第9話 (詩乃Side)今しかできないことを
空李ちゃんにバンドに誘われてしまった。
正直……ドキドキした。
音楽なんて普段聞かないので流行りの曲は分からない。
ロックバンドなんて興味も無かった。
なのになぜだろう、空李ちゃんからバンドに入ってほしいと言われた時、すぐにでも頷きたいくらい胸が熱くなってしまった。
でも……怖くて、頷けなかった。
*
その日の夜、私は台所に立って夕食の支度をしていた。
両親は共働きで間もなく帰るだろう。実家住まいの身なので家事は私の仕事でもある。
しかも今日は金曜日。ということは虎が帰ってくる……。
「ただいま〜」
ほら、帰ってきた。
「詩乃、ただいま。お酒は?」
「お風呂でもご飯でもなくまずお酒なのね、姉さん」
玄関から台所に直行。ひょっこり顔を出したのは私の姉の
ひとまわり近く年の離れた姉だが、親しい人でもないと間違えるくらい容姿の似通ったこの姉はかなりの酒好きだ。酒豪と言っていい。これで名門女子校・愛宕女学院の教師をしているのだから世の中よく分からない。
生徒からは慕われているので表では良い先生なのだろうが。
「今日の夕飯は肉じゃがよ。たくさんあるからお酒と一緒にどうぞ」
お酒だけ飲むと胃が荒れるものね。
「うふふ、ありがとう、詩乃。週末に詩乃の作った食事で晩酌するのが私の楽しみなのよ〜」
姉さんはジャケットとブラウスを脱いでキャミソール一丁になり、冷蔵庫からビール(ロング缶)を取り出してゴクゴク景気良く飲み始めた。
「ぷはぁ、沁みるわぁ! 新学期の初々しい空気は好きだけどやることが多くて疲れちゃうのよねぇ」
姉さん、相当お疲れな様子ね。でもストレス発散の道具にお酒を使うのは考えものよ。しかも家の中とはいえ良い歳した大人の女が胸(Jカップ)の谷間を曝け出して、みっともない。
「詩乃は飲まないの?」
「姉さん、質問しながら私の分のビールを空けるのやめてもらえる? せめて返事くらい待ってもらいたいわ」
本当に家ではお酒のことしか頭にないんだから。まぁ、付き合うけど。
そうしていつもの週末が幕を開けた。姉さんはいつも私が作ったおかずに舌鼓を打ちながら酒を飲み、仕事の嬉しかったことや辛かったことなどを吐き出す。いわゆる愚痴だ。その愚痴に付き合うのが私の役目。
しかし姉の口から生徒の悪口は一度も聞いたことがない。教え子に恵まれているのだろうが、悪口を言わないよう律しているのだろう。
教え子に悪いところがあれば陰口叩くのではなく指導してあげる。そんな教職の矜持をひしひしと感じるのだった。
そんな姉の愚痴だが、今日はなぜか耳に入ってこない。
「ちょっと、詩乃、聞いてる?」
なので姉は不満げに頬を膨れさせた。
「ご、ごめんなさい。ちょっと考え事しちゃって……」
「考え事……何か悩みでもあるの? お姉ちゃんで良かったら相談に乗るわよ」
ふっと姉さんの目元が緩む。その微笑みは姉として、そして多くの少女達を教える教師としての慈愛に満ちていた。
私は今年で大学三年生になった。でも一浪しているからもうじき二十二歳になる。もう立派な大人だ。それなのに姉さんに優しくされると甘えてしまいたくなる自分がいる。
姉さんのことは……好き。
でも姉さんが好きな自分は……あまり好きじゃない。
でもやっぱり自分は変えられない。
「実は今日、空李ちゃんからバンドやろうって誘われたの」
「空李ちゃんって校倉さん?」
姉さんの表情が一層綻ぶ。無理もない。空李ちゃんは姉さんが中学生の頃から面倒見ている教え子だった。私なんかよりずっと縁が深い。思うことがたくさんあるだろう。
「バンドってロックバンドのこと?」
「そう。でも私三年生だから無理かなって……」
「どうして三年生だと無理なの?」
不意をつく問い。まさかそんな当たり前のことを尋ねられるとは思わなかったため思わず言葉を途絶えさせた。
「どうしてって……三年生は忙しいの。就職活動が実質始まる年で、夏休みはインターンに参加しないと。バンドの練習してる時間なんてないわ」
「就活や勉強の合間を縫って練習すればなんとかなるかもしれないわよ」
簡単に言うんだから。姉さんは昔からなんでもできる優等生だ。そんな優等生にあっさり背中を押されてはたまったものじゃない。
「そんなのやったことないから分からないわ……」
「やる前から諦めてちゃ何もできないわ。校倉さんは詩乃の事情は知ってる? それでも参加して良いかよく話し合ってみた?」
それを聞かれると弱い。
姉さんは空李ちゃんの考えが手に取るように分かるのだろうか?
実際、空李ちゃんは当初就活のスケジュールなんて頭になかったが、知ってもなお私をメンバーに迎えたいと熱望している。
なぜだろう……そんな空李ちゃんがすごく大きな存在に思えた。
二の足を踏む私の手を引いてくれる心強い存在に……。
「それに、バンドなんて学生の今しかできないことよ」
「今しかできないこと……」
「そう。社会人になったら今以上に忙しいから音楽活動なんてままならないわ。少しでもやりたいって気持ちがあるなら、一歩踏み込んでみたら? 五年後、十年後に後悔しないようにね」
後悔しないように、か。ここで断ったら私は後悔するだろうか?
一浪してまで入学した北斉大。
だがその日々は実に無味乾燥だった。
部活やサークルにも入らず、ただ家とキャンパスを往復する毎日。
人付き合いは苦手で友達らしい友達もおらず、本だけがお友達。
好きなだけ本を読める毎日は幸せだが、このまま卒業してしまって良いのだろうか?
文化祭のステージで私以外の誰かが叩くドラムの音を聞いて。
それに合わせて空李ちゃんや小早川君が楽しそうに演奏する姿を眺めて。
そこにいるのは私だったかもしれないと悔しがるだろうか。
想像するだけで胸が苦しかった。
「私……やってみたい。空李ちゃんにも小早川君にもいっぱい迷惑かけちゃかもしれないけど、挑戦してみたい」
「ふふ、その意気よ。それに、バンドに入れば詩乃の夢が叶うかもしれないわよ?」
「夢……?」
「あの紫のノートに書いてた――」
「どうして知ってるの!?」
我を忘れてテーブルを叩いてしまった。
なぜ姉さんがあれの存在を……? お母さんにも秘密なのに。
「前にリビングに置いてあったから、つい……」
「っ――!?」
迂闊だった……。顔から火が出るくらい恥ずかしい。
*
夕食の片付けを終えて自分の部屋に引っ込んだ私はスマホで空李ちゃんに電話をかけた。二十一時を回って遅い時間だが空李ちゃんはすぐに出てくれた。
「空李ちゃん、昼間のバンドの話だけど、ぜひお受けさせてください」
『本当ですか!? ありがとう! 金吾、詩乃さん引き受けてくれるって!』
電話の向こうから大はしゃぎな声が響いてくる。それと一緒に小早川君が宥める声も聞こえてきた。
「小早川君と一緒なんですか?」
『うん! 金吾の部屋で作戦会議してたの。詩乃さんが引き受けてくれなかった時のこと考えてたけど、もうこのプランはいらないね! 詩乃さん、本当にありがとう! これからよろしくね!』
「こちらこそ、よろしくお願いします」
それから私達は二、三点これからのことを話して電話を切った。
通話は終始興奮気味だったが、終了してもなお動悸は治る気配がない。
当たり前だ。私はどこか期待しているのだ。
これから私の青春が始まるんじゃないかと。
私は通学用のトートバックから一冊のノートを取り出した。肌身離さず持ち歩く藤色のノート。
その表紙をそっと撫で、これから待つ日々に一層の期待を寄せたのだった。
†――――――――――――――†
三人目のメンバー参加!
ドラムは詩乃で決定です!🥁
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