第一章 知らない世界
遭難編
0-1 不思議な出来事
少なくとも俺が住んでいた地域では――どんなに寒い日が来たとしても――アザラシの大群が転がって来るのは、ありえないと言い切れる。
気温が低いと言えど、彼らが生きられる環境ではない。ペンギンとアホウドリにも、お目にかかれる訳がない。
それにもかかわらず、動物園にでも行かなければ出会えない存在に囲まれていた。
詳しく話すとすれば、俺自身は寝転がっていた。だらしなく口を開けて、重い瞼を動かし始めた。
背中から、氷のような冷たさが伝わった。遠くで波が揺れる音がして、砂埃が舞い上がっているのが見えた。
察するに俺は、どこかに打ち上げられたらしい。
だが不思議なことに、船に乗った覚えが一切ない。
両手を使って、上半身を起き上がらせた。てっきり死んでいると思っていたらしく、アホウドリは驚いて一斉に飛んだ。
ペンギンは駆け足になり、順番に海へ戻っていった。アザラシは比較的落ち着いた様子で、どこかへ転がった。
しばらく呆然としていたが、衣服――灰色のパーカー、ネイビージーンズ。どちらも破れている箇所がある――を貫く寒さが襲いかかったことで、完全に意識が覚醒した。
空は素晴らしく晴れ渡っており、これから雨が降ることはないだろう。晴天にも関わらず、ここはとても冷えている。それこそ、俺の地元よりも断然と。
今度は立ち上がって、周りを見渡した。人影らしきモノは、見つからなかった。少しばかり歩いた先に、崖があった。絶壁という訳ではなく、途中から手を使えば登り切れそうだ。
一番上まで行き、後ろを振り向いた。海鳥の群れが甲高く鳴きながら、一面に広がる光の上を飛び回っていた。
ペンギンがいる崖の側面に、白波がゆっくりと打ち当たったと思うと、北風と共にうねり続けている。
ここは標高が高いので、景色を一望できた。住宅がちらほらあり、ひときわ目立った巨大な建物がよく見えた。
遠くの方には青紫色の山があり、その周辺だけ低くて暗い雲が囲んでいた。少し、恐ろしい雰囲気をまとっている。
『向こうに行けば、人がいる』と思った俺は、枯れ草交じりの草原を歩き始めた。崖の下よりは少ないが、ここでもペンギンが列を作って横断していた。
こんな近くに人間がいるのに、平常心を保っている。襲われない自信があるのか、単に興味がないのかは分からない。
草原を抜け、石が敷き詰められている小路まで歩くと看板を見つけた。近付いて読もうとしたが、何の言語なのか分からなかった。
形すらもまったく知らなかったので、解読するのは不可能だ。
「そんなに遠い国まで来たのか?」と、自問自答した。
だが白状すると、方法を何一つとして思い出せない。さっきまで何をしていたかすらも。暗い疑問の迷路に、迷い込んでしまった。
それでも歩きながら、脳味噌を回転させ続けた。思い当たる節を必死に模索していると、向こうから何人かが走ってくるのが見えた。
口をせわしなく動かし、両手足をできるだけ速く動かしている。髪型が乱れ、靴が脱げてしまっても、気に留めていない。その集団を見た人も、すぐに一緒になって走り始めた。
凝視する時間は、一瞬だった。何故彼らが全力疾走しているのか、その原因を理解したからだ。それを見てしまった俺も、本能的に来た道を引き返し始めた。
「はぁ?」と俺は、何度も集団の最後尾にいる存在に振り向きながら、疑問の声を出した。「なんだアイツ、顔しかない! サッカーボールくらいの大きさだ!」
犬や猫のように、人間の言葉は通じないらしい。もしも言語を理解していたら、身体は燃え盛らず、道路に向かって口から炎を出す訳がないのだ。
この二点を踏まえると、新種の生き物というより、怪物という言葉がお似合いだ。奴から出る声は全身の毛が逆立つほど、酷く
「クキーヤチョエッカ!」と、隣を走っている男性に怒鳴られた。
白人寄りの肌色で、白髪が混じり始めている。だがこの言語を知らない俺は、何度も同じことを言われても、首を傾げ続けることしかできなかった。
男性はやがて、話が通じないと理解したらしく、舌打ちを残して走る速度を上げた。それからも俺は、他の人――婦人や老人――にも同じ言葉を言われたが、全員に対して同じ反応をした。
いつまで走れば、あの怪物から逃れるか。誰もがそう思っていた矢先、眼鏡をかけた男性が前方を指した。
見ると、もう少しで分かれ道に激突する。恐らくだが、「右か左かに行こう」と言っているのだろう。
半分の確率で、彼らと同じ方向へ行ける。右に行くと草原へ抜けて、左へ行くと小路へ逆戻りする。
あの怪物が何なのか、まったく理解できない。『口から炎を吐き出す』という情報のみ、知れている。
もしも草原へ行ったら、その先にいるペンギンたちにも、被害が及んでしまうだろう。
最後の合流者であった俺は、必然的に先頭を走っていた。人の背中に従うのは、不可能だ。
「左だ」
直感に身を任せ、十秒だけ全力疾走をした。他の人たちが来てくれたか、後ろを振り向いて確認した。
映ったのは人ではなく、あの怪物だった。どうやら俺は、例によって貧乏くじを引いてしまったらしい。小路へ戻ったのは、ただ一人だった。
ここで一つ、疑問が
幻覚と幻聴を起こしてしまったのかと、勘違いしそうになった。怪物は相変わらず見えているので、俺の身体の機能は正常なのだろう。
炎によって、足場が火の海へと生まれ変わり、石が溶け始めた。背中が焼けるように熱いので、服を脱ぎ散らしたくなった。
今度こそ、どこまで逃げたら諦めてくれるのか、誰も教えてくれない状況になった。
逃げれば逃げるほど、被害も拡大していった。逃走の集団にいたのか、家に立てこもっているのか、俺以外の人間は一向に現れない。
長時間走るのは、実に久しぶりだった。暑さで汗がだらだらと出たのと、疲労が確実に蓄積された故に、限界突破していた。ついには、脚がつっかえて盛大に転んでしまった。
両手と顎が、道路にへばりついた。すぐに起き上がろうとするが、両脚は震えるばかりで、うまく動かせなかった。
後ろを見ると、怪物が目の前まで迫っていた。口を大きく開けて、火の玉を作り出していた。
『殺される』と直感した俺は、もう成す術がなかった。「やるなら一思いにしろ!」と叫び、両眼をキツく閉じた。これは悪夢に違いないと、心の中で言い聞かせながら。
「あぁっ、願わくば――明日のトップニュースに、なりませんように!」
あわれな人間に、神が慈悲でも与えてくれたのだろうか。
いつまで経っても、燃え盛る音も、焼け落ちる音も聞こえない。強張る身体に触れたのは、冷たい空気だった。
目を開けて上半身を起き上がらせ、首を動かした。黒ずんでしまった道は、悪化していなかった。
それから徐々に、俺の体温と道路が平熱に戻っていった。どうやら俺は、生きているらしい。
右を見ると、とあるモノが転がっていた。スイカを半分にしたような形だ。そこから出てきている液体は、ナスと同じ色だった。状況から推測すれば、怪物の血だとしか思えない。
胸の奥から何かが出そうになるが、必死にこらえた。その死骸は、勝手に塵となって消滅した。まるで、最初から何もいなかったかのように。
だが、道路にへばりついた血は消えていない。目で追うと、もう半身を踏んでいる足が見えた。
顔を上げると同時に、その人と目が合った。
俺は時が止まったようにして、澄んだ青色の瞳を見たのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。