第14話 「下手でも怒らないでね」
「ホテルってシティホテルのことだったのね……」
窓辺のカウンター席に突っ伏す涼子の頭からぷしゅーっと湯気が出ている。
その後、やたら手を固く握りしめてくる涼子を怪訝に思いながら俺は北斉シティホテルまでの道を案内した。
シティホテルは市内の老舗で高級に部類されるホテルである。
エントランスは総大理石で、シャンデリアの輝きを上品に反射させてラグジュアリーさを演出しており、「さすがはシティホテル」と唸るものがあった。
涼子も壮麗さに心を射抜かれたのか、到着するやあんぐり口を開けて言葉を失っていた。
次にホテルの二階に店を構える『ハーバーサイド』というバーに案内したのだが、なぜか涼子は目を白黒させていた。まるで狐に摘まれたように、状況を飲み込めない様子だった。
「シティホテルのバーがテレビで紹介されてたから来てみたかったんだ」
「それならそうと言ってよ! ホテルっていうから別な所に連れてかれると思ったじゃない!」
「ご、ごめん。バーに行くって言ってなかったっけ? でも別な所ってどこのこと?」
言葉足らずなせいで涼子に勘違いをさせてしまったようだが、一体どこと勘違いしたんだろう?
問われた涼子は顔をますます赤くし、口をつぐんでバツが悪そうに視線をふよふよと泳がせた。
「わ、私のことはどうでもいいわ! 今日はどうしてここに?」
涼子は俺の問いには答えず、それどころか煙に巻くように強引に話題を切り替えた。サバサバした涼子らしくない会話の仕方だな。まるで心の内を見抜かれるのを恐れているみたいだ。
まぁ、重要なのはそこじゃないので一旦放っておこう。
さて、俺がなぜバイト終わりに涼子を――いや、空李さんとギクシャクしてしまっている涼子を飲みに誘ったのか。それは――
「お前を口説くためだ」
「どうせ空李ちゃんのバンドに誘うって意味でしょ!?」
おおう!? 全てお見通しか。さすがは涼子だ。
まぁ、夕方に誘った流れからすれば想像は容易か。
そう、俺は涼子をバンドに加えたい。
信彦が誘ってもダメだった。
空李さんが誘ってもダメだった。
だから今度は俺から誘うのだ。
涼子は大きなため息をついて手元のカクテルを一口飲んだ。それからパノラマウィンドウの向こうに広がる北斉市の夜景をぼんやり眺めたのだった。
視線の先には慎ましやかな、地方都市らしい街明かりが広がっている。さらに街の向こうには工場地帯の無機的な
そんな夜景を瞳に湛える涼子は綺麗だった。
北斉市の夜景は百万ドルどころか十万円くらいだが、秀麗な彼女の美貌をそこはかとなく飾り、際立たせていた。
どことなく憂いを湛えた表情で夜景を眺める彼女を見て、「そんな顔が似合うようになったんだな」と不覚にも女を意識してドキリと心臓が跳ね上がったのだった。
「せっかくのお誘いだけど、もう音楽はやるつもりはないわ。あんた達が楽しそうにバンドやってるのを近くで見られればそれでいいの」
冷静さを取り戻した涼子の返答は、やはりと言うべきか素っ気ないものだった。俺の妙な胸の高鳴りとは裏腹に。
まぁ、これは想定内だ。今までずっと楽器に触れてこなかったこいつが俺の頼みだからといって翻意するとは思ってない。
しかしてこのまま引き下がるつもりも毛頭無い。
「見てるのも良いけど、一緒にやる方が絶対面白いよ」
「やらないってば。私は大学ではサークルでウェーイってはしゃいでお気楽な思い出作ることにしてるの」
なんだよ、その目標。
「お気楽な思い出ってシルクロードの旅行か?」
「そうよ」
「うちのバンドは掛け持ちOKだぞ」
「サークルの勧誘かっての」
二人同時に吹き出した。確かに、そのセリフは勧誘シーズンの今はキャンパスのあちこちで耳にする。ボストン然りだがゆるそうなサークルでは決まり文句だ。
「旅行も楽しそうだな。国内にせよ海外にせよ、社会人になったら旅行なんてそうそうできないだろうから」
「あんたもシルクロード入る? 今年の夏は沖縄、冬は札幌に行く予定よ」
「めちゃくちゃ楽しそうだな!?」
って、俺が勧誘を受けてどうするんだよ。危うくミイラ取りがミイラになるところだったぞ。
「旅行サークルは一旦やめとく。俺が望んでるのは旅行の思い出じゃなくて、皆との――空李さんと美墨先輩との思い出だ。そこに涼子も加わってほしいと思ってる」
「……空李ちゃんのための思い出作りのバンドなら他の人を誘えば良いじゃない」
「空李さんだけのためじゃない。俺のためでもある。だから涼子との思い出が良いんだ」
涼子の柳眉がぴくりと跳ね上がる。
「旅行もそうだけど、バンドだって社会人になればそうそうできることじゃない。それどころか、この四人でバンドを組むのはこれが最初で最後のチャンスだと思う」
俺達もいずれ大学を卒業して働きに出る。だが近い将来、自分がどこで何をやっているかなんて想像もつかない。もちろん他の三人についてもだ。
ただ一つ言えるのは、きっとバラバラの道を歩むことだ。そうなっては一堂に会することは滅多にないだろう。バンドを組むなんて絶対無理だ。
この一期一会を大切にする意味でも涼子にも加わってほしいのだ。
「それに、よく考えると俺と涼子って一緒にいる時間が長い割に協力して何かをやったことってないだろ?」
俺と涼子の接点はいざ聞かれると答えがない。昔、同じピアノ教室に通ってたのとクラスメイトだったくらいで、他にこれといった共通項はないのだ。
趣味も部活も違うし、所属する学部も違う。
ただなんとなく一緒にいるだけ。
もちろんこの緩い関係は心地良いのだが、それだけで終わってしまうのはどこか寂しい気がしていた。
「確かに。一緒にやったことって、酒飲んでくっちゃべってるくらいね」
「もう少し何かあるだろ……。空李さんの家庭教師を協力してやったよな? ともかく、良い機会だから涼子と一つの目標に向かう仲間にもう一度なってみたいんだよ、俺は」
もちろんこれは俺のエゴだ。そのためだけに涼子に時間を差し出させるのは少し違う気がする。
俺達だけが楽しくなるために涼子に窮屈な思いはさせたくない。
「それに、涼子のためにもバンドに迎え入れて上げたい」
「私のため?」
なぜバンドに加わることが涼子のためなのか。
彼女は不可思議そうに首を傾げた。
「あぁ。昔、『音楽にいい思い出がない』って言ったよな。そのセリフ、結構ショックだったよ。音を楽しむ音楽が楽しくないなんて……なんだかすごく寂しい気がしてさ」
世界は音で満ちている。街を歩けばヒットソングが流れ、鳥や虫の鳴き声がどこからともなく響いてくる。
なぜ生き物が音を使うのか、小難しい理屈はいくらでもあるだろうがきっと『楽しい』というのも大事な理由なず。
だが音楽を忌避する涼子がその輪の中に入っていくことはこの先ないだろう。
俺も音楽家の端くれだ。そのためか、随分寂しいことに思えたのだった。
そんな俺だから、涼子に音楽を好きになれるよう尽くしてやりたいのだ。
「一人でピアノを弾くのは楽しくないかもしれないけど、皆でやる音楽は楽しいと思うよ。昔、すごく楽しそうにしてただろ?」
「昔? なんの話?」
「覚えてないか? 三年生の頃、俺のギターと涼子のピアノで軽くセッションしたの」
「あったわね、そんなこと」
パッと涼子は顔を華やがせて昔を懐かしんだ。
高校三年生のある日、音楽室でパート練習していた俺の元をふらっと涼子が訪れたことがあった。
その時、何か特別な会話をした記憶はない。ただなんとなく、二人で合わせてみたくなって涼子を鍵盤の前に座らせたのだ。
「最初は全然合わなくって、どっちが早いとか遅いとか文句つけあってたけど、だんだん形になっていったよな。あの時の涼子、すごく楽しそうだった」
「そ、そうだったかしら……。そこまで覚えてないわ」
ぷいっと赤くなった顔を背けられる。分かりやすいな。
あとひと押しだ。
「もう一つあるぞ。入試の日、俺と一緒に歌ってくれた涼子もいい顔してた。緊張してたけど、楽しそうだったし、何より応援したいって気持ちが表れてたよ」
音楽は気持ちを表す方法の一つだ。ゆえに楽しく、純粋な気持ちで実践できたのなら言うことはない。
「お前が音楽にいい思い出がないって言うなら、その記憶を塗りつぶしてやる。俺達のバンドの音楽で。もちろん、そこに涼子も加えて」
子供の頃、なぜあんな鬼気迫る表情で練習に打ち込んでいたのか結局のところ分からない。
それが原因で音楽から遠ざかるのなら理由を聞いてあげたい。
でもそれは今じゃない気がする。
彼女が自らの声音で表現してくれるのを待つべきだ。
涼子は十本の指の先だけをテーブルに置いて逡巡していた。
切れ長な双眸を細めた張り詰めた弦のように厳粛としており、ステージに上ったピアニストの緊張感を漂わせていた。
「ピアノ、もう随分触ってないわ。実家のピアノも下取りに出しちゃったし、あんたの曲についているけるか自身もない」
ブランクか。空李さんは涼子を経験者のキーボーディストとしてスカウトした。その期待に応えられるか不安なのだろう。
涼子は再び頬を紅潮させて唇を尖らせ、瞳に脆く潤んだ気持ちを湛えて俺を見つめた。
「だから、下手でも怒らないでよね?」
†――――――――――――――†
ようやくバンド結成!
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