第3章 縁国〜ニルヴァーナ・アーカーシャ〜
3-1 リグレット
☕️
「……
どこからか声が聞こえた気がした。
一瞬だけだがその声に聞き覚えがあった。
久しぶりに聞く少し太いその声。
幼いころに亡くなった父さんの声だ。
生前の記憶が流れてくる。
ー家族4人揃って河原近くのキャンプ場で遊んでいる。
ジーンズを膝まで
横断歩道の白線だけを渡るように兄さんに続いて石の上を飛んで遊んでいると、
「慶永、あぶないわよ」
心配する母さんの言葉は俺の耳を素通りしていった。
リズミカルに飛んでいく父さんに続こうと兄さんがジャンプすると着地に失敗して川に落ちた。
子供でも足が着くほどの深さだったのに水の勢いは思っていたよりも急で、人の身体が紙切れのように簡単に流されていった。
急流に流されていく兄さんを父さんが急いで助けに行くが、自然の猛威は恐ろしく2人はあっという間に流されていった。
母さんは動揺を隠しきれずひどく
数十分後、兄さんは下流の近くの砂利で見つかった。
意識はなかったが息はしていた。
しかし、助けに行ったはずの父さんが見つかることはなかった。
遺体が見つかったのは数週間後の川のほとりだった。
🍦
福岡の田舎町で生まれ育った私は、
ホークスファンのお父さんは試合中いつも缶ビール片手にソファに座って中継を観る。
普段は寡黙なお父さんもそのときだけは、「いまのはストライクやろ」とか、「いまの球なんで打たんとや」とか、ちょっと怖いくらいに熱が入る。
とくにWBC(ワールドベースボールクラシック)っていう世界大会のときなんか画面に釘づけでテレビから一歩も動こうとせずお酒の摂取量もいつもの倍多かった。
お母さんは台所で食器を片付けながらお姉ちゃんと好きな俳優とデートするならどこに行く?という妄想話や、最新の美容グッズの話で盛り上がっている。
私はファッション雑誌を読んだり、ネットサーフィンをして暇つぶしをするのが我が家の日常。
高校2年生のある日、リビングでお母さんに進路について聞かれたときのこと。
この日もお父さんは缶ビール片手に野球を観ていたが、白熱した展開だったみたいでビールを飲むペースが早く顔が真っ赤だった。
私の夢はファッションデザイナー。
東京の学校でファッションを学びたいとお母さんに話していたとき、聞き耳を立てていたお父さんがソファ越しに口を挟んできた。
その内容は東京に行けばファッションの最先端に触れられることを話してもお父さんは
なんでダメなのか問いただしてもちゃんとした理由を教えてくれない。
この態度に腹が立ち、感情的になった。
「そんなんじゃいつまで経っても東京行けんやん」
リビングに不安な空気が流れる。
「本人が行きたいって言うなら行かせてみたら?」
お母さんが空気を戻そうと味方してくれる。
「そんな真っ赤な顔で言っても説得力ないけん、
冷静なお姉ちゃんが芯をつく。
神法家で男はお父さんだけ。
こういうときの男性は不利って聞いたことあるけれど、このときの我が家の状況もまさにそれ。
ばつが悪くなったお父さんはそこから私とは一言も喋らず再び野球を観だした。
私は気持ちを落ち着かせるため、冷蔵庫から新作のはちみつ味のアイスを取り出し、2階の自分の部屋へと戻ってYou Tubeを観た。
アイスを食べたら落ち着いてきた。
お父さんと喧嘩したのなんて何年ぶりだろう。
お酒が入っていたとはいえ、なんであんな頑なに東京行きを反対する理由がわからなかった。
ファッションだけじゃなく、どの世界で生きていくのも大変なのはわかっている。
でもやりたいと思ったことはやりたい。
だって一度きりの人生だから。
後日お父さんに東京行きを反対する理由を聞いてみようと思っていると、ドアをコンコンとノックする音がした。
ドアを開けた先にいたのはお母さんだった。
きっと心配して来てくれていたんだろう。
横並びでソファに腰掛けると、いつになく真剣な表情で話してくれた。
「紫苑が生まれてすぐくらいのころかな。お父さん東京で会社の経営をしていたことがあってね、友達と食品関係の会社を立ち上げて最初の2、3年は調子良くて徐々に軌道に乗り始めていったんやけど、4年目のときに新しく雇った経理担当の人にお金を横領されてしまったんよ」
お父さんが東京で経営していたことをはじめて知った。でもそれ以上に横領されていたことに驚いた。
「横領ってどのくらいされとったん?
「3年間」
「3年間も⁉︎そんなに長いこと横領されとって何で誰も気づけんかっと?」
お母さんによると、大口の支払い以外のもの、すなわち小口系の支払いの管理はすべてその経理担当に任せっきりだったみたい。
経営のこととかよくわからないけれど、管理体制が
「お母さんが経理をやればよかったんやないと?」
「ママに経理ができると本当に思っとる?」
たしかに。
いまだに
「まったく、なんでそんなに大事なこと1人に任せちゃうのよ」
「小さい会社やったし、それにその人すっごい美人さんやったみたい」
「なにその理由。ばり引くっちゃけど」
「ほとんど男の人ばかりやったし、みんな躍らされていたんやろうね」
「それで、会社はどうなったと?」
察しはついていたけれど、一応聞いてみた。
「多額の借金を抱えて倒産したわ」
やっぱり。
「じゃあ借金あると?」
お母さんがニコッと笑いながら、
「もう完済したけん、安心して」
でもそれって横領したその女が悪いんでしょ?
なんでお父さんが借金背負わなきゃいけないの?
なんだかイライラしてきた。
お母さんが言うには、密かに横領の証拠を集めていたお父さんたち役員の人たちがその女を問い詰めた結果、女は自供し後日逮捕された。
しかし、横領のほとんどは旅費やブランド品で消え、返済額は雀の涙ほどだった。
「まさか借金返済したのって」
心当たりが1人だけいた。
「そう、
天彦お爺ちゃんは九州で有名なスイーツ店を経営する
仕事中は怖いらしいけれど、私たち孫の前てまはいつもニコニコしている仏のような存在の人。
幼いころ、お姉ちゃんと走り回って遊んでいたときメガネを踏んで割ってしまったことがある。
そのときもまったく怒らなかった。
お母さんはその中空 天彦の三女で、高校が一緒だったお父さんに猛アタックして付き合った。
いつも明るいお母さんは他校の生徒からも告白されるくらい美人だけれど見向きもしなかったらしい。
一方のお父さんは休み時間に教室の端っこで本を読んでいるような人で、決して目立つような存在ではなかったみたい。
お母さん曰く、勉強ができて器用なお父さんは普段大人しいのにみんなでボーリングやビリヤードをする度に新記録を更新し、校内のスポーツ大会でも活躍する姿が格好良かったらしい。
何より顔がタイプだから好きになったって言っていたけれど、いまのメタボ体型といつもだるそうにしている表情からは想像もつかない。
女性と付き合うのはお母さんがはじめてっていうお父さんはいまと変わらず優しい。
タバコもギャンブルもしないし、夜遊びもしない。
天彦お爺ちゃんはほの誠実さを認めて大学卒業と同時に2人の結婚を
「お爺ちゃんもよう肩代わりしてくれたとね」
「事情が事情やったし、それに交換条件があったっちゃん」
「交換条件?」
①借金を肩代わりする代わりに地元に戻って中空グループに貢献すること。
②孫(私とお姉ちゃん)に何に一度必ず会わせること。
だから年末年始はいつも実家にお爺ちゃんがいたんだ。
「なんかすごく優しい条件」
やっぱりお爺ちゃんは仏のような人だった。
「でもお父さんが昔社長やったなんて想像もつかんのやけど」
「あのころのパパは生き生きとしててばり格好良かったんよ。どんなに大変でもママとの時間を大切にしてくれるけん」
昔を思い出して顔を赤らめるお母さんの姿を見て私もなんだか恥ずかしくなってくる。
「やっぱりパパとおりたかったし、支えてあげたいって思った。ほら、パパって家事苦手でしょ?」
いや、お母さんも苦手だと思いますが。
お洗濯もお料理も私とお姉ちゃんがやっていますが。
「パパからするとあまり東京に良い思い出がないし、紫苑ちゃんには同じ思いさせたくないって思っとるのかもね」
「でもそんなこと言っとったらいつまで経っても東京行けんやん」
「そやね。ママからも説得しておくけん、パパが素面のときにまた話そうや」
それにしても私とお父さんの誕生日を間違えたり、つい最近まで肘と膝を言い間違えていたり、塩と砂糖を入れ間違えたりするようなお母さんがこういうことを覚えているのはなんだか面白いというか可愛いと思えた。
後日、お父さんが素面のときに家族会議が行われる予定だったけれど、お姉ちゃんが東京の出版社に内定していたことがわかり、お父さんが折れた感じだ。
お父さんはなぜかお姉ちゃんには弱い。
気が強いからなのか口喧嘩が強いからなのかはわからないけれど、いつもお姉ちゃんの言うことには口出ししない。
ー東京行きの日、家族みんなで空港まで送ってくれることになった。
先に上京していたお姉ちゃんも有給を使って前日から実家に戻ってきていた。
車のトランクにキャリーケースを入れ、後部座席に座ろうとするとノアが小走りで寄ってきて尻尾を振りながら私を見つめている。
「ノアともしばらくこお別れやね」と涙声で言うと、私にシンクロしたかのようにクゥーンと寂しそうな声を出しながら私のそばを離れようとしない。
何度も離れようとしてもまた寄ってくる。
その度に私の涙腺が弱くなる。
運転中、お父さんはずっと無言だった。
その表情はどこか寂しげに見えた。
お姉ちゃんを送るときと同じ目をしていた。
お母さんとお姉ちゃんは相変わらずガールズトークで盛り上がっている。
博多空港に着くと、ずっと黙っていたお父さんが一言、何に一度は帰ってきなさいと言った。
その言葉には
お母さんはいってらっしゃいと笑顔で見送ってくれたけれど、その目は少し充血しているようにも見えた。
お姉ちゃんと一緒に検査場を通りしばしの別れを告げた。
そんな愛に溢れた家族が大好きだった。
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