いた。鳥が飛ぶ理由なんて、生きるためとしか答えられない。生きるために空を飛ぶ——つまりは餌を取るためではないのか。


「鳥が飛ぶ理由……餌をとるため、でしょうか?」


 首を傾げながら答えを口にすると、彼は薄っすらと笑みを浮かべた。それは私の答えを受け入れながらも、決してそれを望んでいなかったと語るかのような笑みだった。


「それも一つの理由だろうな。だけどオレは、そうは思わない」


 エンジュの瞳は何を見ていたのだろう。その答えを知ることが、なぜがとても怖かった。彼が求めた答えはきっと、絶望的なものに彩られている。


 青年は手を空に伸ばす。絶対に届かないと知りながらも、触れられないことを認めることのない切実さで。だから私は怖くなる。いつかこの人は、遠くへ行ってしまうのではないか——?


「生きているから、飛ぶんだろう。生きる限り飛ばなければ、死ぬしかないから」


 だめだ、と言いたかった。それは違う、と告げたかった。生きることは、苦しみ足掻くことばかりではないと教えたかった。けれど私は何も言えない。悲しい横顔に、何かを言う資格が私にはない。



(どうして、そう思うのかな)


 心の中で、想いが反響する。気づけば私は、誰かと向き合っていた。その誰かは穏やかに笑っている。まるで大樹のように揺るがない、そんな穏やかさで。


(どうして、あなたはそう思ってしまったの)


 どうして——そんなこと、決まっている。彼の苦しみの一端は、私にあるのだから。


(あなたは、彼を裏切ったの?)


 裏切った——そう、なるのだろう。私はエンジュの従者でありながら、彼の片割れであるエルンストとも通じていた。命じられるままに、エンジュの行動言動を全てエルンストに伝えていたのだ。

(あなたは、彼に悪意があったのかい?)


 ……誰も、信じないだろう。その時の私は、それを『良いこと』だと思っていたのだ。エンジュのことをエルンストが知ることで、二人のわだかまりが解ければと……ただ、それだけだった。


(けれど、彼はそうは思わなかった?)


 そうだ。エンジュがそのことをどうやって知ったのかはわからない。だが、その事実は彼にとって大きな裏切りとしか映らなかった。だから彼は、私をそばに置きながらも常に不信感を抱き続けている。


(誤解だ、とは言わなかったのかな?)


 事実だから。どういう想いからの行為であったとしても、彼にとっては裏切りでしかない。

 私に彼を裏切る意図がなかったとしても……彼が私をもう信じていない事には変わりないじゃないか。それなのにどうして、今更『信じてくれ』なんて言えるんだ?


(諦めるのかい)

 そうじゃない……けれど、全てが遅すぎる。


(彼を見捨てるのかな)


 そんなはずはない………だが、彼は私の言葉を聞き届けないだろう。


(想いがあるなら伝えるべきじゃないのか?)


 それは……だけど、そう。私はたぶん、怖いんだ。もしそれを告げて、エンジュに否定されたら。私たちはきっと、そこで終わりだ。もう二度と、彼は私を見ないだろう。


(しかし、何も言わなければ、彼はあなたの想いに気づくことはない)


 それでも、いいのかもしれない。だって、私は彼に何もできない。彼の苦しみを消すことも、彼の置かれている状況を変えることもできないんだ。


(そうかな?)


 そうさ……所詮、私は単なる従者に過ぎないのだから。


(けれど、彼は確かに今、あなたを見ている)


 それは、ただの。


(ただの、自己満足?)


 そう、なんだろう。私がそうあればいいと願っているだけの、幻想だ。


(幻想でもいいじゃないか。たとえあなたが何もできないのだとしても)

(あなたが彼を想う気持ちに偽りがないのなら)

(告げればいい。たとえ何も変えることができないのだとしても)

(あなたが彼に伝えようとした事に意味があるんだ。なぜなら結局)

(失われてしまえば)

(………失われてしまえば、二度と伝えられない。あなたの想いが嘘ではないのなら)

(伝えるべきだ。今、伝えなければ)

(彼が知ることはない。あなたが彼を『ただ一つ』の存在だと)


 誰かは笑う。寂しげに、けれど何よりも優しく。断片的に変わっては散って行く心象風景の中で、その人は最後に、こう告げた。


(そう、思っているということを、伝えてあげて)


「オレは、金耀樹を守る」


 エンジュは手を握りしめ、静かにその言葉を口にした。大きな声ではない。だが、はっきりとした決意を含んだ声音だった。私は一度瞬き——真っ直ぐに彼の視線を受け止めた。


「もう、あいつの言いなりにはならない……。たとえ今度こそ決別することになったとしても。あいつに——エルンストにそう伝えておけ」

「……エン様」


 私は目を逸らさなかった。その様子にエンジュは目を見開き、すぐに眉を寄せる。意外だったのだろう。私自身、少し驚いている。こうして真正面から彼の目を見たのは、随分と久しぶりのような気がした。


「エン様……私にこんなことを言う資格があるのか……そもそも、あなたが聞いてくれるかどうかもわからないけれど。これだけは、言わせて欲しいんです」


 私はエンジュの肩に手を触れた。それだけのことなのに、彼は身を固くする。その仕草で全てがわかってしまった。


「エンジュ、あなたは『ひとりきり』ではない」


 私は、エンジュのためだと思いながらも、結局は彼を一人にしていた。それがこの人を追い詰め、更なる孤独へと追い込んだのだろう。それは言うまでもなく私の罪で、今更償うこともできない。

 彼の表情が物語っている。嫌悪と憎悪に彩られた瞳。だがその奥底に、かつて笑いあった日々の記憶が残っているのなら、私はもう、自分を誤魔化さない。


「……なんだ、よ。なんで今更そんなことを言う……アイン、お前はあいつの……エルンストの間者じゃないか! それなのに、オレにそんなこと言って何のつもりだ!?」

「何のつもりもない……何のつもりもないんですよ。これが私の本心ですから。確かに私はあなたの片割れと通じてはいました。だけど、。私があなたの従者であることは……最初から、今までずっと変わりなかった」


 それが真実だと、伝わるだろうか。エンジュは目を伏せたまま、私を見ることはない。けれど彼は私の手を振り払おうとはしなかった。かすかな熱が、お互いの存在がここにあると伝える。


「それに、エンジュ。あなたは私に問いたださなかったじゃないですか。なぜ、そんなことをしたのかとも……何一つ言わなかった。あなたは全部分かったつもりだったのかもしれない。だけど……あなたは一度だって私に向き合おうとしなかったじゃないですか……!」


 気づけば声を張り上げていた。よくそんな声が出るものだと、他人事のように思った。見ればエンジュが驚いたように目を見張っている。ああ、そうだろう。私だって驚いている。


「私の言い分も聞かないで、勝手に殻に閉じこもって……! 何でそれで全部がわかるんですか!?  そりゃ言わなかった私だって悪いでしょうよ! だけどあなた、そもそも人の話聞いてないでしょ!? 聞いてたらそんな顔するはずありませんもんね、ちゃんと聞いてますか!?」

「へ!? き、聞いてる聞いてる……って何でオレ怒鳴られてる!?」

「また聞いてないでしょ!」

「聞いてるってば!!」


 もうこうなると意味がわからない。とりあえず大声で怒鳴りあって怒鳴り散らして。気づけば日も暮れている。何でこうなったのか不明だが、私は延々とエンジュに怒鳴り続けた。


「……はあ……で、とにかくわかりましたか。あなたはひとりきりじゃないって」

「とりあえずお前がオレに不満爆発してんのは良くわかった」

「また聞いてなかったでしょ!?」

「ちが……ば、結論を急ぐな引っ張るな! だ、だから……その……」


 げんなりと、何故にげんなりなのかはわからないけれど。エンジュは髪をかき回してうつむいた。明らかに精神の削られている様子に、私はそこまでのことをしたかと首をかしげる。


「わかったよ……とにかく、お前はその……オレの敵ではない、というのはわかった」

「当たり前でしょうバカじゃないですか。あれだけ隙だらけのくせに、私が本当に敵だったらとっくにグッサリとあの世行きですよ」

「ぐ……う、うるせぇな。てか、良いのかよ。こんなこと言い散らして、お前の立場が悪くなるんじゃねぇの?」

「悪くなるくらい良い立場だったら、私エン様の従者になってませんよ」

「るせー! 調子に乗ってはっきり言いすぎなんだよ!」


 拳を打ち出されて、私は逃げ惑う。だがまあ、こんな程度の話だったのだ、と拍子抜けしないわけでもない。エンジュに追い回されながらも、気づけば私は笑っていた。


「逃げんな、バカ!」

「嫌ですよー。と、まあ、それはここまでにして」


 拳を受け止め、私は唇の端を持ち上げた。そうして向き合えば、以前よりもはっきりとお互いが見える。それはたぶん、私たちの目が曇っていただけの話かもしれないけれど。明瞭になった視界の中で、私たちはまっすぐに向かい合う。


「エン様の言葉は、確かにエルンスト様に伝えます。でも、勝手に一人で突っ走らないでください。私の考えすぎかもしれませんが……今のエルンスト様はひどく危うい」


 私の警告に、エンジュは一度ためらった後——ゆっくりと頷いてくれた。

 実際、私の目から見てもエルンストは普通ではない。エンジュが絡めば特に。だからこそ私は恐れていた。エルンストの狂気が、彼に向かうのは時間の問題と思われたから。


「わかったよ。……何かあればお前に知らせる。それで良いか」

「わかりました……あなたがそう言ってくれるのであれば」


 これで安心、というわけではない。しかし私は何かを変えられただろうか。去っていくエンジュの背中を見つめ思う。もしこれで、彼のために何かを変えることができたのだとしたら、


 私は道化だ。けれど舞台の観客ではない。

 だからこの決断を後悔したりはしない。

 たとえ、決断の先で何が待っていようとも——


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