4:囚われの空に鳥は飛ばない。
オレには何もできない。そう理解していても、心に凝る苦しみが薄れるわけではない。
エルンストとのやり取りの後、オレは庭の芝生に寝転び空を見上げていた。
青い草の匂いを胸に吸い込み、手を伸ばす。そうすると太陽すらもつかみ取れるような気がしていた。まだ自分が世界の中心であっても良かった頃を思い出す。
何もつかめない手のひらを、オレは握りしめた。無意味な錯覚の上に、子供の世界は成り立っている。だがその錯覚の無意味さは、大人にならなければわからない。
手のひら一つ分の世界は温もりに満ちていて、全てはその中で完結していた。閉じた陽だまりの世界。誰かに愛し慈しまれることで、子供は自らの存在理由を得るのだ。
無償の愛。見返りを求めぬ想い。それが錯覚だと気づいた時、子供は永遠にその世界から追放されるのだろう。
愛も慈しみも
「エン様、こんなところで寝てると風邪ひきますよ」
オレの思考を遮り、呑気な声が上から降り注いだ。手を下ろして横を向けば、アインがそばに片膝をついている。空気を読まない従者は、主人であるオレに向かって呆れた笑みを向けてきた。
「どうしたんですか。またエルンスト様と喧嘩でも?」
「……バカは風邪ひかねぇらしいから放っておけ馬鹿野郎がバカが」
「わかりましたよ! バカは私ですからわかりましたから! とりあえず起き上がってください」
従者のくせに失言の多いやつである。いつものこととは言え、オレに直球で『それ』を投げつけてくるあたり、何も考えていないのか何なのか。
言うことを聞くのも
「……今日も良い天気ですねぇ。あ、鳥飛んでますよ」
「夕飯のおかずに良さげな大きさだな」
「あの、エン様。……お腹空いても拾い食いはダメですからね?」
「心配しなくても飛んでる鳥を生では食べねぇ」
「あの、焼き鳥は空飛びませんよ」
「手羽先飛んでたら面白いよな」
「面白くないです怖いですー! ちょ、しっかりしてくださいよエン様!」
アインが
「で、お前は何しにきたんだよ。まさか暇つぶしか」
「そんなわけないでしょう。私だって忙しいんですー。……や、何というか……エン様が寝てるのが見えたのでー……」
「なるほど。オレがエルのとこに殴り込んだのを、誰かがお前にチクったんだな。どうせ箒ババア辺りだろ」
「箒バ……そんなこと本人に言ってないでしょうね……? いやだから、チクったとかじゃなくて、みんな心配してるんですよ」
「エルの方をな。……お前もいちいちご苦労なことだ。オレについても何の得もないのってのに」
「……エン様」
アインが眉を下げる。こいつが口にした『心配している』という言葉の全てが、嘘だとは思わない。だがそれを
「アイン、お前も知ってんだろ。
「……ええ、まあ……そこまで詳しくは知りませんけど。その、エン様は、あの樹を切ることに反対なんですか?」
「……なあ、アイン」
アインの問いに答えず、オレは視線を上に向けた。空には鳥が一羽、舞うように飛んでいる。
「なぜ、鳥は飛ぶんだと思う?」
いつだったか、オレは死にゆくだけの小鳥を見ていた。手を差し伸べることもなく、その命が尽きるのを見つめていた。その時はそれが正しいと思っていた。命の終わりを左右する資格は、オレにはないと思っていたから。
「鳥が飛ぶ理由……餌をとるため、でしょうか?」
「それも一つの理由だろうな。だけどオレは、そうは思わない」
あの小鳥は、最後の瞬間まで羽ばたくことをやめなかった。それはきっと、餌が欲しいとかそんな単純な理由じゃない。飛びたいと願う——それはもっと、命の奥底に根ざした答え。
オレは手を空に伸ばす。どんなに望んでも、この身がこの場所から解き放たれることがないように。命は生きる限り何かに囚われている。ならば結局——
「生きているから、飛ぶんだろう。生きる限り飛ばなければ、死ぬしかないから」
生きるとは、その命の『限界』の檻の中であがき続けるということなのだろう。ならばあの樹は——
「助けてもいいんだよ」
あいつの声が耳元で響く。かつて手を差し伸べなかったオレの、記憶の残響がこだまする。
「だけど、君は人なんだ」
優しい日差しが、オレたちの間に降り注いでいた。通り過ぎてしまった季節の中で、あいつは笑う。あの森のような静けさと、長くあり続けた老樹を体現するような笑み。
「もし、その心にある想いがただの自己満足だとしても……何かを助けたいと思う気持ちにまで、嘘をつく必要はない」
あの時のオレは、それを選べなかった。何かを選ぶよりも、何もしないほうがずっと楽だったから。綺麗な言葉で誤魔化して、結局オレがしたのは何も選ばないことだった。
空に舞う鳥を見上げ、オレは手を握りしめる。もし何を選ぶにしても、全ては自己満足だ。だがもう、自分で自分を誤魔化して、何も見ないふりをすることもで出来ない。
「オレは、金耀樹を守る」
放たれた言葉の重さを、隣の従者は目を伏せることで受け止めた。オレの決意など、あの男にとっては紙屑以下かもしれない。しかしこれ以上、奪われ続けるだけの人生を送るのはごめんだった。
「もう、あいつの言いなりにはならない……。たとえ今度こそ決別することになったとしても。あいつに——エルンストにそう伝えておけ」
目を伏せたまま、アインは無言で首肯した。それだけの仕草で、本当にオレのそばには誰もいなかったのだと気づかされる。
こいつはそもそもエルの息のかかった人間だ。……それに気づいたのはずいぶん前だが、こいつ自身オレがそれに気づいていることを知っている。だがそれでもなお、オレのそばに居続けるのは——
「わかりました。……あなたがそう願うのであれば」
何も期待してはいけない。何も信じてはいけない。向けられた親愛は錯覚で、慈しみは所詮、手の届かない蜃気楼に過ぎない。
だからオレはいつもひとり残されるのだ。誰かに認められたい。そんな風に叫ぶことすら諦めた心は、とうの昔に囚われたまま死に絶えたのだから。
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