4:誰の跡形、鳥の望む空

 手を伸ばしても、届かないものもある。いつだって命は足早に通り過ぎて、『わたし』はひとり取り残されていく。


 追いかけても、呼びかけても届かない。だからいつもわたしは、去っていく背中を見送ることしかできない。それを『仕方ない』と諦めるために、記憶は薄れていくのだろうか。


 それでも、何度でも出会いを繰り返す。いずれ別れが訪れると知っている。だが、結局わたしは、何度でも間違いを犯すのだろう。



 『わたし』は金耀樹きんようじゅ。世界を見守る神樹だ。


 春が過ぎれば、季節は駆け足で夏へと向かい始める。柔らかだった日差しに、強い輝きが満ちていく。雨が上がった頃、鳥が舞う明けの空。いつしか季節は、短い夏へと移り変わる。


「銀葉、暑い」

「見ればわかるよ、水浴びでもするの?」


 この森にも夏は訪れる。冬の長さを考えれば、ささやかなものではあるのだけど。森の木々は枝葉を伸ばし、草花や動物たちも短い夏を謳歌している。


 そんな良い季節のはずなのに、彼はぐったりと幹に背を預けていた。服の襟元をはだけた姿がなんともだらしない。視線に気づいたのか。以前より背の伸びた少年は、恨めしそうにわたしを睨む。


「どこに水があるってんだ。これから水脈を掘り当てろとでも?」

「別にここでしなくてもいいじゃない。暑いんだったら家にいれば」

「家はここより暑いんだよ。町中なんて、陽炎が揺らめいてるぜ」

「陽炎って。それってさすがに大袈裟じゃない?」


 いくら暑いといっても、陽炎が揺らめくほどなのだろうか。彼の言葉の真偽は不明だが、少なくとも町中より森の方が涼しいのは確かだ。


 彼はぐっと伸びをしてから、大きく息を吐き出す。本気でだらけきっている様子に、わたしは首をかしげるしかない。暑いことは暑いけれど、寒いよりはマシだと思うのだが。


「銀葉よ。お前は暑いの平気な性質タチか」

「どうだろうね。暑いのと寒いのだったら、暑い方がマシだとは思うよ。だってほら、外で寝ても冬と違って凍死とかはしなさそうだし」

「野良寝基準ってどうなんだよ。そりゃ夏に凍死はねーだろーが。……だがあえて言わせてもらおう。とにかく、オレは暑いの大嫌いだっ!」

「へーそうなんだー」

「反応薄っ!」


 言うなり彼は、わたしに向かって何かを投げてくる。勢いよく飛それは、わたしの顔の横を通り過ぎていく。バシッと音を立て、幹にぶつかり落ちたもの。それはクルミだった。……どうでもいいけど、どこからそのクルミは出てきたのか。


「危ないなぁ。それになんでクルミが」

「午後のおやつだ。それよりお前、クルミくらい割れないのかよ。金耀樹だろ?」

「いやちょっと待ってね? おやつはいいけど、金耀樹がどうしてクルミ割れると思うんですかー」

「だってお前、『金』で出来てんだろ」

「いやだなにそれこわい。……あのねぇ」


 地面に落ちたクルミを拾いながら思う。もし本当に『金』で出来ていたら、今頃わたしは切り株も残さずこの世から消失している。名前で誤解されがちだが、金耀樹はあくまでも『樹』だ。


 クルミを彼に渡してやりながら、それを一応確認しておく。改めて言うことでもないとは思う。けれどたまに、人間はものすごい勘違いをしているから『コワい』のだ。


「わかってるって。お前、オレがそんなアホだと思ってんのか」

「いやちょっと……あ、アホではなく気になったって話で! それにわたしはクルミ割りではないし!」

「そんなのお前に期待してねーよ。クルミくらい自力で割れる」


 薄く笑い、彼はナイフを取り出しクルミの皮を割る。ばりばりと皮を割る少年——それをぼんやりと眺めていると、そばに何かが落ちてきた。


「あ……」

「んー、どうしたよ」


 彼がクルミから顔を上げる。わたしは落ちてきたものを見つめ、そっと息を吐き出した。

 それは一羽の小鳥だった。茶色の小さな翼を羽ばたかせながらも、飛び立つことは叶わない。その弱々しい羽ばたきに気づき、彼はわずかに眉を寄せた。


「鳥か……怪我でもしてるのか」


 小鳥はわたしたちに怯える余裕もないのか。何度も翼を動かしては地面に倒れこむ。繰り返すその動作は、必死に自らを奮い立たせているようにも見える。


「いや、あれはたぶん……寿命だろう」

「寿命?」


 彼は戸惑うように視線を彷徨わせる。寿命。要するに、命が尽きること、だ。この森に生きるわたしは、数え切れないほどその光景を目にしてきた。


 けれど若い彼にはまだ、馴染まないものなのかもしれない。倒れ伏す小鳥をじっと見つめ、何も言わずに眉を下げる。だが、それ以上は何もしない。言葉一つ口にしようとはしなかった。


「……助けよう、とは言わないんだね」


 動こうとしない彼の横顔が、かすかに揺れた。ゆっくりと黒い瞳が動いて、口から短いため息がもれる。苦い笑みを貼り付けながら、彼は低い声で言葉を紡ぐ。


「そんなの言えるか。……あの鳥が望んでるのは、オレの助けなんかじゃない」


 わたしに向けられた視線は、苦々しいものに彩られていた。人間の美点は、他者に手を差し伸べられることだと思う。だが、それは人の世の理屈で、森のことわりとはかけ離れている。


 森は、何かを特別に救うことはしない。生きることも死することも、等しく与え続けるだけだ。


 だから、わたしはあの鳥を助けることはしない。しかし、人である彼はそんな風に思うことはできないだろう。口で何と言おうと、その表情は苦悩に満ちているのだから。


「助けてもいいんだよ」


 わたしの声に、彼は伏せていた顔をあげた。迷う瞳が鳥を見て、すぐにわたしへと向けられる。


「……なんでそんなこと言う?」

「君は、森に従おうとしてくれたんだろう。それはきっと、間違いじゃない。あるべき姿であり続けること……それはとても尊いことだから。だけど」


 小鳥は羽ばたくことも出来ずに、地に伏せる。わたしではそれを見ていることしかできない。だが、彼までが従う必要性があるのだろうか。わからない。けれど言えることがあるとしたら。


「だけど、君は人なんだ。もし、その心にある想いがただの自己満足だとしても……何かを助けたいと思う気持ちにまで、

「……。ああ……そうか」


 短く呟いて、それでも彼は動かなかった。鳥はもう、空を飛ぶことはない。命の終わり、こんな風に呆気なく散っていく。それでもこれは、どこにでもある光景であるのに。


「助けたいな」


 散っていくものは、人も鳥も変わりない。彼は穏やかに笑い、透明な眼差しを前に向ける。


「助けられるなら、助けたい。それがオレの本心だけど……それが無理だってわかってるから、せめて何も手を出さずにいる」

「……そうか」

「ああ。だって、助けたいなんて結局」


 命は終わる。救いも望まず、静かに眠りに落ちていく。わたしも彼も、それを見送ることしかできない。『仕方ない』なんて言えはしないだろう。けれど、報われない思いがあったとしても、それはたぶん——


「オレの、自己満足だから」




 小鳥を見送り、彼は自らのあるべき場所へと帰っていく。いつものように、いつかのように。


「またな」


 まるで約束のようにそう告げ、去っていく背中。夕闇に紛れてそれが消えるまで、わたしは何も言わずに見送り続けていた。


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