第2話 優雅な朝などない。

 怨魔業殺えんまごうさつ


 そんな言葉が脳裏をよぎり、目を覚ました。怨魔業殺えんまごうさつという言葉に覚えはない。奇妙な目覚めだった。


「……」


 寝ぼけ眼を擦りながら、時計を確認すると朝の六時四十五分だった。もう現場に向かっていなければならない時間だ。慌てて体を起こし、身支度を始める。


 忘れ物はないか。カンペ、台本、テープ、恨みをつづった手帳(近くにあるとなんか落ち着く)。頭の中を何度も確認した後、外に出ると、ゴミ袋を持ったお隣さんと目が合う。


「……」

「……こ、こんにちわ」

 

 気まずいので、軽く挨拶だけした。

 お隣さんはぺこりと頭を下げて、ゴミ捨て場の方へと向かった。


 お隣さんはいつも沈鬱そうな表情を浮かべている。色々と何か抱えているのだろうか。若く可愛らしいのにあれだけ塞ぎこむのだ。何も将来の希望を感じない自分が苦しいのも仕方ないのかもしれない。


「……くしゅん」


 背後からか細いくしゃみが聞こえた。まだ暑いとはいえ、ここ最近は夜も少し肌寒くなってきた。俺も自分の首を絞めないために、気を付けなければいけないな。


 ……くしゃみのした方向を振り返ると、見間違いか、お隣さんの口角が少し上がっている気がした。


 ・・・


 現場仕事において、下っ端に人権などない。配信会場入りから機材の運搬。配信キャンプの設営。香盤表の張り出し、楽屋・食事の準備。ダンジョン配信者の出迎えの準備ができたと思えば、再び会場の準備の手伝い。それが終われば5分で食事を済ませ、技術班との予行演習で台本を読み合わせる。その間に化粧担当が到着するので、楽屋へと案内。


 怒涛の工程を終えると、ダンジョン配信者が到着した。


 今日の主役のフェリルさんだ。碧眼と金髪のイケメン剣士。一流の兵士学校を主席で卒業し、文武両道。容姿と実力、社会的地位やカリスマ性があいまり、人気ダンジョン配信者らしい。特に女性人気も高いらしく、俺も詳しくは知らなかったが、この仕事を担当するにあたって調べてきた。

 

「おい、ちょっと」


 フェリルさんが到着したということは本番も近づいてきているということだ。このあとの打ち合わせと本番予行演習のために台本を読んで準備をしていると、何も仕事をせず、配信者のマネージャと談笑をしていた社長に呼び出された。


「お前さあ、なんで楽屋の食事、あれだけなの?」

「え?」


 俺が用意したのは軽食となるサンドウィッチと、お茶菓子。そこまで安いものでもない。ちゃんとここら辺で評判の良い店で購入してきた。それもわざわざ金にもならない早出をしてまで。


「十分だと思いますが……」


 思わず本音を言ってしまった。演者といえど同じ人間。そこまでへりくだる必要はあるのだろうか。その瞬間、社長の目がグワッと開いた。ブチギレているのが否が応でもわかる。


「お前さあ、本当に気が利かねえなあ。これからダンジョン攻略配信をするのに、あんな飯で足りるかよ。それにフェリルさんはクロワッサンが好きなんだから、来る途中の有名なクロワッサンと、それに合うシチューでもなんでも買ってくるべきだろ」


「ダンジョン攻略前に、そんな本域で飯食いますかねえ……」


 その言葉が火に油だった。


「あのさあ! お前もっと気持ちよく仕事できないわけ! お前がいるとみんなが不愉快になるんだよ!」


「……」


 確かに、俺はそんなに明るい方でもない。辛いのにそこから踏ん張って、無理矢理笑顔を作るほど気も利かない。しかし、これは明らかな人格攻撃だろう。自分がムカついてるだけなのに、『みんな』と主語を大きくしているところも気持ちが悪い。俺はそんな気を遣う給料も、正当な労働時間も与えられていない。


 まあウダウダと思考を撒き散らしても仕方がない。正直なところを言うと、

 てめえがやれよ。

 うぜえ。

 ぶっ殺してえ。

 これが一番大きい気持ちだった。


 心の中で憎しみを覚えつつ、頭を下げようとすると、社長は顔から汗を噴き出し、恐怖の表情を浮かべていたのが見えた。


 ……俺の恨みが漏れて、そんなに怖い顔をしていたか? しかしそれは見当違いだった。


「まあまあ」


 すると俺の背後から声が聞こえた。振り返るとその声の主は、フェリルさんだった。


「そんなに怒らなくてもいいじゃないですか。せっかく楽しい配信する前なんですから。僕のテンションも落ちちゃいます」


「フェ、フェリルさん。申し訳ございません」


 狼狽する社長をしばらく見据え、フェリルさんは一瞬で表情を切り替えて爽やかに笑った。


「それに僕、サンドウィッチも大好きですよ。おすすめのクロワッサンも教えてくれれば、勝手に食べに行っちゃいますし。ははは」


「ああ、それは良かったです。……おおぃ! お前も気に入ってもらえて良かったな!」


「……はい、今度機会があれば、評判のクロワッサンでも置いときます」


「ありがとうございます! 嬉しいです。じゃあ、僕このままだと肌ガサガサなのでメイクに戻ります。最近ケア怠っちゃって」


「いえいえ、十分綺麗ですよ! 何かあればお申し付けください」


「はーい」


 フェリルさんは手を振り楽屋に戻っていった。さすが売れっ子配信者。心の余裕を感じられる。懐も広く爽やかで、いい人だ。とても年下とは思えない。


「……あんまり怒鳴らせて、恥ずかしい思いをさせるな」


 勝手に怒鳴ったのはお前だろ。


「それにしてもすごい殺気出していたな。殺されるかと思った。……ちょっと煙草吸ってくる」


 社長はどこかへ行った。

 ……殺気? 柔らかな雰囲気しか俺には感じ取れなかったが。


「あっ、ブレイ」


 後輩のナイルに声をかけられる。五歳年下で入社も俺の方が早いが、年齢がはっきりしていないのか舐められているのか、初めて会ったときからずっと軽くため口だ。いつも少々の苛立ちを覚えつつ、特に何も言ってこなかった。


「ベースキャンプに置いてあるあの鞄ってブレイの?」

「え?」


「なんかめちゃくちゃ黒く光ってて、みんな怯えてたよ。見てると、寒気がするって」

「寒気? ……あー」


 寒気の意味はわからなかったが、鞄には覚えがある。確かにベースキャンプに鞄を置いてきたな。……でも光っていた?


「……ああ、前の現場で使っていた小道具が入れっぱなしなんだと思う。はは」

「ああ、そうなの。本番中に光ったらまずいんで、魔力電源オフっといてねー」

「了解」


 変な話だと思って、咄嗟に嘘をついた。

 ……まあいいか。言ってることがよくわからないが、あとで目立たない端っこに移動させておこう。

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