第8話 「もう歳なので」
緑豊かな北斉市の郊外、山の麓に北斉大学のキャンパスはある。
市のターミナル駅からバスでおよそ二十分。この路線を使うのは大概学生で、朝と夕方は若者達で混み合っている。
「講義ダルいわー」
「今日サークルの日だよな?」
「身体動かしたいなー!」
車内では学生らしいユルい会話が繰り広げられている。
一方で
「チアのユキエとヤったってマジ!?」
「マジだぜ」
「どうだった?」
「キッツキツww。やっぱ運動部は締まりが良いわww」
などと聞くに堪えない猥談まで流れ聞こえた。
あの、お楽しみのところ恐縮ですが女子学生もご乗車されてるんですよ?
隣に座ってる空李さんなんて、聞こえないふりしてるけど絶対聞こえてるよ?
目を瞑って知らんぷりしてるけど耳まで真っ赤だよ?
新歓など交流会があちこちで開かれる時期。開放的な気分になるのは分かるが場所を弁えようね。
女子校出身で異性経験が少なかったり、下ネタが嫌いな人も世の中に入るんだからさ。
そんなバス通学を終えて北斉大学へ到着。本日、俺と空李さんは午前のコマが空いてたため、一緒にランチを食べて大学まで来たのだった。
女の子と二人でランチして学校に通うだなんてデートっぽいが、あいにくと今日の俺達には歴とした目的がある。
「金吾、早く行こう!」
「ま、待ってくださいよ、空李さん! 部屋にいるとは限らないんですよ?」
バス停に降り立った空李さんは校舎に向かってウサギみたいに軽やかにスキップする。これからある人に会うつもりだが待ち切れないらしい。
とはいえアポ無しのサプライズ訪問なので空振りに終わるかもしれない。だが俺はその人の予定をある程度把握しているのでおそらく会えるだろう。
向かったのは二つある文科棟の一号棟。文学部や外国語学部など語学系の先生達の研究室や教室のある建物だ。文学部に属する俺には馴染み深い。
目的の部屋に進むまでの間、すれ違う誰もが空李さんに目を奪われていた。
空李さんに自覚はないだろうが、彼女はなかなか目立つ。大学デビューしてすっかり派手な見た目になったし、元々可愛らしい容姿なのでどうしても男子の目を引く。
しかも入学式で新入生代表を務めるんだもん。おかげでちょっとした有名人だ。
「到着しましたよ」
やってきたのは棟にいくつかあるゼミ室。その名の通り学生がゼミで学ぶための小規模な教室である。
「失礼します」
空李さんはコンコン、とノックをして中からの返事を確認してそっと戸を開けた。こういう礼儀正しい所はお嬢様学校のOGだと頷かせる。
今は昼休みで午後のコマが始まるまでまだ時間がある。なのでゼミ室に学生はほとんど集まっていない。中にいたのは一人の女子学生のみ。
俺と空李さんの先輩で、空李さんにとっては三人目の家庭教師でもあった美墨詩乃さんである。
二年生の俺は今年から美墨先輩と同じゼミに配属されたのでゼミ室にいるとアタリをつけていたのだ。
「詩乃さん、こんにちは! 休憩中ですか?」
「こんにちは、空李ちゃん。お久しぶり。小早川君もこんにちは。さっきお昼食べて、今は読書してたところですよ。一号棟に来るだなんて珍しいですね。今日はどうしたのかしら?」
「えへへ、実はね、詩乃さんにお願いがあって来たの」
「お願い、ですか?」
はてな、と小首を傾げる美墨先輩。空李さんはお母さんにサプライズで誕生日プレゼントを渡す女の子みたいな満面の笑みを浮かべて切り出した。
「詩乃さん、私のバンドに入ってドラムやってください!」
「…………………………………………………………………………………はい?」
「やってくれるんですね! ありがとうございます!」
「落ち着いてください、空李さん。その『はい』は引き受けるやつじゃないですよ」
とんでもない間がありましたよ。美墨先輩、目を点にして棒立ちになってますよ。
「えっと、空李ちゃん? バンドというのは音楽のバンドですか?」
「そうです!」
「で、ドラムというのは太鼓やシンバルの……?」
「そうです!」
「むむむ……」
先輩は人差し指をほっぺたに当て、眉間に皺を寄せて唸った。いつもはゆったりした先輩がこんな複雑な顔するのは珍しい。
「な、なぜ私を誘うのでしょう? 最後に楽器に触ったのは小学校のリコーダーの授業が最後なのですが……」
「そ、れ、は、詩乃さんとバンドやりたいからです!」
明朗快活。空李さんが先輩を誘ったのはただそれだけのことだ。
「私達って受験シーズンはあんなに一緒にいたのに、大学に入ってからはあまり会えないじゃありませんか。私、寂しいんです。でもバンドを組めば練習で顔を合わせる機会が増えますよね!?」
「空李ちゃんに会えなくて寂しいのは私も一緒ですが、それなら一声かけてくれればお昼くらいご一緒しますよ?」
「うーん、そういうふわっとした関係ではなく、私は詩乃さんと一緒の活動がしたいんです!」
息巻いて熱弁する空李さん。その白熱ぶりに先輩のみならず俺までも驚いてしまった。
「詩乃さんとは学部も学年も違うから、この先関わることってあまりないと思います。LINEで約束してちょっとお茶をするのもいいですけど、私は詩乃さんと同じ目標に向かっていくような強い結びつきがほしいんです」
真っ直ぐな瞳で語る空李さんの気持ちはよく理解できた。
大学は高校までと違って学生同士の結びつきが緩い。同じ学科でも名前の知らない人がいることもザラだ。まして他学部となれば外国人も同然である。
そんな環境下で漫然と過ごしていれば人との関係はどんどん希薄になっていく。かつての友達だろうと、家庭教師だろうと。
それに抗うには集まりを作って意図的に顔を合わせるしかない。美墨先輩を誘ったのは単なるドラム担当だけでなく、仲を一層深めたいとの願望あってのことなのだ。
先輩もその意図は容易に察せられたことだろう。感情を瞳に
かくして先輩の返事とは……
「少し……考えさせてください」
と曖昧なものだった。
空李さんの眦が不安げに下がった。
「ダメですか?」
「ダメではないです。ただ……」
「ただ?」
「自信が無いです。楽器はほとんど未経験ですし、楽譜も読めません」
先輩が躊躇う理由はドラマーが務まるかという不安であった。
まぁ、音楽未経験者の不安としてはごく普通であった。
「大丈夫だよ! 私もリコーダーしか経験無いけど、これからベース始めるの。音楽のことは金吾が教えてくれることになってるから、詩乃さんも金吾から教わりなよ!」
「小早川君に?」
チラリと遠慮がちな視線が向けられる。
「俺はバンド経験者なのでメンバーには手取り足取り指導をするつもりです。ドラムは担当じゃありませんでしたが、教えられることはあるはずです。それに未経験なことを不安視することはありません。誰でも最初は初心者なんですから」
俺だけじゃない。信彦も結愛も最初は素人だった。それが練習を重ねることで上達し、ステージに立てるくらいになった。最初からできる人なんていない。
俺はメンバーとして当然の申し出をした。だが先輩は思案顔を崩さず俺の瞳をまっすぐに見つめる。
そこで俺は失言だったかと危ぶんだ。
というのも美墨先輩には『男嫌い』の噂がある。これだけの美貌なのに男の気配がないばかりかゼミでも男子学生とは距離を置いているし、山科などには刺々しいまでの態度を取る。
きっとイヤらしい目で見られるのに嫌悪感を抱くのだろうと察して、俺はあまり失礼のないよう接してきた。そのおかげでこうして他の男子よりは幾分か打ち解けている。
だが今の言い方は少々馴れ馴れしすぎたか。『手取り足取り』なんていかにも親密で、変な下心を疑われてやしないかと不安になった。
「えっと、お節介でしたらもちろん自主練でも構いませんが……」
「いえ、お節介だなんて。むしろ経験者に教われるなら良い機会です。心配なのは十分練習できず足を引っ張ってしまわないかと……」
先輩は物憂げに俯いた。
「三年生なので就職活動も始めなくてはいけません。夏になればインターンに参加しないと……」
「えぇ!? 三年生から就職活動するの!?」
空李さんはギョッと目を向いて声を上げた。だが俺にとってはさほど驚きはない。大抵の二年生以上の学生はキャリアセンター主催のセミナーに参加しているからだ。
「今の就活ってそんなもんですよ、空李さん」
「がーん。さよなら私のキャンパスライフ……」
そんなこの世の終わりみたいな顔しなくても。
「勉強と就活とバンド、三つを立てられるか自信が無くて。なので心苦しいですが辞退しようかと。もう歳ですし」
「いや、歳そんなに変わんないですよね。老いさらばえたようなこと言わなくても」
三年生になって忙しくなると老け込むのだろうか?
「むぅ〜。私、どうしても詩乃さんと涼子さんを入れてバンドを組みたかったんです!」
「涼子さんも?」
「はい。でも涼子さんには断られちゃったから、詩乃さんには是が非でも入ってほしいんです。そしたら涼子さん、考え直してくれるかもだから。色々忙しいだろうけど、もし一パーセントでもやりたいって気持ちがあるなら考えてもらえませんか!?」
空李さんは先輩の手を握り、熱を帯びた視線で懇願した。彼女の願いは受験生時代の四人を再結集させること。涼子に断られて意気消沈していたが、やはりまだ諦めてなかったか。
先輩は長いまつ毛の瞼をそっと閉じ、黙々と思案した。やがて、
「少し、考えさせてください」
切なげにそう告げたのだった。
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大学三年生って学生の中で一番忙しい時期じゃないでしょうか?
ちゃんと練習できるか不安になりますよね💦
次回は詩乃視点のお話です。
もちろん文乃さんが登場します(笑)
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