5:幸福《エンジュ》と言う名の赦し
夜が訪れる。静寂の奥に心の刃は隠され、オレの指先は闇の中に沈む。空に星は輝かず、月もない夜を照らすのは、足元に置かれたランプの明かりだけだった。
夜の森は、何も存在しないかのように静かだ。オレは鈍色の幹に背を預け、目を閉じる。まぶたを閉じたところで、完全な暗闇は訪れない。意識を向ければ、仮初めの暗闇にいつかの光景が浮かび上がる。
「エン、僕たちは——」
いつだったか、まだ世界が優しかった頃のことだ。オレとエルは一つの約束をした。この森で、この樹の下で——けれど、その約束の内容をどうしても思い出せない。
眩しく輝いたのは金の梢。銀の葉が一枚、オレたちの間に落ちて——だが、そんな光景は存在しないとオレは知っている。幻想の中に残る想いは、幻だからこそ美しいのだろう。
「エンジュ」
そう、あの頃とは何もかも変わってしまったのだ。幻想は、結局何も生み出さない。
目を開けば、闇の向こうに一人の男が立っていた。穏やかな笑み、深い色をした黒い瞳。オレと同じ灰色の髪をした、片割れであるはずの男。
「……エルンスト」
「どうしたんだい、こんな時間にこんな場所で。君が部屋にいないって、アインが騒いでいたよ」
エルは困ったように笑う。オレはその顔を見ずに、ため息を足元に落とす。『こんな場所』はお前の方だろう——そう思ったが黙っておいた。
オレが何も言わないでいると、エルはゆっくりと近づいてくる。一歩、また一歩。確固たる足取りは、オレが顔を上げると止まった。
「待ってたんだよ」
「……、待っていた?」
手を伸ばせば触れられる距離。オレたちの視線は、一度だけ絡み合う。同じ色をした瞳の中に、オレとエルが映り込む。オレたちは確かに鏡像だった。どちらがどちらかも判然としない世界で、オレはエルだけを見つめる。
「ああ言えば、お前はここに来るだろうと思った」
「……どうして。僕が君を拒むとでも思ったのかい」
「オレは、お前と話がしたかった。オルフェの嫡子ではなく、オレの弟であったお前と」
オレの言葉に、エルは少しだけ目を細めた。笑みの仮面の下から別の表情が現れ、冷たい瞳がまぶたの向こうから覗く。温かな感情などそこにはない。ただ、凍りついた眼差しがそこにはある。
「……今更、それを言うのか。僕を置き去りにして逃げた君が」
「言い訳はしない。お前がいる場所は、本来オレがいるはずだった場所だ。オレは……どうでもいい我儘のために、お前にオルフェを押し付けたんだ」
エルンスト。エンジュ。オレたちを区別するのは、その名前だけだ。オレたちは双子で、互いに鏡像だった。同じものを見て、同じように笑って——けれど誰も、オレたちが同じだとは思わない。
だがかつて、オレたちの心は分かち難く存在していたのだ。互いを『自ら』として認識し、二人でいれば何もいらなかった。そんな閉ざされた——けれど、穏やかで温かな世界。
けれど、あの日——弟》が嫡子エルンストとされた時。その世界は壊れ、オレたちはただの『個』となったのだ。
「それを理解しているなら、僕に何か言う資格がないことも理解しているんだろう?」
エルは、本来の『弟』であるはずの男は壊れたように顔を歪めた。それが本来の表情で、本当の感情なのだろう。そこにあるのはオレを憎み、恨み続ける子供の顔——
けれど、嫡子エルンストとしての言葉にも嘘はなかったのだ。ただそれは、こいつを構成する一端でしかなかっただけで。
「オレが何も得られないのも、そのせいだって言いたいのか」
低く告げれば、エルは歪んだ笑みを浮かべる。こいつが何を考えているかなんて、オレにはもうわからない。しかしその歪んだ顔に、優しい感情がないことだけは確実だった。
「当然じゃないか。僕がこんな風に苦しむのは、君のせいなのに。なのにどうして、僕が君の願いを叶えてあげなければならない? どうして……君だけが何かを得ようとするんだ……⁉︎」
たった一歩の距離は、永遠にも等しくオレたちを隔てる。エルが手を伸ばす。だがオレはその手から目をそらした。
エルの苦しみ、オレの苦悩。それはもう、どちらか片方の罪とするには、互いに積み重ねた感情が絡まりすぎている。始まりはオレの過ちだった。だが今となってはエルも——オレに対して罪がないとは言えなくなっていた。
「だから、この樹を殺すっていうのか。オレが心を寄せている、その一点だけを理由に」
「君は、何かを得てはいけないんだ。君はずっと、ただひとりでいなければ……そうでなければ、平等とは言えないだろう……? だって、僕のそばにはもう……」
エルは笑う。壊れたように歪んだ、笑みとも言えない表情だった。差し出された手はオレに触れることもなく、力なく落ちる。たったそれだけの決別。オレはもう、相手を見なかった。
「終わりだよ、エルンスト」
はっきりと、オレはその名を呼んだ。かつてオレはエルンストで、こいつはエンジュだった。だが今となってはそれだけだ。オレたちはすでに、名前とは別の場所で違うものと成り果てていた。
「お前がこの樹を切っても切らなくても……オレはもう、お前のそばにはいない」
「……、兄……さ」
立ち尽くした男の横を、オレは通り過ぎた。見知らぬ他人のように、なんの関心もなく。距離が遠ざかるたび、心すらも遠ざかっていく。エルが振り返る気配がした。オレは目を閉じる。これが最後だ。二度とオレは、元には戻れない。
「もう、オレを振り返るな。……さよならエル」
「——あ……」
歩き去る。たった一人を残して。オレは、この樹を守りたい。ならばオレ自身が、ここから去るしかなかった。オレがこだわり続ける限り、エルは絶対に奪うことを諦めないのだから——
「——さ、ない」
声が響いた。
「赦さないぞ、エンジュ」
ずぶり、と。何かが背中を突き抜けた。肉を貫く不快な感覚と、灼熱に焼かれるような痛み。けれど、オレは声を上げることもできなかった。
「どこにも行かせない。お前はここにいる。ずっと、ずっと……だって」
音が遠くなる。目の前が、本当の暗闇に閉ざされていく。指先に力が入らず、それでもあがくように掴んだ手は、鮮烈な赤に彩られていた。
「……エルン、スト」
名を呼んでも、答えは返らない。膝から力が抜け、オレはそのまま地面に崩れ落ちた。動くこともできず、次第に細くなっていく呼吸。その向こうで、男の言葉は呪いとして降り注いだ。
「お前はオレだけのもの。……ずっと、そばにいるんだろうエンジュ——」
こうして、物語は一つの結末にたどり着く。
だがこの物語は、まだ最後から二番目の夕日を知らない——
真章「最後から二番目の夕日」了
→next 偽章「あなたを救う物語」
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