第17話 裸の心
がらんとした教室。
収容人数二百人はくだらない大きめの教室に美墨先輩と二人きりになった。
「それでご用件はなんでしょうか、先輩?」
最前列の席に座ったままの先輩はピクリと肩を跳ねさせた。その顔にはにわかに緊張の色を浮かべており、未だ切り出すか逡巡しているのだと匂わせた。
隣に座った俺は先輩が自ら切り出すのを静かに待った。
彼女は白魚のような指同士を机の上で絡め、第二関節のあたりに視線を落としたままだ。
が、やがて引き結んでいた唇を開いた。
「実は、小早川君にお願いがありまして」
「お願い?」
珍しいな、先輩が俺に頼み事するなんて。一体どんなお願いなのだろう?
「小早川君に見てほしいんです。誰にも見せたことのない私の……」
ほんのり上気した先輩が流し目で俺を射抜く。緊張しているのか、彼女の吐息は少し荒く、熱を帯びているようだった。
な、なぜそんな色っぽい視線で俺を見るのだろう?
しかも皆がいなくなった二人きりの教室で。
にわかに緊張して心臓がドクドクと強く脈打つ。
俺が戸惑っていると先輩は目を瞑り、自らの胸に手を当てて深呼吸をした。
その手つきを自然と目で追ってしまう。
『誰にも見せたことのない私の……』何を見せてくれるのか。
その手元を見て、ついいかがわしい想像をしてしまった。
少し薄くなった春物の服の下からたわわなバストがこれでもかと自己主張していた。
大学生ともなると身体は十分発育しており、キャンパスにはスタイルの良い女子学生を見かける機会は多い。
その中にあって美墨先輩は一際目立つものがある。何かと言えば……まぁ、胸だ。
先輩の胸は……でかい。とにかくでかい。
服の上からでも分かるが巨乳なんてものじゃ収まらない。きっとその辺のグラドルなんかよりよっぽど大きいに決まっている。
そんなご立派な二つの女性の象徴に俺は視線を釘付けにされていた。
正直……触りたい。というか挟まれたい。
「小早川君?」
「小早川金吾はハサまれたい……はっ!? 失礼しました。ちょっとぼんやりと」
願望がだだ漏れになっていた。
「それで見せたいものとは?」
「はい、こちらです……」
おずおずと先輩がトートバッグから取り出したのは藤色の表紙のノートだった。
ノート? なぜノートなの? もしかして本当にゼミの相談なの?
俺は怪訝に思い(断じてがっかりしたのではなく)、口をつぐんだ。
「実は私……昔から趣味で詩を書いているんです」
「そうなんですか!?」
こっくりと深く頷く美墨先輩。
「変、でしょうか?」
「とんでもない。素晴らしい趣味だと思いますよ」
どこか怯えた様子の先輩に俺は
詩を書くというのはなかなかどうして共感されない趣味だ。
でも俺は、美墨先輩に限らず良い趣味だと思う。
作詞をやっている俺だから分かるが、その時の気持ち――嬉しい、悲しい、腹立たしい、楽しい――を文字に起こすのは結構面白い。
しかも詩(あるいは詞)の面白いところは事実を書き並べる日記や手記と違い、何かに例えて表現するところだ。
一見関係のなさそうな事柄に作者の気持ちや思想が包み込まれる。
作者はどう表現すればきちんと気持ちが伝わるか、読み手はどう向き合えば気持ちを汲み取れるかを考える。
その営みが詩の文化で、醍醐味であろう。
万人に理解されないのはこの遠回しなプロセスが敬遠されるためであろうが、俺は大好きだ。
「読んでも良いですか?」
俺は居ても立ってもいられず先輩にせがんだ。
バンド界隈に作詞している人は大勢いるが、外の世界で仲間を見つけて俺はにわかに心を躍らせた。
先輩は何も言わず、代わりに耳まで真っ赤にした顔でコックリと頷いてくれた。
俺は先頭のページから順番に、一つ一つ噛み締めるようにじっくりと読んだ。
ボールペンで書かれた文字の羅列。全てが綺麗に書かれているわけではなく、二重線やばつ印で消したりなどされていて、試行錯誤を重ねていることがよく分かった。
その末に綺麗な字に蛍光マーカーを重ねてハイライトされた詩が出てくる。これが清書なのだ。
先輩のノートはその繰り返しだった。
その中で俺は一番最後のページに書かれた詩が目に止まった。
――
カレーに茄子を入れましょうか?
カレーに茄子は合うかしら?
どんな味になるか分からないけど、今日だけは入れてみましょう。
――
このタイミング、この内容に俺はピンと来た。
「先輩……この一番新しい詩はバンドに誘われた時の気持ちを書いたのでは?」
先輩はか細い息をしながら小さく頷いた。
やったことのないバンドに入るかどうか、それをカレーに茄子を入れるかどうかで迷う様子に投影するセンス、良いと思う。
「先輩、ユーモラスですね」
「や、やっぱり変ですか?」
「とんでもない! 迷ったけど挑戦する勇気が伝わってくる素晴らしい詩だと思います。それに、先輩の新しい一面を教えてくれましたし。結構可愛いこと考えるんですね」
「か、可愛いだなんて……」
ますます顔を赤くする先輩。もう茹蛸みたいだ。
一篇の詩というのは百の言葉よりも多くを語ることがある。特に流動的で本人でさえ掴みあぐねる心情をくっきり表したりするのだ。
この詩は最近の美墨先輩を俺に教えてくれた気がした。
バンドに誘われ、入るか悩んで、「えいや」と決意するまでの過ごし方を。
と、同時に俺の中である予想が浮かぶ。
「それで、詩を読ませてくれたのは……」
「はい、ノノイのオリジナルソングの作詞をやってみたいと思いまして……」
今日一番小さな声の美墨先輩。
ミーティングの時、微かに先輩の発言が聞こえた気がしたが、聞き間違いではなかったのか。
「ですが、やっぱりやめておきます」
「えっ、どうしてですか?」
ここまで打ち明けておいて、どうして二の足踏むのだろう。
「自信がありません。詩と歌詞では違うでしょうから私にはできませんよ。それに空李ちゃんは作詞も小早川君に期待しています。小早川君はあの子の推しなんでしょう?」
「えぇ、まぁ」
「推しの作詞家に自分が歌う詞を書いてもらうなんて栄誉なことです。それを私が奪うのはさすがにでしゃばりに思えて申し訳ないです」
確かにそこはデリケートな部分だ。空李さんはリコネス時代から俺の曲を愛してやまないガチ勢だ。だから作詞も迷わず俺に指名した。その背景があるから代打を願い出るのは勇気がいるだろう。
「でも、空李さんなら受け入れてくれると思いますよ。だって、親友が書いた詞を歌うのだって栄誉なことですし」
しかし熱意があるなら押し留めるべきではない。
友達のために書く。
友達に歌ってほしい。
こんな純粋な気持ちを胸に秘め続けるのは切ないではないか。
「親友、ですか? 私なんかを親友だなんて思ってくれているでしょうか? 空李ちゃんはお友達も多いみたいですし」
「もちろん、思ってますよ! 確かに空李さんは友達が多いみたいですね」
なんでも学科の全員と友達になったのだとか。恐るべし、陽キャ。
「でも、ドラマーにはお友達ではなく美墨先輩を誘いました。バンド活動するなら一年生の誰かを誘う方が時間に融通が効いて合理的なのに、あえて忙しい先輩を。それは先輩を特別な人だと思っているせいじゃありませんか?」
「それは……そうかもしれません」
先輩は頬を僅かに緩め、うっすらした笑みを浮かべた。頬を薄紅に染めたほっこりした顔はピンクの沈丁花に似ていた。
「
思い立ったが吉日。
せっかくバンドに参加したのだ。バンドの面白いところにはどんどん踏み込んでほしい。
「小早川君……。ありがとうございます。あなたに相談して良かったです」
そう言ってもらえて何よりだ。作詞家の端くれとして書いたものを人に見せるのはすごく勇気がいることは理解される。きっと先輩も自らを奮い立たせて相談してくれたのだろう。
「で、でも空李ちゃん達にはまだ内緒でお願いしますね。良い歌詞が浮かぶか自信がないので……」
ということで当初の割り振り通り、俺は作詞作曲しつつ先輩にも詞を考えてもらうことになった。
†――――――――――――――†
勇気を出して踏み出した詩乃。
彼女が作る詞とは……
金吾の弟が主人公の兄弟作『藍田姉妹はハサみたい❤️』もよろしくお願いします!
https://kakuyomu.jp/works/16817330668219472961
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