3-2

ーあのとき目を開けていたら彼を刺してしまうことなんてなかったのかもしれない。


あのときアイツを家に上げなければあんなことにならなかったのかもしれない。


ううん。

そもそも距離を置いたりしなければ彼が死ぬことなんてなかったのかもしれない。


そう思えば思うほど後悔の念と殺意が襲ってくる。


事件の日を境に私は福岡の実家に帰っていた。


バイトも辞めて学校も辞めた。


ご飯はまともに喉を通らず、不眠症にもなってしまい、毎日のように睡眠薬を飲まないと眠れない身体になってしまった。


家族に相談して不同意性交罪として訴えたけれど、私を強姦したあの男は政治家の息子で多額の示談金で揉み消そうとしてきた。


不起訴処分にして前科をつけたくないのだと思うと身勝手すぎる思考に腹が立った。


でもお金の問題じゃない。


いくら積まれても心の傷が癒えることはないし、彼がかえってくることはないのだから。


ただ、裁判が長く続けば続くほどあの日のことが夢に出てくる。


彼が脇腹を押さえながら崩れていく瞬間の夢を。


もうあの悪夢は見たくない。


ニュースでは事故死ということになっていて詳細は明らかにされていないし大きな報道にはなっていない。


きっとこれも政治家であるアイツの親が関わっているんだろうと思った。


しかし、ネットの世界はそうはいかなかった。


なぜか私とアイツが付き合っていて、彼が浮気相手の設定になっている。


浮気を知った彼が乗り込んできてアイツを殴ろうとしたところを私が庇って刺したことになっている。


『浮気相手が殺人鬼だったなんてヤバすぎ』


『逆上して殴ろうとするなんてサイコパス。死んで当然』


『この彼女、綺麗な顔して二股とかただのビッチじゃん』


彼も私も散々な言われよう。


なんでこんな風になったのかはわからないけれど、これじゃあまるでアイツだけ被害者みたいな展開。


百歩譲って私のことをどうこう言うのは我慢できる。でも、彼のことをあげつらい、そしられたことがゆるせなかった。


だからといって何かができるわけじゃない。


気が狂いそうだった。


もうあの家にはいられないし、お姉ちゃんにも火種が飛ぶことを恐れて仕事を辞めて一緒に福岡に帰ることになった。


あの事件がなければお姉ちゃんはいままで通り普通に東京で仕事ができたのに私を責めることは一切せず、むしろ擁護ようごしてくれた。


アイツは私からなにもかもを奪った。


大好きな彼はもうこの世にいない。


それなのにあの悪魔だけのうのうと生きている。

それがものすごく赦せなかった。


そう思ったとき、

「ちょっと紫苑、これ観て!」


実家でニュースを観ていたお姉ちゃんが声を張る。


台所でお皿を洗っていた私は手を止めてお姉ちゃんのスマホを覗く。


その内容に驚愕した。


『衆議院議員の砂金 和至いさご かずし議員に収賄しゅうわい疑惑。さらに議員の息子が過去に強制猥褻わいせつしていた疑惑も浮上』


一生分の傷をアイツに与えてやりたいという胸の奥底に隠していた気持ちが蘇った。


久しぶりにスマホを取り出す。


ここには見たいもの、見たくないもの、知りたいこと、知りたくないことがたくさん埋められている。


ネットを開くと嫌な思いをたくさんするからずっと避けていた。


消せないままでいる彼との写真。


SNSに多くのコメントが寄せられている中、1つのコメントを契機に拡散されている。


『先の件で真実が発覚‼︎先日の東池袋の事件で亡くなった男性。実は被害者の交際相手で、強姦したのは砂金議員の息子だった!亡くなった男性は被害者を庇って亡くなった』


この書き込みをした人物の名は“カワハラ”。


これは偶然?


『あれ事故じゃなかったの?』


『浮気相手が本当の彼氏だったってこと?』


『これが本当だったらやばくね?』


『議員の息子ってことは金で解決されたのか?』


『サイテーなんだけど』


くだんの書き込みでネット上がざわついている。


数日後、みんなから連絡がきた。


西新宿にあるオシャレなレストランで女子会をすることになった。


東京に行くのなんていつぶりだろう?


あの事件以来気まずくなってしまい、連絡するタイミングを逃していた。


スマホを開くと彼のことを思い出してしまうから……


新幹線で東京に向かう。


飛行機という選択肢もあったが、たまたまキャンペーン中で安くチケットが買えたので新幹線で向かうことにした。


彼と一緒に乗った車両を思い出す。


そんな遠くないはずなのに遥か遠くの記憶に感じてしまう。


何でもない景色がペンキに塗られていくように心臓と海馬かいばを黒く染めていく。


斜め前に座る会社員がノートパソコンを開いて仕事をしている。


キーボードをカタカタ打つ音が大きくて五月蝿うるさい。

もう少し静かにして。


反対側に座っている若いカップルがスマホで動画を観てケタケタ笑いながらイチャついている。

人前でイチャつくなんて目障り。


彼がいなくなってから些細なことにイライラしてしまう自分がいた。


自業自得なのに自己嫌悪に陥る。


このままじゃダメ。


そう思ってある決意をする。


東京駅に着いてからある場所へと向かった。


「本当にいいの?」


「はい。お願いします」


久しぶりに東狐とうこ姐さんの店にいた。


何も言わずに福岡に帰ってしまって少し気まずさもあったけれど、いろいろとお世話になったからちゃんと挨拶しようと思った。


あの日から気持ちが落ち着かず、すべてに対して投げやりになっていった。


でもいつまでも落ち込んでなんていられない。


東狐姐さんはてっきりトリートメントかカラーリングだと思っていたらしく、ショートカットにすることを伝えたらものすごく驚いていたけれど、それでも理由は訊かず、10年ぶりに長い髪をバッサリ切ってくれた。


もう一ヶ所、どうしても行っておきたい場所があった。


西東京にある霊園。


彼が亡くなったことを知った遠い親戚がこの霊園にお墓を立ててくれて、そのことを美咲さんが教えてくれた。


私がお墓参りする資格なんてないって思っていたけれど、


「ちゃんと雪落に逢ってあげて」


彼のために言ったのか、それとも私のために言ってくれたのかはわからないけれど、昔から彼のことを知っている美咲さんだからこそその言葉に重みがあった。


ちゃんと謝らないと。


背中を押されるように電車に乗る。


東京駅から新宿と調布を特急で経由しても片道50分以上かかるから人混みの少ない時間を狙って行ったけれど、相変わらず人が流れてくる。


京王線の改札まで押し合うように歩く。


前を歩く60代くらいのおじさんが人を刺すかのように傘の先端をこっちに向けながら手を振って歩いている。


こういう人って周りの人のこと考えないのかな?


右手で引いて歩いていたキャリーケースがすれ違う人の足にぶつかって舌打ちと同時に睨まれた。


小さい声ですみませんと言って謝ったけれどちょっと腹が立った。


まだまだ気持ちが落ち着かない。


自己憐憫れんびんなんて言葉を使ったらバチが当たりそうだけれど、胸の奥で焦燥感と抑制心が独楽こまのようにぐるぐると回っている。


彼の墓が近づくにつれて身体が震えていく。


やっぱり彼に会うべきじゃないと思ってきた。


怖くて引き返したくなったけれど、美咲さんの言葉を思い出し、深呼吸をして前に進む。


名前の刻まれたお墓を見たら切なくなった。


誰かが挿したお花は少し枯れかけていた。


彼との思い出が走馬灯のように蘇る。


それと入れ替わるように彼の最期の姿が、断末魔だんまつまの叫びが目の前に映し出されてくる。


花を替え、線香を焚き、手を合わせる。


墓石の前でごめんねと言いながら水をかけると、ずっと我慢してきたものが溢れてきた。


ここでは泣かないって決めていたのに、泣くことすらゆるされないって思っていたけれど泪が止まらない。


私の想いを無視するようにどんどんと流れていく。


何度はなをすすっても慟哭どうこくしてしまう。


ーこれ以上ないくらい墓石の前でむせび泣いた後、紅く染まった瞳を拭って新宿近くのホテルでチェックインを済ませる。


待ち合わせは夜6時に西新宿の“LOVE”のオブジェの前。


ロバート・インディアナというアメリカ人が手がけた赤い彫刻のポップアートで、待ち合わせ場所としてもSNS映えとしても有名な場所。


目的地に向かっている途中、スマホに通知が来た。


「ごめん、間違えて逆方向乗っちゃった。これから新宿方面に戻るからちょっと遅れる」


これは私たちの中で毎回恒例となっている『恋ちゃんあるある』だ。


道を覚えるのが極端に苦手な恋ちゃん。


そういう私もも道を覚えるのは苦手なのだけれど。


上京したてのころ、新宿駅でひたすら迷った記憶がある。


改札が多すぎてどこを行ったら乗り継げるのか全然わからなかった。


道行く人たちはみんな急いでいる様子で道を開けるような雰囲気じゃないし、駅員さんに聞いても冷たい反応をされる。


東京出身の優梨は、都心部はそんなもんだから気にしたら負けだよ。と言って割り切ることを教えてくれた。


ーあの一件以来動いていなかったグループLINE。


止めてしまった原因は私だから申し訳ない気持ちでいっぱいだったけれど、マイペースな恋ちゃんを除いては即レスしてくれる優梨と里帆っちに口元が緩む。


今日会ったらみんなに謝らなきゃ。


時間より少し早く着くとそこには里帆っちと優梨がいた。


久しぶりの再会すぎてどんな顔をして良いのかちょっと戸惑った。


すると、私に気がついた里帆っちがニコッと笑いながら「のりしお〜」と言いながら抱きついてきた。


昔なら恥ずかしくて照れ隠ししていたけれど、久しぶりに呼ばれたあだ名と里帆っちの柔和な笑顔に懐かしさと嬉しさで泣きそうになった。


「のりしお、ショートカットにしたんだね!かわいい!」


「ありがとう。里帆っちはちょっとふっくらしたんやない?」


「久しぶりの再会の第一声がそれ?ひどくない?」


久しぶりでもこんな冗談の言い合える関係に幸せを感じる。


横にいた優梨が「もう大丈夫なの?」と聞いてきた。


彼のことを忘れたことは一度もない。


現実を受け入れようと頭ではわかっているつもりでも、何かがきっかけで崩れ落ちるかもしれない。


普段なら反射的に大丈夫と言ってしまうのに、優梨には本音が言える。


「だいじょばない、かな」


強がってもバレてしまうし、つくろうことを嫌うから何でも話せる。


「優しそうな人だったもんね」


うん、これ以上ないくらいに優しい人だった。


「紫苑のために必死になってくれる人だったもんね」


うん、私が駄目になるくらい愛してくれた。


本当に優しかった。


本当に本当に優しかった。


「少しだけだけど、雰囲気がわかったよ」


私がスマホを落として修理をしに行こうとした日、彼と優梨は不思議な夢を見て偶然出会い話したときにそう思ってくれたらしい。


私は優梨と梨紗っちに「心配かけてごめん」と深くお辞儀をして謝った。


お店は夜6時半に予約している。


まだ着く予定のない恋ちゃんをギリギリまで待つことにした。


結局恋ちゃんが待ち合わせに来たのは15分後。


お店には事前に電話していたのでキャンセル扱いにはならなかったけれど、恋ちゃんが支払いを多めにすることでチャラにした。


場所は西新宿近くにある高級ホテル内のレストラン。


エレベーターを上り、店の入り口に近づくと黒いスーツ姿の店員さんがドアを開けて「ご予約の荒川様ですね?お待ちしておりました」

と出迎えてくれた。


整髪料で整えられた短く黒い髪、奥二重の綺麗な瞳と柔らかな笑顔、180cmくらいの身長がその爽やかな印象を引き立たせる。


名札には酒匂さこうと書いてある。


里帆っちが好きそうな顔をしている。


案の定、横を見ると里帆っちは口元を緩ませながらニヤけていた。


白を基調とした店内には等間隔でシャンデリアが吊るしてあり、床はすべて大理石なんじゃないかと思わせるくらい煌びやかに輝いている。


こんなオシャレなところはじめて来た。


ざっと見た限りでも300席くらいはある。


窓際よテーブル席に案内され、高層ビル群が一望できる。


隣のテーブルにはスーツを着た経営者風のダンディな男性と女子アナ風の美人女性。


その奥にはきっとお金持ちの旦那さんをつかまえたんだろうなって思わせるくらいブランドものを着飾ったマダムたち。


そして何の仕事をしているか見当もつかないちょっとチャラめの男性たちがだらしなく座っていて、カウンターには常連らしき老人がボルドーグラスに入った赤ワインを片手に顔を火照らせながら店員さんと楽しそうに話している。


コース料理を運んでくる酒匂さんは凛々しく、紳士という言葉はこの人のためにあると言っても過言ではない。


それくらいスマートな立ち居振る舞い。


私たちは出てくる料理に感動しながら写真を撮っていた。


自分で言うのも何だが、4人が揃うと本当に五月蝿うるさい。


1つの話題が10にも100にもなる。


すると、そのすらっとした長い足でゆっくりと私たちの前まで来た酒匂さん。


「お客様、失礼ですが……」


ラグジュアリーな雰囲気とジャズが流れるムーディーな店内を壊すかのようなかまびすしさに注意されると思っていると、


「そちらはコトノちゃんでしょうか?」


里帆っちのポーチに付いているマスコットキーホルダーを見ながらそう言う。


きっとこの鳥のマスコットを言っているんだろう。


「コトノちゃん知ってるんですか?」


「えぇ。わたくし京都サンガサポーターなので」


「私もです」


里帆っちは大のサッカー好きで、小さいころから地元のサッカーチームを応援している。

昔サッカー部のマネージャーをしていたこともあるくらい。


サッカーのことはよくわからないけれど、2人の距離がぐーんと縮まった。


酒匂さんと話す里帆っちは乙女のような笑顔で飲んでいたキティのように赤く頬を染めている。


お酒なのか酒匂さんなのかはわからないけれど、すごく楽しそうなのは事実。


「もしかして、京都の方ですか?」


「はい。向日市むこうし出身です」


「すごく近いですね。わたくしは鶏冠井かいでの方です」


「鶏冠井なんですか⁉︎私もそっちの方です!」


ただでさえ目が大きいのに、さらに目を大きくさせて飛び跳ねるように喜んでいる里帆っち。


話についていけない私たちは静かに2人の会話を聞いていたけれど、当の本人は2人だけの世界に浸っているように無垢な表情で終始ニコニコしていた。


それからは私の話もちょっとしたけれど、せっかくの再会で重たい空気にしたくなかったからずっと気になっていたことを名付け親に聞いてみた。


私たちのグループLINEのKAWAHARAという名前についてだ。


「小学生のころね、クラスメイトに好きな人がいたの。その人の名前が香和原 翔平かわはら しょうへいくんって言うの。でね、彼はサッカー部のエースだったんだけど、中学に上がるとき、プロになるために京都府内の名門校に進学したの」


「結局彼とは何もなかったの?」


食い気味の恋ちゃんの質問に対し、


「チューはした」


それを聞いた私たちは声を出してテンションが上がる。


「それってさ、彼も好きやったんやないと?」


「どうだろ、わかんない」


「その人里帆ちゃんのこと好きだったと思うな」


「彼は推しみたいな存在だからいいの」


私と恋ちゃんの問いに対し、里帆っちの回答はどこか本心とは違う歪曲わいきょくされた切ない言葉に感じた。


それから他愛もない話をして店を出た。


最後まで酒匂さんに彼女がいるか聞けなかったけれど、里帆っちはなぜか満足気だった。


店を出ると街はネオンで輝いていた。


生ぬるい夜風はほろ酔い気分を覚ますにはちょうど良い。


里帆っちのマシンガントークは絶えず続いたので、新宿駅までみんなで歩くことにした。


歩きながらみんなに質問をする。


「このコメントあげたのってみんなだよね?」


スマホの画面を見せると、


「あの後、先輩アイツの本性暴いてやろうと思ってみんなで色々と調べてたんだけど、そしたらまぁ出てくる出てくる」


「先輩の過去すごくてさ、親の権力を武器に小学生のころからいじめを主導してて、中学時代はそれがエスカレートしてクラスメイトを使って万引きさせたり動物を虐待してたみたい」


「高校生のときなんか学校中の女子を食い漁ってたらしいよ」


優梨の言葉を皮切りに恋ちゃんと里帆っちが続く。


「しかもその寝た相手の写真や動画を勝手にネットにアップしてたのしんでたんだって。マジでイカれてるよね」


話を聞くだけで吐き気がしてきた。


バイト中の優しい振る舞いや笑顔は、画面の奥の獣の姿を隠すためだったのかと思うと、何とも形容し難い感情が芽生えてきた。


「ある程度炎上させておいたからきっといまごろは削除されてると思うよ」


優梨たちの暴露に当時の被害者たちが乗っかってくれたことで一気に拡散されたらしい。


馬脚ばきゃくあらわすのも時間の問題だと思う。


「先輩のこと調べてるときの優梨ちゃん、まるで探偵みたいだったよね」


「よっ!名探偵ゆりりん!」


恋ちゃんの煽りに里帆っちも便乗する。


みんなのおかげで心の奥のうみが少し取れた気がする。


天網恢々疎にして漏らさずてんもうかいかいそにしてもらさずだね」


「えっ?なんて?」


「れんれん、急にどした?」


恋ちゃんが聞いたことのない言葉を発し、私と里帆っちは一瞬硬直した。


「天網恢々、疎にして漏らさず。だよ」


当然知ってますよねのスタンスで言い直されてもさっぱりわからないんですが。


反芻はんすうしようにも文字がまったく浮かんでこない。


「悪さをしたものには天罰が下るって意味でしょ?」


優梨が意味を説明してくれたがそれでも理解できなかった。


初めて耳にする言葉に脳が追いついていない。


「いや、はじめて聞いたんですけど」


「そんな言葉どこで知ったと?」


「なんかね、私と優梨ちゃんの好きなゲームに出てくる推しキャラの言葉なの」


「敵をやっつけた後に剣を振りながら言うんだけど、クールで超かっこいいよね」


私も里帆っちもゲームをしないからわけがわからずポカーンとしている。


「里帆ちゃんも紫苑ちゃんもやってみて。無料でダウンロードできるから」


「う、うん。考えとく」


「私も」


いつの間にか話が脱線したけれど、どんなときも変わらず接してくれるみんなが大好き。


やっぱり持つべきものは友。


楽しい時間はあっという間に過ぎていった。


みんなとお別れした後、ホテルに帰る途中、私は最も会いたくなかった人に会ってしまった。












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