0-0 家出
俺の名は
髪の毛が灰色で、右目に眼帯をつけている。この
おかげで家出を繰り返しているが、後悔は一度たりともしていない。憂鬱を追い払うために、気が付けば当てもなく放浪をしているのが普通である。
口をつぐんで、下を向くのが多くなったと意識した時から、人とは反対方向に歩くようにした。
前なら後ろ。左なら右。寝るなら起きる。食べるなら食べない。その小さな積み重ねの賜物が、俺の全身にまとわりついた。
何も考えずに世界を歩くという行動が、あらゆる苦渋から解き放ってくれる。俺の生きる糧となっているのは、間違いなかった。
さて、今回の動機も普段と変わらなかった。
会社から帰って来た瞬間から機嫌が悪い親父に怒鳴られ、浅はかな母に夕食を地面に叩きつけられた。知らない男をとっかえひっかえに遊び、散財ばかりしている愚妹だけが重宝されている。
この家庭環境は俺にとって、最悪としか言葉が思い当たらない。出て行かない人がいるのか、この目で確かめたいくらいだ。
冷たい廊下に寝転がったら、玄関が視界に入った。扉の向こうに、暗闇と夢が広がっていると知っている。手を伸ばさないのは、自害と同義である。
どうせ誰も気に留められないのを良いことに、あっという間に自宅が見えなくなる距離まで歩いていた。
街灯は割れているから、心許ない光しか出せない。向かい風に当たりながら、薄暗い道を進み続けた。
夜行性の野生動物に、襲われるかもしれない。折れた木の幹に、脳天を打ってしまうかもしれない。そんな恐怖は、一切無かった。
だが運悪く、整備されていない道路と春一番に煽られている木々に、大雨が降ってきた。
一粒が大きいので、打ち付ける音が非常に響き渡っている。さらには霧まで出現したので、視界は悪化する一方だ。
冬の終わり頃、ここら一帯の空は頻繫に灰色になる。高く重い雲が、突然現れるからだ。星々はその砂埃を貫けず、誰も見えない場所で輝き続けている。
風が更に強くなり、雷も鳴り始めた。石ころや落ち葉がどこかへ運ばれ、水溜まりが合体していくのを眺めた。
どの家もピタリと戸と窓を閉めて、明かりを消している。
だが数時間も経てば、風は過ぎて雨も小さくなった。雷も徐々に収まり、道に
まだ、太陽が昇る時間ではない。人々は、ようやく落ち着いて眠れる。次なる轟音である、サイレンさえ鳴らなければ。
夜中にも関わらず、警察が真面目に俺を探しに来た。ふらふらと
俺の言い分なんて、まったく聞き入れてくれない。それも当然、正しいのは彼らだ。俺じゃない。
前には三度も同じ目に遭えば、もう無計画に飛び出すのを止めようとも考えていた。学校にも行かず、物置小屋に籠って縮こまったりもした。しかし、その決心も少しずつ塵と化し、ついには一歩を踏み出してしまう。
家族が本気で心配しているなら、この癖は完成していなかっただろう。元々よく思っていない息子に、害でしかない癖がついた。
これを聞いたら、あらゆる憎悪を通り越して、どうでも良くなっていった。俺が一生帰らなくても、頭の中に留める暇は無いだろう。
俺自身、家に閉じこもっているより、どこかへ赴くのが好きになっていた。実際、県を越えるまで旅をした。たまには電車も使ったりしたが、基本は歩きである。
暑さが消えない夜の日や、大雪警報が出ている日にだって構わず、履きなれた靴と共にどこかへ向かった。
今回は早い方だと感じた。もうサイレンが聞こえてきた。再び静寂が破られ、大半が浅い眠りへ逆戻りしただろう。
俺を見つけて家に届けるまで、止まない音の嵐が吹き続ける。知らない人の睡眠事情なんて、まったく考えていない。
悪足搔きとして、行ける所まで走り出した。だがそれも虚しい努力となり、首根っ子を引っ張られる。
これで、放浪癖の幕が閉じられる。もはやルーティン化しているやり取りにも、辟易する。
そう言っといて、今日は簡単には捕まらない気がしていた。
たとえ近所と言えど、未知はすぐそばにある。草むらにほとんど隠れていて、今までずっと気がつかなかった。とても細い小道が、どこかへ伸びていたのだ。
知らない道を発見した俺は、少しだけ身体の重さが無くなった気がした。迷うことなく、中に入った。
車のライトに映らないように、しゃがんで草をかき分ける。後ろのサイレンが、遠くなった。結構な時間稼ぎができそうだ。
家一つすら見えなくなった所で、溜まっていた疲れが出てきた。ちょっとだけ、休憩することにした。
ズボンの汚れなど気にせず、地べたに座った。雨に降られたばかりなので、ぬめりが生地に伝わった。
足を伸ばし、両手を後ろに置いた。目を閉じて、深呼吸をする。その時に考える内容は、毎回同じである。
『どうかこのまま、遠くに行けたら』
この淡い願いを、いつもどこにもいない誰かに話す。返事がないのを確認して、乾いた笑いを出した。
前方から、ガサガサと草が揺れる音がした。風ではなく、人間の手によって出ている。
警察の執着心を、少しばかり舐めていたようだ。まさか、ここまで探してくるとは。目撃者でもいたのだろうか。
ここで音を立てたら、一気に走って距離を詰められるだろう。しかし、『このままやり過ごすことも不可能だ』と、脳内で直感的に理解してしまった。
この道を知れたのが今回の収穫ということにして、殺人鬼のように自首しよう。右膝を立てて、上半身を前に出した。
その時、視界の端に映ったモノに釘付けになった。
もう一度言う。俺は地獄を放浪している、と。ここには何の美徳もないし、
残念なことに、俺が求める理想郷も存在していない。それを常に認め続けてきた。
砂の中にある貝殻でさえも、俺より希望を持っているに違いない。今、足元にあるモノだって、はたから見ればぐしゃぐしゃで汚い。
だが俺からすれば、黄金の糸と同じくらい価値があるのだ。
警察が、すぐそこまで迫っている。目的を認識した瞬間、走り出した。だが俺はすでに、そんなことを気に留めていなかった。
手を伸ばした。
前から来るライトではなく、下に落ちているモノへ。気の迷いかもしれないし、僅かな希望を押し付けようとしたのかもしれない。
ともかく、この不吉な連鎖から始まろうとしている物語の序章に、一筋の光が舞い降りたのだ。
それが物語を突き動かす、素晴らしい教訓となるか。俺をこれからも苦しめる要素でしかなく、暗い運命しか照らさないのか。
どっちにしろ、俺が言えることは一つだけだ。
――――死にかけていた魂から
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