第12話 Oh My Cool Bass !
遠藤美智雄が石原剛と初対面している頃、金吾と空李はデート――もとい楽器屋へ足を運んでいた。
*
大学から繁華街へ移動した俺達はデパートの一角にある楽器店へ足を運んだ。このお店は全国に支店のある有名な楽器屋で、特にギターを中心にしたラインナップが豊富な店舗だ。
なので俺は昔から何度も足を運んだため馴染み深い。しかし空李さんはやや緊張気味でソワソワ落ち着かない。陳列されたギターの数々にまん丸にした目で視線を注いでいた。
「いらっしゃいませ。また来てくださったんですね」
「あ、こんにちは。今日も来ちゃいました」
声をかけてくれた店員さんに空李さんが恭しく応じる。バンドをすると決めてからは顔を覚えられるくらいに通っていたらしい。
「きょ、今日はいよいよベースを買おうと思います! よろしくお願いします!」
「ごゆっくりどうぞ」
愛想の良い店員さんに見送られて早速ギターの陳列コーナーに。棚には数万円のリーズナブルなものから数十万円のプロ仕様までがずらりと並んでおり圧巻だ。
正直見ているだけでも十分楽しい。
「そういえば空李さんのご予算は?」
「七万円。親戚から合格祝いたくさんもらったけど新居の準備で大分消えちゃった。だからお年玉も大放出です!」
これが俺達大学生の限界さ。バイト始めたりするともう少し余裕出るけどね。
「買うベースは大体絞り込んでるんだけど、最後に金吾の意見も聞きたかったの」
「なるほど。空李さんにおすすめのベース……」
空李さんが初めて買う楽器。ステージ用も兼ねるだろうからできるだけ良いやつを選んであげたい。しかし予算は限られているのでほどほどになるだろう。
「俺だったら見た目が気に入ったやつを選びますね。つい触りたくなるくらい格好良いギターだと練習が捗りますし」
ギター初心者あるある。練習毎日しない。誰でも最初は初心者だから毎日少しずつでも良いから練習しないと上手くならない。当たり前だけどここで億劫になってインテリアにしちゃう人が多いそうだ。
「なるほど……だったらこのYAMAHAの赤いやつが好きかな」
YAMAHAは言わずと知れた日本の総合音楽メーカーだ。もの作り大国日本の会社らしくしっかりした作りに定評があり、愛用しているプロミュージシャンは多い。
目星はつけたので次に試奏するした。見た目の好みも重要だが、やはり音を聞かないことには決められない。
店員さんにお願いしてベースをラックから外してもらい、試奏用のアンプとシールドケーブルを借りて準備完了!
空李さんは丸椅子に腰掛け、ベースを膝に抱えた。
「おぉ……」
「左の指で弦を押さえながら、右手の人差し指と中指で交互に弾いてみてください」
「う、うん」
「押さえる弦やフレット(弦を押さえる位置のこと)を変えてみましょう」
言われた通りに空李さんの指がネックの上を動く。爪弾く指は辿々しく不自然なリズムだが、腹の底まで響く力強い音は間違いなくベースの音色だった。
「すごい……。格好良い音……」
口角の上がった空李さんの口からうっとりと、しかしどこか戦慄したような興奮気味の声が漏れ出る。
初めて手にした楽器で音を出す興奮は共感される。
ピアノに触った時のことはもう忘れてしまったが、高校生になってギターに初めて触れた時の感覚は今でもよく覚えている。
力強くてとんがったエレキギターの音は鼓膜を介して俺の魂を震わせた。その時から、俺はギターの虜になっていたのだった。
「私、これにする! このベースでステージに上がるの!」
キラキラした瞳の空李さんはこのベースにすっかり心を掴まれたようだ。
というわけでこちらのベースをお買い上げ。お値段税込69,800円。お予算ギリギリである。
「ケースはいかがなさいますか?」
レジに向かう道すがら、店員さんが尋ねてきた。
「このベースについてくるんじゃないんですか?」
「確かに付属ですが、生地の薄いソフトケースです。クッションが入ってませんし、防水仕様じゃないので水も普通に染み込んじゃいます」
「なるほど……。それじゃあケースも買っておいた方がいいですね」
「おすすめはこちらの耐衝撃防水のセミハードケースです!」
店員さんが勧めるのはダークグレーのオーソドックスなケース。ポケットもついているので小物も入れられる便利なアイテムだ。ただしお値段は13,200円。がっつり営業かけてくるな、この人。
「……お予算オーバーなのでまた今度の機会に。それまでこのベースちゃんは部屋に閉じ込めておきます。お外は怖いでちゅからね〜」
空李さん、高額な品々を目にして精神がほろほろになり始めてる。まるで過保護な母親のようにベースを労り始めた。
楽器店の商品ってどれも高いから買うのにメンタル削られますよね、分かります。
特に俺達学生は経済力が乏しいから購入は一大決心だ。さながら清水の舞台から飛び降りるが如し。
とはいえ練習のため大事なベースを携帯するなら衝撃に強いクッション入りのケースは買っておいて損はない。
「店員さん、このケースも購入します」
俺は勧められたケースを手に取る。
「き、金吾!? そのケースまで買っちゃうと予算オーバーだよ!? 私、今日は持ち合わせが……」
「大丈夫です! このケースは俺から空李さんへのプレゼントです」
「いいの? そんな高価なものを……」
一万円強の買い物は大学生といえどなかなか大きな買い物だ。でも俺に躊躇いはない。
「はい。空李さんのバンドデビューのお祝いです。大事に使ってください」
「金吾……ありがとう。私、金吾だと思って一生大事にするね、このケースを!」
「ベースを大事にしてくださいね!?」
プレゼントを喜んでくれてるようだがもっと大事にするものがありますよ? 楽器は繊細なのでお取扱注意です。
「お客様。初心者様にはシールドケーブルとミニアンプのご購入もお勧めします」
「…………予算オーバーなのでまた来ます」
「ケースと一緒に購入します!」
容赦ない店員さんのセールスにより、俺の財布は焦土と化した。
バンドマンは何かと物入りだ。
バイト、頑張ろう。
*
「えへへ、私の楽器、私のベース。これで私もバンドマンだ!」
ベースはその日のうちにお持ち帰りすることにした。
早く弾きたい空李さんは買ってあげたケースにベースを入れて背負い、鼻歌まで歌って上機嫌である。
「ねぇ、金吾。これから金吾の部屋に行っていい? ベースのお披露目会したいな」
空李さんは申し訳なさそうな上目遣いでおねだりしてきた。
もうすぐ日の沈む夕食の準備時。他人の家に上がるのは無礼な頃合いだ。もちろん俺としては空李さんにはいつでも来てもらって平気だ。だが……
「生憎ですがこれからアルバイトに行くので」
「あ、そうだったね。それじゃあまた今度遊びに行くね。その時は夜通しセッションしよう!」
さすがにセッションは気が早いような。その前にパート練習からしないと……とはあえて言うまい。せっかくのやる気を削いじゃ可哀想だ。
でも夜通し楽器を弾いてたら近所迷惑ですよ。
「(夜通しセッション!?)」
「(大学生はお盛んだな)」
「(ムキーー! 結婚相談所休止中の私への嫌がらせなの!?)」
ついでに往来ではしゃぐと通行人の方々にもご迷惑です。道路は皆のものだ。
「あれ、金吾……と、空李ちゃん」
交差点で信号待ちをしている俺達の背後から聞き馴染んだ女の声。
振り返るとそこに涼子が立っていた。
「涼子さん。こんにちは」
「こんにちは、空李ちゃん」
気さくに挨拶する涼子だがどこか気もそぞろ。その視線は空李さんの背中から突き出たダークグレーのケースに釘付けになっていた。
「ベース買ったのね」
朗らかで温もりのある柔らかな声。さながら妹を見守る優しい姉のよう。
しかしその実、無意識だが明確に『見守る』という意思の込められた
だから空李さんは素直に喜べず、一瞬表情を曇らせて俯いた。しかし刹那の後、視線を上げて涼子に少し背を見せた。
「はい、とうとう買っちゃいました! これで私もベーシストです! 私達のステージ、きっと見にきてくださいね」
カサカサした元気な声でベースを自慢した空李さんは青信号になった横断歩道をパタパタと忙しない足取りで渡って去っていった。
微かに見えた去り際の顔は悔しさと悲しさを滲ませていた。
空李さん、まだ涼子をバンドに入れるつもりでいるんだ。真新しい楽器を見せれば涼子も少しは興味を持ってくれると期待していたのだろう。
だがその希望は無情にも潰えた。
別に誰が悪いというわけでもない。
涼子は以前に誘われた時にきちんと断った。空李さんを傷つけず、同時に妙な期待を持たせないよう十分配慮して。
空李さんはそれを受け入れた。経験者だから分かるが、バンド活動はかなり労力を費やす。誘ったのが友達とはいえ応諾されて当たり前なんてことはない。むしろ断られるのが普通だ。それを彼女は予め理解していた。だから平気な顔をしている。
でも本心では平気なはずがない。
あんなに仲の良い二人だから、本気のお願いを断るのも断られるのも辛いに決まっている。
こんなことでギクシャクするなんて悲しすぎる。
俺がどうにか、してあげたい。
「なぁ、涼子。バイト終わったら付き合ってよ」
†――――――――――――――†
金吾は涼子を説得できるのか!?
次回、第13話「ホテル行こうよ」
お楽しみに。
†――――――――――――――†
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