3:鈍色の春、芽吹かない緑に
季節は巡る。どんなに凍てついた世界であろうと、いつか雪が溶け、新たな緑が芽吹くだろう。
けれど『わたし』の梢には、新たな緑が芽吹くことはない。春になっても変わらず、鈍色の枝を空に伸ばすだけの老樹。朽ちていく時を数えるだけの神樹。
だがふとした瞬間、うつむいたままの顔を上げれば——暖かな日差しは、わたしの上にも降り注いでいる。そんな何気ないことを、どうしてわたしは、ずっと忘れたままでいられたのだろう——。
『わたし』は
春。暖かな季節がこの森にも訪れ始めていた。芽吹くことのない『わたし』の梢にも、春を唄う鳥が羽を休めている。あれほど深く積もっていた雪も、穏やかな日差しの下で溶け始めていた。
雪解け水に指を浸せば、冬の名残が冷たさを伝える。わたしは樹の下で、移り変わる季節のひと時を見つめていた。どんなに時が流れても、季節が立ち止まってくれたことはないのだけど。
わたしは、冬から春に移り変わる一瞬が好きだった。命が目覚め、梢に緑が芽吹く瞬間。『わたし』という存在も、巡り続ける命の中で生きていると感じることができたから。
「冷たっ! って、おい。この辺水浸しじゃねーか」
感傷的になっていると、いつもぶち壊してくれるのが例の少年であった。
地面にできた水たまりを避けて、彼はわたしの方にやって来る。いちいち文句を言うのは相変わらずだが、何だろう。姿を見かけなかったわずかの間に、少し背が伸びたように見える。
「おい、銀葉。さっさと地面に水を吸い込みやがれ」
「無茶言わないでくださいー。雪解け水がどれだけあると思ってるの。ここ何日かで急に溶けたから、土だって一気に吸い込めないってば」
「それはお前の怠慢だろーが。オヤジに言ってその根っこ掘り返すぞ」
「やめてください。根っこ掘り返してる暇があるなら、もっとわたしに優しくしてくださいー」
「お前わかってねぇな。充分オレは優しいだろ」
「どこがですか」
水吸い込めとか、根っこ掘り返すのが優しいか? いつもながらに、少年の言葉はどこまで本気なのかわからなかった。ついつい湿っぽい視線を向けてしまうと、彼は根っこに腰掛け指を鳴らす。
「オレがここにいる。それって言うまでもなく、優しいってことだろ」
「うーん、よくわからないけど」
「……誰かを哀れんでやることが優しさだとは思わないけどな。そんなことするくらいなら、オレは何があってもずっと、相手と対等でありたいと思うよ」
真面目な台詞とは裏腹に、彼の表情はどこか投げやりだった。靴先で地面を蹴りつけ、軽く空を睨む。何度かそれを繰り返した少年は、最後に眉を下げながら微笑んだ。
「ま、そう言ったって、相手に伝わらなきゃ意味ないんだけどな」
「何か、悩みでもあるの?」
「悩み? まー、あるといえば常にあるなぁ。オヤジが色々緩いせいで、身内関係だけじゃなく他でも色々あんのさ。そもそもオレはこんな性格だし、周りも周りで性悪だしー。表面上うまくやってるように見えても、一皮むけばドロドロのヘドロづくしだから結構めんどくさいんだよ」
「それは、苦しいんじゃないか」
「別に。ちょっと信じてたやつが、裏でオレのこと売ってたの知った時はやだったけど。でもよく考えたら、オレの周りみんなそんなやつばっかだったし。……なんで、そいつを例外だと思ったんだかなぁ」
はぐらかすように笑い、彼は深いため息をついた。幼いはずの横顔は、その時だけひどく大人びて見える。力のない黒い瞳が地面を見つめ、小さなつぶやきが口からこぼれ落ちた。
「信用とか信頼とか、オレには一生縁のない言葉かもしれねぇな」
わたしにできたのは、うつむいたままの彼のそばに立ち続けることだけ。
言葉を交わしても、どんなにそばにいようとも。わたしは人ではない。人ではないわたしでは、彼の痛みを分かち合うことでもできない。
「ま、お前はそういうのわかんなくていいよ。どうせ知ってもめんどくさいだけだし」
「君は、つらくないの」
「つらくない」
『わたし』の梢に新たな芽吹きはなくとも、まだわたしはここにいる。
「つらくない。だってオレは別に、失うものなんてないから」
あとどれくらい、わたしには時間が残されているだろう。たぶんわたしは、彼に何もできない。
「君は、それでいいの」
「無様でも、意地を通すのがオレの生き方だよ。それも出来なくなったら、オレはきっと、自分自身を認めることもできなくなる」
たとえそっと枝を伸ばし、震える細い肩に触れることは出来なくとも。ただそばにいることが、彼にとっての陽だまりであるのなら、わたしはずっとここにいる。
「銀葉」
彼は笑う。そうすることが自らの誇りであるかのように。冬が過ぎ去り春が訪れる一瞬、季節がすれ違うひと時の中で、わたしたちは同じ陽だまりに佇んでいる。
「お前は、変わらないままでいろ」
そっと告げられた言葉は、確かに彼の願いだったのだろう。視線を空に向け、少年は遠い何かに想いを馳せる。黒い瞳に宿った透明な何かは、こぼれ落ちる前にまぶたへと消えた。
「またな」
いつものように告げて、彼は去っていく。その細い背が木立の向こうに消えるまで、わたしはずっと見守り続けていた。
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