第49話 (金吾&信彦)誰ガ為のギタリスト(前編)

「ほら、サインしたよ」


 署名した紙を信彦に渡す。信彦はパァッと顔を明るく綻ばせた。曇り空にかざして仰ぐ様子は神からの恵みものを受け取ったような歓喜が滲み出ている。


 本当にピンチなんだな。でもこれでリコネスの危機は去るはず。


「なぁ、信彦、ちゃんと説明してくれよ。リコネスがピンチってどういうこと?」


「ふふふ、それはだなぁ――ふゲブ!?」


 突然、不敵にほくそ笑んだ信彦の身体が宙を舞う。猛スピードの車に撥ねられたみたいに放物線を描く彼の身体は向かいの家の塀に激突し、そのまま地面に転がった。


「信彦ぉぉ!?」


「ぐぬぬ……いてぇ……いてぇヨォ……。一体誰だ……」


 へたり込んだ信彦は頬をさすりながら呻き声を上げる。


 一体何が起こったのか……。


 戸惑う俺の視界の端、車の陰から人影が現れた。


「げ……涼子!?」


 ザッ、と地面を踏み鳴らして登場したのは涼子だった。鬼の形相を浮かべ、へたり込む信彦をじっと見下ろした。


「すまないわね、信彦。私はあんたを殴らなきゃいけない。殴っとかないと気がすまいないの」


 ポキポキ、と涼子の拳が鳴る。指輪のモデルにもなりそうな彼女の美しい手が大の男に制裁を下したのだった。というかそんなパンチの持ち主だったんですね、涼子さん。


「金吾のこと裏切っておいてよくもまぁノコノコと顔を出せたものね」


「う、うるさい! お前に用はないんだよ!」


「その態度、全く反省してないみたいね。……あら、この紙は何かしら?」


 涼子が足元に落ちた紙を拾い上げた。


「は……それは!?」


「『著作物利用許諾の覚書』……何よ、これ!?」


「ぐぬぬ……そ、それがないと俺はステージに立てないのだ。だから返せよ!」


「どういうこと? あなた達、オリジナル曲は今後も使って良い約束してたのよね?」


「そ……それは……」


 信彦はキマリ悪そうに視線を泳がせて口をもごもご蠢動させた。釈然としない態度に俺はどんどん怪訝になるが、彼の口から答えは返ってこない。

 代わりに涼子がわけ知り顔で口を開いた。


「ははーん、さては信彦、曲の使用許可はもらったけど口約束で済ませたから東京の人に信用してもらえなかったのね」


「ギクゥ!?」


「そうなのか、信彦!?」


「そうだよ! だからお前のこと騙し――じゃなかった、お前にお願いしに来たんだよ!」


 やぶれかぶれになり、喚き散らす信彦。なるほど、そういえばあの夜、楽曲の使用は認めたが紙に書いた記憶はない。それじゃあビジネスの世界じゃ通用しないか。今は著作権とか厳しいし。


「ふん、本当にバカね。こんな紙切れに金吾がサインするわけ――って、何でサインしてるのよ、あんたぁぁ!!?」


「はっ、しまった! リコネスがピンチと聞いてついサインしちゃった! どうしよう、涼子!?」


「決まってるでしょ。こんな紙切れ……」


「待て、涼子、やめろ!!」


 信彦が絶叫するがもう遅い。覚書の紙は涼子の手によって八つ裂きにされ、風に乗ってどこかへ飛んでいってしまった。


「これであんたは金吾の曲は使えないわね」


「なんてことしてくれたんだ! あれがないと俺はステージに立てないし、借金も返せないんだぞ!? どうしてくれるんだよ!?」


「知るか、バカ! 金吾抜きでやるって決めたんだから結愛と二人で勝手にやってなさいよ! あれ、そういえば結愛は?」


 言われて気づいたが確かに結愛の姿がない。リコネスのピンチを救うため、信彦は奔走しているのに彼女は一体何をやっているんだ?


「ここにいないってことはまさか愛想尽かされたの?」


「断じて違う! まだ愛想尽かされたわけじゃない!」


「ふ〜ん、『まだ』ね……」


 涼子は侮蔑をたっぷり含んだ薄ら笑いを浮かべて未だへたり込んでる信彦を見下ろした。どうやらこの様子では結愛とうまくいってないらしい。人から恋人奪っといてギクシャクするだなんて……。奪われた俺としてはやるせない思いだ。


 いや、こいつの恋愛は今は置いといて……。


「信彦、曲の許諾について聞かせてくれ。事務所の人からはなんて言われた? 俺のサインがあればデビューさせてもらえるのか?」


 俺の関心はリコネスのデビューについてだ。意気揚々と上京した信彦がこれほど憔悴するとは予想だにしなかった。デビュー後に苦難に喘ぐのではと予想はしたが、まさかデビュー以前の問題とは……。


「ま、まぁそんなところだよ。とにかく、リコネスが飛躍するには金吾、お前の協力が必要なんだよ。東京で暮らすのは結構苦しくて借金までこさえちまったんだ。デビューできなかったら返済できないし、地元で笑い物にされちまう。そんなの恥ずかしくて死にそうだ。俺を田舎者とバカにした奴らを見返すにはどうしてもステージに立たなきゃならないんだ! だから、なぁ、頼むよ、金吾!」


 当惑した信彦はとうとう地面に額を擦り付けて懇願した。

 あのプライドの高い信彦が涙と鼻汁を垂れ流して俺に土下座するなんて信じられない。


 俺の中で辛うじて形を保っていた信彦の像がガラガラと音を立てて崩れ落ちた気がした。


「信彦、あんたいい加減にしなさいよ! 金吾を用済みにして切り捨てといて、今になって協力してほしいだなんて虫が良すぎるのよ。だいたいお願いする前に詫びるのが先でしょう!?」


「分かってるよ! 金吾、先日のことはすまなかった。お前はリコネスに必要不可欠な人材だった。それを見誤ったのは俺の目が曇ってたせいだ。過ちを認める。俺が悪かった。どうか謝罪を受け入れて、協力を検討してはもらえないだろうか?」


 まさにプライドもクソもない謝罪と懇願。自分ではどうすることもできない困難に直面し、助けを求めている。信彦は縋るしかないのだ。


 例え相手が恋人を奪った被害者であっても。

 例え相手が変えが利くからと切り捨てたギタリストであっても。


 それが、夢が消えかけている信彦の姿だった。


 そんな彼に対し、焼きが回ったとの侮蔑も、虫が良いとかの怒りも抱かなかった。


 ただただ哀れであった。


 そんな彼にチャンスを与えられるのは世界でただ一人、小早川金吾を差し置いて他にないのだ。


 だが……


「ダメだ、信彦。お前に曲は貸せない」


 冷酷な決断を下した。


 例え彼とリコネスを救えるのが世界で俺一人だとしても、救いの手を差し伸べることはできない。


「そ……そんな……どうして……」


 信彦はみるみるうちに青ざめていった。無理もない。俺の決断は彼の夢を断ち切るもの。絶望させる重さがあることは自覚している。


「当然の結末ね。金吾のことを散々コケにした報いよ」


 涼子の追い討ちが信彦にトドメを刺した。信彦は地面に顔を伏せ、野太い声で吠えるように慟哭した。大の男が咽び泣く姿は情けなく、哀れであった。


 だが、俺の気持ちに変わりはない。


「信彦、涼子、早合点するな」


 そう……信彦が泣き叫ぼうと、涼子が彼の罪を並べ立てようと俺の気持ちに変わりはない。


「貸せないというのは『今のお前には』って意味だ」


 それが俺の、率直な気持ちであった……。


†――――――――――――――†

 その真意とは……

†――――――――――――――†

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