第29話 9年と4.4km
カリカリ……。
夜、妙な物音がして目が覚めた。天井の端っこと壁が白い光に照らされているのに違和感を覚えて辺りを見回す。
隣の布団で寝てるはずの先輩はいない。それもそのはず、先輩は部屋の隅に寄せた座卓に向かっていた。灯りは先輩のスマホのライトであった。
「先輩、何してるんですか?」
「起こしてしまいましたか?」
先輩は振り返り、申し訳なさそうに眉尻を下げた。
薄闇の中にひっそりと佇む先輩はどこか幽玄で息を呑む美しさがあった。
「先輩、眠れないんですか?」
「いえ、私も目が覚めてしまって。もう一度眠ろうとしたのですが良い詞が浮かんだので忘れないように書き留めてるんです」
「また浮かんだかんですか? 絶好調ですね」
昼間からこちら、先輩はものすごい勢いでフレーズを紡いでいる。
俺でもここまで調子良く詞が浮かんでくることは滅多に無いので目を見張った。
お疲れだから休んでほしいが水を差すのは野暮だ。
俺は備え付けのポットから白湯を汲んで先輩に差し出した。
「今度はどんな詞が浮かんだんですか?」
「詞と言えるほどまとまってはいないのですが……。昼間に話した水平線までの縮まらない距離が似てると思ったんです」
「何に似てるので?」
先輩は少し言葉を区切り、表情に憂いを浮かべる。
「姉と私の距離です」
「文乃さんとの距離?」
「はい。私にとって大きな存在、できすぎた姉……」
先輩はペンを置いて作詞を中断した。
それこらカーテンを開けて窓の外に目をやる。夕刻の雨雲はいつしか消え去り、夜空には真円の満月が浮かんでいた。
先輩のお姉さんの文乃さんはとても良くできた人だ。学生の頃から相当優秀だったそうで、現在は北斉市の名門校『愛宕女学院』で教鞭を取ってる。
そんなお姉さんは先輩にとって憧れであり、劣等感の象徴だったそうだ。
「昔の私は姉を追いかけていました。運動も勉強もあの人に追いつきたくて。でも到底追いつけないと悟ってやめたんです。高校も本当は愛宕女学院を受けたかったのですが、合格したら教師の姉と比べられると思って別の女子高を選んだんです」
いつか辿り着けると信じた目標地点。
しかし大人になるにつれ距離が縮まらないことを知り諦めた。
なるほど、その二つは確かに重なる。
「でも大学は一浪してでも国立を選んだ。それは確かお姉さんへの引け目があったからでしたね」
先輩は現役で国立の北斉大学を受験したが不合格であった。その一年に再チャレンジし、念願叶って合格したのだった。
「一度諦めたのになぜまた文乃さんを追いかけようと?」
「なぜ……ですか。それも周りが期待していた……気がしたからですね。両親と姉は私の意思を尊重しましたが、きっと私に高みを目指してほしいと思ってると疑心暗鬼になっていたのです。結局歯を食いしばって耐えたのは自分の意思ではなかったのかもしれません。私は意志が弱い……いえ、意志が無いんです」
語る先輩の口調は自嘲じみている。流され続けた自らの人生を蔑むように。
「空李ちゃんに協力したのも姉への引け目でしたし」
それは違う。
確かに先輩は空李さんを合格させることで文乃を超えられると思い違っていた。
だが後に決意を新たにしてくれたではないか。
「空李さんへの協力は彼女を応援したい気持ちもあったせいですよね?」
「もちろん、それは嘘ではありません!」
殊更語気が強まる。そこだけは誤解されたくないとの頑なな意思を感じ取った。
「ですが動機は不純です。あの子を神輿にするような真似を……」
「先輩、そんなに自分を卑下する必要はありませんよ。誰だって立派な動機だけで行動するわけじゃありません。俺だってギターを始めたのはモテそうだからって理由でしたし」
「そうなんですか!?」
そうなんです。信彦に誘われた時、断ることもできたけどモテそうだから応諾したのだ。
「それに先輩を意志が弱いだなんて思ってません。むしろ強い人だとずっと思ってました」
「私が強い……?」
自己評価と真逆に取られて先輩は静かに驚いていた。
「はい。浪人にせよ、家庭教師にせよ、先輩は途中で投げ出さず最後までやり遂げました。最初の一歩こそ他人に動かされましたが継続したのは紛れもなく先輩の意志だったはず。それってすごいことなんですよ」
俺はさらに続ける。
「始める動機なんて皆曖昧で、そこに意志があるかは定かじゃありません。でも継続するには意志が必要です。その点、先輩は何事も意志を持ってやり遂げる強さがあります。それが先輩の強みです。そんな先輩を俺は尊敬してますよ」
「尊敬だなんて……よしてください。て、照れてしまいます」
先輩は俯いて声を上擦らせた。暗くてよく見えないがきっと顔を赤くさせているのではなかろうか。
「では俺からの気持ちはこの辺で。ですが最後に。文乃さんとの距離が縮まらないと思うのならそのことをはっきり歌詞に込めてみてはどうでしょう? 今あるモヤモヤした気持ちを形にして思い切り歌えばまた見方が変わってくるかもしれません。意志は一色じゃないんですよ。いろんな意志が重なり、時間と共に変化して七色なんです。その色を歌詞で表現してみてください。きっと素晴らしい歌になりますよ」
初志貫徹は確かに良いことだ。
だからといって志が変わるのが悪いなんてことはない。
大事なのは自らの意志で決めること。
続けるにせよやめるにせよ、自意識を欠いては何も得られないだろうから。
だが先輩は全て自らの意志で歩み続け、ここに至った。
まだ道半ばで志を成し遂げてないとしても形にする価値は十分にあるはずだから。
「はい、作詞も必ずやり遂げて見せます」
ずいぶん話し込んでしまった。もう丑三つ時で眠気もピークに至った。
明日に備えて床に着くことにした。
「あの、小早川君。寝る前にさっきのをもう一度言ってもらえますか?」
「さっきのというのは?」
「その……私のことを……そそ、尊敬してるというのを……。そんなこと今まで一度も言われたことがないので……」
そんなに喜んでもらえるのならお安い御用だ。偽りのない本心を言葉にするのだから。
「美墨先輩は尊敬できる先輩です。作詞、頑張ってください」
「はうぅ〜。頑張りましゅ……」
寝床の闇の中で顔は見えないがきっと紅潮していることだろう。
なんだか褒めてあげた時の空李さんみたいだ。
この二人、案外似てるのかもしれない。
そんなことを思いながら俺は眠りに落ちたのだった。
*
「お客様、昨日はお楽しみ頂けましたか?」
翌朝、チェックアウトする時に見送りに来てくれた女将さんがニコニコ笑顔で尋ねてきた。隣ではご主人もほっこりした笑顔である。
「えぇ、それはもう」
社交辞令ではない。藻屑町は目玉こそ無いが環境が良く、食と芸術にうってつけの町であった。おかげで昨日は充実した一日であった。
「それそれは。昨夜は二人仲良く……」
「え、昨夜ですか?」
「いえ、なんでもございません! またお二人でいらしてくださいね!」
昨夜とはいったいなんのことか。マッサージして作詞について話し込んだくらいだが……。
「えぇ、ぜひまたよろしくお願いします」
最後に礼を言って俺達は民宿海野を後にした。
「(昨日はずいぶん激しかったですね)」
「(うむ、俺達の部屋まで聞こえてたくらいだからな。こっそり部屋の前までいったが、ピロートークも完璧だったぞ)」
「(やだわこの人ったら、盗み聞きなんて! ……それでどんな風でした?)」
「(話の内容までは分からなんだが、甘い雰囲気でお嬢さんはメロメロって感じだったぜ。あのお兄さん、優男のくせになかなかやり手だ)」
「(あらまぁ、人は見た目によらないのね。さすがバンドマン)」
「(若いって羨ましい。俺のは燃え尽きてるからな)」
ご夫妻は玄関の外まで出て、仲良く会話しながら俺達をにこやかに見送ってくれた。
藻屑町、やっぱり良い人が多い町。
その後、俺達は藻屑駅から鉄道会社が手配した臨時バスに乗り、北斉市に帰還した。
行きと違い、海沿いの道を走るマイクロバスはのんびりしており往路より時間を食ってしまった。だがそのおかげで帰路の景色は違ったものに見え、これから新しい冒険に出る気がして少し胸躍らせた。
しかし実際には冒険は終わりだ。
バスは北斉駅のバス停に停車した。
「ようやく帰ってこられましたね。旅先も良かったですがホームが一番落ち着く」
陽の光を浴びながら伸びをし、地元の空気を胸いっぱいに吸い込む。うーん、懐かしいかな緑と排気ガスの匂い。
「それではここで解散にしましょう。また大学で」
「えぇ、二日間ありがとうございました。歌詞も大方できて充実した旅でした。清書してからまた見てください」
先輩との冒険はここでおしまい。明日からはまた勉強やバンドの練習を繰り返す日常が始まる。
と、思っていた。
「金吾、詩乃先輩。こんにちは」
俺と先輩のことを呼ぶ女の声。凛と涼やか、でもどこか張り詰めた声に俺は背筋に冷たいものが走る錯覚に陥った。
「りょ、涼子……」
そこにはなぜか満面の笑みを浮かべた神田涼子の姿が。
旅にトラブルはつきもの。
冒険に危険はつきもの。
だからといってこんなラスボスを用意するなんて、神様意地悪すぎません?
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更新滞ってすみません🙇
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