偽章「あなたを救う物語」

0:そうして、暗闇が訪れて

 『わたし』は、

 血に染まった手が地面に落ち、その黒い瞳から光が失われる。血の気の失せた唇が何かを刻んで、彼のまぶたは永遠に閉ざされた。冷たい闇がその上に降り注ぎ、誰かの叫びが虚空にこだまする。


「エンジュ」


 わたしは、すべてを見ていることしかできなかった。声は彼に届かず、伸ばした手はその肩をすり抜けた。結果、彼の命は失われた。そう、わたしは彼を守ることが出来なかった。


 失われた時間の中でそっと、彼の手に触れた。まだ温かい。けれど、それはすでに生きている者の温もりではなく、その体はただの物体と成り果てていた。


「守ってやるよ、絶対にな」


 その言葉の通り、彼は——エンジュは守ったのだろう。わたしを守ることで、彼は死んだ。わたしはこうなると知っていた。知っていたのに——


「知っていたのに、お前は


 暗闇が世界を包み込む。エンジュの姿も、誰かの嘆きも、深い闇の中に沈み消えていく。全てが永遠の夜に閉ざされ、わたしはその中に取り残された。


「そして、お前はすべてを失い——時は永遠にこの場所で凍りつく」


 誰もいない、何一つ存在しない夜の闇。その真ん中に立ち尽したわたしの上に、誰かの声が降り注ぐ。見上げても光すら存在しない世界に、その声はすべてを嘲笑うように響き渡る。


「もう二度と時は動かず、この先にたどり着くこともない。それがお前の望みだろう——銀葉」

「……君、は……一体」

「オレか」


 すっと、灰色の影が目の前に立ち上った。目を見開いたわたしに向かって、灰色の影は指を突きつけ笑う。深くかぶったフードの下から響く笑い声は、失われた誰かを連想させる。


「オレは、だ。銀葉……いや、金耀樹きんようじゅ

「わたしの、運命?」

「そう、オレはお前の運命を司るもの……なあ、銀葉。お前は?」


 彼は語る。失われた少年の声で、囁きかける。運命を変えるなんて、そんなこと可能なのだろうか。

『わたし』はこの結末を予期しながらも、何もできなかったというのに。苦い痛みが胸を襲い、わたしは足元を見つめた。運命は変わらない。それは過去にでも戻れなければ、果たせないこと——


「過去に戻れればいいのか?」


 わたしの心を読んだとでもいうのだろうか。顔を上げると、少年がこちらを見つめ笑っていた。なんでもないことのように、特別なことなど何もないかのように。少年は両手を広げ、暗闇の空を仰ぎ見た。


「ならば戻そう。お前は金耀樹。神樹だ。朽ちたとはいえ、限られた時の内であれば戻るなど容易い」


 暗闇の空から、光り輝く『何か』が降ってくる。まるで梢か落ちた果実のような——小さな輝きを内包する、光の塊。それが少年の手の中に舞い降りて、静かな風がフードを揺らす。


「その光は、何?」

「これは金耀樹の力のカケラ。時を遡るための……時の果実、とでもいうべきか。これを使えば、過去に戻りやり直すことができる」

「過去に、戻る……?」


 少年が差し出した果実は、五つ。わたしはそれをじっと眺めてみた。手のひらに収まってしまうほど小さな、光の塊。それはまるで生きているかのように、明滅を繰り返す。


「これを使えば、過去を変えることができる……?」

「可能性は、ある。朽ちた金耀樹の力では、すべての時に干渉することは叶わないが……だが、可能性は完全なる『ゼロ』ではない」


 わたしは何も言わず、果実を差し出す少年を見つめた。彼は決して、わたしにこれを選べとは言わない。ただ道を提示して選択肢を増やしただけだ。それを誠実と言えるかは分からなかったけれど、少年に害意がないのは理解できる。


 彼を救う。彼を、死の運命から救い出す。それが可能性でしかなかったとしても、目の前にその術があるのなら。


 だとしたら、わたしは——どうして、立ち止まることができるだろう?


「もし、彼を——エンジュを救うことができるなら」


 彼の死に、凍り付いていた心がわずかに揺れた。暗闇が揺らぎ、世界は薄明のようなかすかな光に染まる。何があろうと、まだ終わりではない。降り注ぐ光に顔を上げ、わたしは少年に向かって手を差し出した。


「私はその術が欲しい……どうか、手を貸して」

「……いいだろう」


 一呼吸のあと、少年はわたしの手を取った。冷たい指先が手のひらに触れる。彼はわたしを見上げると、五つの果実をそっと手の中に落としてくれる。


「これを使え。ただし、数でわかる通り過去に遡れるのは『五回』だけだ。その果実を使い果たせば、もう次はない。……わかるな」


 五つの果実。五回の猶予。それが十分な回数なのかはわからない。だが決められた刻限があるのなら、その中でやり切るしかない。わたしは深く頷くと、少年に問いかける。


「わかった……あと他に注意することは」

「お前は樹の化身だ。だからこそ過去に遡ることができるのだが、お前には動ける体がない。つまりその過去に干渉するためには、宿必要がある」

「宿るって、乗っ取るという話じゃないよね」

「乗っ取るって事じゃない。あくまでも宿って、その人間の意識が変わるのを促すという事だ。かなり難しい事だし、宿るのは誰でもいいわけじゃない」

「その条件は?」

「お前とエンジュの物語に関わりのある人間……要するに、エンジュに近い人間だ。無論そこにはエンジュ自身やあのエルンストも含まれる」


 そこまで告げられて、わたしは首をひねってしまった。他人の中から行動を変える。それが簡単でないことは理解できる。しかし、エンジュやエルンストに干渉できるのならば、もう少し話は単純ではないのだろうか。


「お前の疑問はわかる。だがな、やつらはこの運命の中心だ。それはすなわち、簡単には動かせない存在っていうことなんだよ。だから周囲の親しい人間から動かさなければ、奴らを変える道筋も現れない」

「親しい人間……従者と少女、か?」

「その辺りだろうな。そいつらを動かせれば、自ずと双子の動きも変わる。そこで残りの果実を使い……双子を動かす」


 簡単に言われている気がする。けれどわたしがやらなければ、結局同じ結末にたどり着くのだろう。それだけは嫌だった。とても、それは苦しい。


「一つ確認なんだけど、わたしはどこまで過去を遡れるの?」

「お前たちに関わりある者がいない時間には戻れない。つまり、はるか昔の知らない人間には宿れないってことだ。あとこれも重要だが、一度宿った者には宿

「面倒だね」

「それをオレに言われてもな。お前が枯れていなければ、ここまでギリギリの展開にはならなかったんだが」


 枯れているのはわたしのせいでもないのだけど。それを言ったところで、状況が好転するはずもない。わたしは果実を握りしめ、はるか彼方の薄闇を見つめた。その先にはまだ、闇が凝っている。エンジュが取り残された時間、彼が永遠に時を止めた刻が。


「行くのか」


 少年が問いかける。わたしは一度だけ彼を見て、すぐに前を向いた。この先で何が起こるかは、わたし次第なのだろう。変えられるか変えられないか、それを決めるのもわたし自身——


「……行く。行くよ、何を変えられるかはわからないけど、わたしが変えてみせる」

「そうか。オレが言うことはない。さあ……行ってこい」


 わたしは手の中の果実を一つ掲げた。光り輝く果実は、緩やかに輝き始める。脈動する光、それは意志に呼応するように激しさを増す。


 次第に強まる輝き。すべてが光に沈み込む世界の向こう側で、少年はそっと囁きを投げかけた。


「きっと、その願いは——」


 わたしは金耀樹。世界を見守る神樹だ。けれど今わたしは、たった一人のためにその命を燃やす。


 それは『わたし』のあり方として正しくないのかもしれない。


 けれど、こだわる必要もないのではないかとも思っている。なぜなら、わたしはもうすぐ朽ちて消えてしまう。そうなってしまえば、何かを変えることも、何かを動かすこともできない。


 いや、違う。ただ、わたしはもう一度会いたいんだ。


 生きて、笑っている君に。

 わたしはもう一度、会いたかった。会って、君に伝えたい言葉があるんだ——

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