漢字人~カジト~

九戸政景

第1話

「……はあ、本当にどうなっちゃったんだ、この世界は」



 夕暮れ時、誰もいない公園のベンチに座りながら学生服姿の少年が一人呟く。吹き抜けた風が少年の短い茶髪を揺らす中、風に吹かれて足に新聞紙が纏わりつくと、少年は期待のこもった視線を向けた。しかし、すぐにその視線は失望の色に染まる。



「……やっぱり“漢字はない”か」



 その言葉と同時に新聞紙は再び風に吹かれていくと、少年は哀しそうに俯いた。



「この前、遂に漢数字すらなくなったわけだし、あるわけもないか。はあ……本当に漢字がなくなるなんてどうなってるんだよ。それに、少しずつ俺も使える漢字が減ってきた気がするし……」



 そう言うと、少年は思い付く限りの漢字を手のひらになぞり始める。そしてそれが一通り終わると、小さくため息をついた。



「……とりあえず自分の名前、字井あざい一記いつきは書けたし、今朝書けた分の漢字も一通り書けた。でも、これから俺も漢字が使えない事を不思議にも思わなくなるのかな……ウチの両親や学校のダチ、そして他の世間の人達みたいに」



 一記は寂しそうに言うと、携帯電話を取り出す。そして手早く操作してトークアプリの画面を開くと、そこには両親とのやり取りが表示されていたが、それを見た一記は更に辛そうな顔をした。



「……いつ見ても漢字だったところが平仮名と片仮名になってるな。漢字について聞いてみても、それって何って言われるだけだし、前なんて精神科に連れていかれそうにもなったからな……やっぱり禁句って事にした方が良いか。はあ……」



 一記はベンチの背もたれに体重を預けながら再びため息をつくと、そのまま首を後ろへと曲げた。すると、視界にはチェックのスカートとそこから伸びる二本の足が映り、その瞬間、一記は目を丸くした。



「……え!?」



 慌てて体を起こし、そのまま振り返ると、そこには艶々とした黒いポニーテールの少女がいた。明るそうな雰囲気を醸し出す少し小柄なその少女はクリクリとした目で一記を見ると、その薄い唇を嬉しそうに開いた。



「ようやく見つけた……」

「み、見つけた……?」

「あの、漢字ってご存じですか?」

「漢字……! 君も漢字を知ってるのか!?」

「はい、当然。とりあえずこの件についてお話をしたいので、私と一緒に来てもらえますか? 貴方もこの状況について知りたいですよね?」



 その問いかけに一記は大きく頷く。



「ああ、知りたい。どんどん漢字が消えていった事も漢字をみんなが忘れていった事も……その全部が知りたい」

「そうですよね。それじゃあ行きましょうか」

「でも、どこへ行くんだ?それに、今は学校帰りだから家にも連絡をしないと」

「大丈夫ですよ。貴方の事はご両親も一時的に忘れますから」

「え?」



 その言葉に一記が疑問を持つ中、少女は一記の両目を自分の右手で塞いだ。すると、一記の目はとろんとした物に変わり、そのままベンチに横たわった。



「いきなりでごめんなさい。でも、これしか方法は無かったから。だから、そのお詫びに……」



 少女はそのまま一記に顔を近づけると、静かに唇を重ねた。そしてそれを終えると、少女と一記の周囲には青い渦が出現し、二人がそのまま渦の中に消えると、公園には完全に誰もいなくなり、三度吹いた風は乗り手のいない二つのブランコを静かに揺らした。

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