0-38 ビヨンド・ザ・フォビア

 今でも、鮮明に思い出す。居場所がなくなった、あの瞬間を。


 どこに行っても万年貧乏くじを引いてしまう、辛くて苦しい毎日。赤の他人である生徒や先生だけではなく、肉親にさえ憎悪が溢れ出ていた。


 俺が何をしたというのだ。どうして身をすり減らさなければならないのか。殺人を犯したわけがなく、いつだって慎ましくしている。

 それなのに、何故他の悪人ではなく俺なのだ。右目を失い髪色が変化しただけで、充分な罰だろう。


 自らに嫌悪を抱くほど、恨みを持ち続けた。この醜い感情は、誰よりも深いのだと信じていた。

 そんな俺がこの世界に来て、シニミという無情な怪物を目の当たりにした。


 その時、気づいてしまったのだ。


 自分の家族とかつての友人たちが、幸せな未来を送るのを、未だに心のどこかで願い続けてしまうことに。

 シニミのように、心あらずで蹂躙しに行くだなんて、一度も考えていなかったのだ。


 俺は満身創痍になっているけれど、あの人たちは何をしているのだろうか。

 朝なら、仕事や学校に行ったのかもしれない。夜なら、暖かい布団の中に入って眠っているのだろう。


 結局、心の底から嫌悪していなかったらしい。愛情こそは消え失せているが、悲しみの深淵から生まれた憎悪を向ける気力も、すでに無くなっていた。


 彼らは、この世で一番の罪人ではないのだから。かつては俺の心の聖域を冒したが、それも戻って来ている。


「どちら様?」と、声をかけた。マルカではなく、歪な望遠鏡に向かって。


 上半身だけ起き上がらせた俺は、優しくテレスコメモリーを抱えた。見つめていると、ノイズ混じりの声が聞こえ始めた。


『君と出会えて嬉しいですよ、千道』


 オンニさんの予想通り、この中に人がいた。ずっと話しかけていたのに、聞こえていなかった。今この瞬間、やっと願いが届いたのだ。


 彼はもう一度だけ、俺と戦ってくれる。マルカの中で彷徨っている魂を、解放するために。

 今まで含んで来た魔力が、身体にまとわりつき始めた。立ち上がった俺は、再び標的に向かって走り出す。


 この放浪は、どこへ向かっているのか。


 灼熱地獄、極寒の土地、幽霊に連れ去られる墓地、どこまでも続く地平線、永遠に見渡せる大空、誰も見つけていない無人島。

 ユーサネイコーにも、美しい景色がたくさんあるだろう。ここに降り立ったのなら、それくらい見て回らないと気が済まない。


 初めて家出をした日から始まった、この放浪旅の終着点がようやく解った。目指すべき場所は、理想郷ただ一つ。辿り着くには、生き残らなければ。


「絶対に、ナイトメアを倒してやる」

「崖から落ちたら、安楽死だったというのに……貴様は自分自身で、苦痛を味わいながら死ぬ道を選んだッ!!」と叫んだマルカは、俺の最後から巨大な黒の塊を出現させた。


 今までのとは違い、とても巨大だ。このままぶつかったら、全身の皮膚が剝がれ落ちる。奴の言う通り、落下死よりも苦しい最期を迎えてしまうだろう。


 これが俺の運命だというのなら、まだ従わない。最後まで抗い、少しでも変えて見せる。


 塊の方へ振り向き、テレスコメモリーごと右手で殴った。右腕全体を強化していると言えど、墨の中へ食い込んだら皮膚が剝がれ落ちて感覚が無くなる。


 それでも踏ん張り続けた結果、ついには軌道を変え、マルカに向けて飛ばすことに成功した。


 地面に倒れた俺は、余裕そうにしている敵を見据える。『どれだけ巨大だろうが、直前で溶ける』と信じ切っている顔面に、自身の魔法が激突した。


 丸焦げになった表情は、何が起きたか理解していないようだった。


「地面に付着している墨を避けたり、偽物の手で槍を握っていた。だから、中に何かを入れたら、届くんじゃねぇのかなって思ったんだ。その様子だと、当たりだったようだな。投げ飛ばした時、テレスコメモリーを入れっぱなしにしたから」


 俺は戻ってくる武器を取り、立ち上がって深呼吸をした。奴は「馬鹿な」とか「なんだこれは」と、機械のように繰り返し呟いている。


「さっき、『魔力が無いなら、名前が無いのと一緒』とか言ってたな。確かにそうだ。でも、俺には魂がある。この世界の常識にならって、名前をつけるよ」


 そう言いながら、再び走り始めた。全身怪我している――特に右腕からは、血が止めどなく流れている――が、気に留める暇は無かった。


 ただ、マルカを倒すことだけに集中している。


 敵が動いて攻撃の構えを取る前に、顎に向かって思いっ切り頭突きをした。テレスコメモリーが、最後の魔力を俺に託す。


 こんなことが、有り得るのだろうか? 


 魔法は使えないと信じ切っていた俺が、ルージャ山を脅かす存在を凌駕しようとしている。見下され続けていた弱者が、未来のために強くなったのだ。


 身体と心が繋がった気がした俺は、血を垂らして変色している右手を、再び握り締めた。頭の中に思い浮かんだ言葉を、魂から咆哮する。


 決意のソウル――― 恐怖を乗り越える道標ビヨンド・ザ・フォビア


 左頬を殴られたマルカは後ろへ倒れ、ピクリとも動かなくなった。俺は歪な望遠鏡を拾い、片膝を地面に落とした。


 雲が消えていく満天に向けて、もう一度手を伸ばした。


「この世界を歩いて、心星を見つける。……必ず、理想郷へ向かう」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る