鍋底で窒息する

母隆

第1話

1

「ちょっとコンビニ行ってくるね」

夕暮れ時、彼女はそう言って出ていったまま帰ってこなかった。既に盛り付けてしまったロールキャベツが冷めていく。

『いつ帰ってくるの?』

返信はない。






社会人になってから初めてできた彼女だった。寮ぐらしなのに契約したままになっていた、普段は帰らないアパートの一室に初めて彼女を招いた。昼下がり。俺が料理を作って彼女が手伝う。穏やかな時間だった。


三十分程経っても彼女は戻らない。

近くのコンビニまでなら、と帰ってすぐ食事にできるようによそっておいたのになぁと自らの分を箸でつついた。

仕方なく先にぬるくなったロールキャベツを食べる。うん、うまくできてる。

でも、もうちょっと煮込んだ方がよかったかも。芯まで柔らかい方がいい。今度はそうしよう。

早食いの俺が食べ終わるまでに、あつあつの湯気はもう少しも見えなくなってしまった。彼女の分の器を見ながら帰りを待つ。返信はまだない。


自分の使った皿を先に洗って待つ。ちょっとコンビニで三時間。もう夕食の時間から夜食の時間に差し掛かった。彼女の器にかけたラップに水滴がついていた。

薄々わかっていながら携帯が震えるのを待つ。昨日傷つけたばかりの腕がしくしく痛む。ゆるい部屋着の袖から傷口が見えておぞましい。ああそうか、彼女はこれが見えてしまって……

『もう帰らない』

新しい通知に了解のスタンプを返す。出来のいいロールキャベツを生ゴミに捨てながら、折角うまくできたのになぁと思った。








「……ごめん、急患が入っちゃって…どうしても先生がいいって言ってるらしいから、ちょっと出てくるね」

夕暮れ時、先生がそう言ったから、昔のことがフラッシュバックする。顔も名前も思い出せない彼女が一瞬先生と重なった。


二人で過ごしていた穏やかな時間を切り裂くような着信音が鳴った時、もう嫌な予感はしていた。甘い空気は掻き消えて先生が業務用の声で電話に出る。キッチンからふわりとトマトとコンソメのいい香りがする。今夜は先生のリクエストでロールキャベツだ。



「ごめんね、折角二人で晩御飯食べようって言ってたのに……」

いえ、いいんです。お仕事なら仕方ないですよね。

そう言え。言わなければと思う。

「……いつ帰ってくるんですか」

そう聞く自分の酷く低い声に嫌気がさした。帰ってくる約束が欲しかった。

「うーん……夕飯時には戻れるように頑張る……」

「あ、じゃあ俺もうちょっとロールキャベツ煮込んでおきますね。芯まで柔らかい方がいいと思うんで……」

ちょっとでもまだ喋っていたくて余計なことを言う。

ありがとう、食べるのが楽しみだなと言いながら先生はコートを羽織る。俺には絶対似合わないような淡い色が先生に良く似合っていた。

「おれ、待ってますから。一緒にご飯食べましょう」

玄関まで見送る。よっぽど情けない顔をしていたのか、先生は手を伸ばして俺の頭を撫でてくれた。ぱたんと音を立てて閉まる扉の向こうで、先生が小走りになったのがわかる。俺はしばらくその場で立ち竦んでいた。








くつくつと鍋が音を立てる。いい香りが広がって、思わず笑顔になった。柔らかさも十分そうで、これなら美味しく食べてもらえるだろう。時刻も宵の口に差し掛かった。そろそろ盛り付けの準備をしようかと考えて、手を止めた。先生はまだ帰らない。




『いつ帰ってくるんですか?』

メッセージを送ろうとして、削除してを繰り返す。返信がこないのが怖かった。すっかり夜になって、慰みに点けたテレビからくだらないバラエティー番組が流れる。先生はまだ帰らない。

火を入れすぎたロールキャベツはくたくたになって、数個崩れてしまっている。中から具がこぼれてしまう。こんなの先生に出せないなぁと苦笑するつもりが、口角を上げることすらできない。



そもそも先生が休日に呼び出される意味がわからない。先生じゃなきゃダメ?ふざけないで欲しい。一番先生を必要としてるのは俺なのに。思考が悪い方向に展開する。俺だって先生の患者のはずだ。恋人ごっこは治療の一環のはずで、でも俺はごっこでもよかった。好きと言われるのは嬉しいし、触れられると泣きそうなほどたまらなくなる。その好きを本当だと錯覚してしまうのが最悪だった。本当になればいいのに。シンクにはね返った自分の顔は、屈折していてもわかるほど引きつっていた。




これ以上考えたくなくて、引っ付きかけていた傷口を抉る。肉を引き裂く感覚。薄く血が盛り上がって、その瞬間は痛いということと興奮しか感じられなくなる。それで後から後悔する。また汚くなって見せたくなくなる。それでも我慢できないのは俺が病気で、患者だからで、だから先生は俺と居てくれて―――

考えを邪魔するかのように携帯が震える。



『もう帰らない』

薄々勘づいていた返信に息が詰まる。

俺はゆっくり立ち上がって、崩れたロールキャベツを生ゴミに捨てる。これで良かった。こんなの先生には出せないし。

排水溝にトマトの融けた赤い汁が流れる。全部無駄なことです。料理ができたって、力が強くたって、結局俺なんて











「……鳴木くん?こんなところで寝たら風邪ひいちゃうよ?」

「……先生?あ、え?おれ、寝て………え、どこからが夢で……」

最低の微睡みから引き戻される。机に突っ伏して眠ってしまっていたようで、枕にしていた腕が重い。つけっぱなしのテレビは放送休止のまま止まっていて、グレーのスウェットに少しだけ血が滲んで黒くなっていた。捨てて空っぽにしたはずの鍋はまだコンロの上に置かれている。



「ごめんね。患者さん、なかなか離してくれなくって。急いで帰ってきたから連絡も出来ないで……もう日付回っちゃうね。もしかして鳴木くんもご飯食べてないの?」

先生から香水とかではない優しいにおいがして、安心する。夢じゃない。先生の眼鏡が呼吸に合わせて曇る。

「……はい。待ってました。…………でも先生はもう帰ってこないと思ってた」

「うん…?なんで?」

「あ……いや、ちょっと悪い夢を見ちゃっただけです。もう内容は覚えてないんですけどね?」

「そっか……。もうご飯食べて今日は寝ちゃおうか?僕、ロールキャベツが楽しみで急いで帰ってきちゃった」

暗い空気を飛ばすように先生が言う。俺は憂鬱な気持ちで立ち上がって、鍋の蓋を開ける。破れたキャベツから中身が見えて眉を顰めた。美味しくしようとした結果、圧力に耐えきれなくて潰れてしまった。構いすぎると綺麗なだけじゃない、嫌な部分が露呈する。



「……ごめんなさい。崩しちゃって」

「え?崩れてるってほんのちょっとだし、それに見た目より味が命って言うし……というか、本当に美味しそうだよ、早く食べたいなぁ」


先生は優しい。駄目な俺は失敗した、なんて言いながら、それを否定されるのを待ってる。崩れた時すぐにでも捨てれば良かったのに残しておいたのは、先生ならそう言ってくれると期待してたから。優しくされるのを求めて、自分を卑下する。ほんとに駄目だねって、言って欲しい。癖になる前に。

でも、もう手遅れだ。もうそれがないと俺は生きていけない。










二人で食卓を囲む。先生は崩れたロールキャベツを美味しそうに口に運ぶ。お揃いのテーブルクロスとお箸、湯気を立てるスープ、切り分けたロールキャベツにふうふうと息を吹きかける先生。全部が幸せの象徴で泣きそうになった。

俺は明日からもまた不完全な料理を作って、許して、褒めてもらえるのをここで待ってる。

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