第48話 (金吾&信彦)口先八丁

 二月最後の日曜日。


 北斉大学の入学試験のこの日は朝から薄雲が太陽を覆い、薄暗い妙な天気だった。

 予報によると一日中寒く、次第に天気が崩れていくらしい。


 すっきりしない天気だが俺は前日から気持ちが昂って鎮まらない。

 今日は空李さんの最終決戦の日だが、俺にもやるべきことがある。


 すなわち空李さんの激励。


 空李さんから当日路上ライブで応援してほしいとお願いされた。つまりは俺にとってもしくじれない大舞台だ。


 なので早朝から身支度を整え、出立の準備を着々と進めていた。


 アパートの前に停まっているミニバンに機材を載せていく。


「ギター」「入れた」

「シールドケーブル」「それも入れた」

「アンプ」「二個入れたぞ」

「マイクは?」「それも入れた」


 手帳の機材リストを読み上げて準備を手伝ってくれるのは涼子。涼子は機材運搬のためにお父さんの車を借りてくれた。涼子も空李さんのために人肌脱ごうと気合十分。


 今日は空李さん一人の決戦じゃない。俺達四人の天王山なのだ。


「よし、時間前倒しで出発準備完了! 渋滞するかもだからさっさと出ちゃいましょ!」


 涼子のおかげで準備は滞りなく終わった。あとは安全運転で大学に行き、本番を迎えるのみだ。


 涼子が運転席に飛び乗る。機材の積載も無事終わったので俺もリアドアを閉めて助手席に駆け込もうとした、その時だ。




「金吾!!!」




 俺を呼ぶ野太い男の声。聞き馴染んだ、しかしここにいるはずのない男の声が耳朶を打ち、俺は冷水を浴びせられたみたいにその場で身体を強張らせた。


 恐る恐る振り返る。


 きっと聞き間違いに違いない。

 あいつがここにいるはずないのだから。


 だがその予想は無惨に打ち砕かれた。現実にはそこに奴がいた。


「のぶ……ひこ……」


 原田信彦。かつての俺の相棒で、仲間で、無二の親友。だが俺をバンドから追放し、挙句最愛の恋人までも奪った裏切り者。


「ひ、久しぶりだな金吾」


「あぁ、久しぶりだな。少し痩せたか?」


 そんな相手を目の前にしておきながら俺はなぜか冷静だった。いや、感情の変化が追いついてないのかもしれない。

 怒り、悔しさ、悲しさ、蔑み。信彦の顔を見た瞬間胸の中でドロドロした感情が本流となって襲いかかってきたが、一つとして背負い難いほどに重いため目を背けていたのだ。


 呆然と佇む俺が再会を喜んでいると勘違いしているのか、信彦は薄気味悪い愛想笑いを浮かべて歩み寄ってきた。


「本当に久しぶりだ。会いたかったぞ! ここに来ればお前に会えると思ってた」


「そりゃここは俺の家だからな」


 家に来といて偶然会ったみたいな言い方して、バカなの?

 いや、こいつは昔からそうだ。妙な言い回しで当たり前のことを口にする癖がある。以前はそれが彼の面白いところだと思っていたが、今となっては呆れるしかない。


「導きに従ってここに来たってことだよ。なぁ、金吾、いきなり訪ねてさぞ驚いただろうが……どうだ、これから朝飯でも」


「あ、朝飯!? あー……せっかくだけど朝飯ならもう食った。悪いんだが俺はこれから行くところがあるんだ。話があるならまた明日にでもしてもらえるかな?」


 だんだんと頭痛がしてきた。そのせいか、悪態をつくどころか慇懃に断る始末である。人間というのは理解しがたい状況に置かれるとかえって平常になるのかもしれない。


「そうかそうか。用事があるのか。それじゃあ仕方がないな、うん。突然訪ねてきた俺が悪い。だが生憎と俺も時間がないんだ。そこで……頼まれてほしいんだが、この紙に一筆書いてもらえないだろうか?」


 ぎこちない動作でバックパックからクリアファイルを取り出した信彦。そしておもむろにボールペンと一緒に俺の手に無理やり握らせる。その顔は不敵にニコニコ笑みを浮かべていた。


「え、サイン? これ何の紙?」


「何だっていいだろ。まぁ、あえて言うなら俺とお前で成功の道を歩む起請文みたいなもんさ」


「ごめん、意味分かんない」


 マジで意味分かんない。


 怖いもの見たさな心境でファイルから紙を取り出す。が、信彦は素早い動作で紙を掠め取り、半分に折り曲げて車の窓に押しつけた。俺がサインしやすいよう手伝ってるつもりだろうが、そんなことされると書類の内容が確認できないじゃないか。


「なぁ、信彦、内容の分からない紙にサインはでいないよ。『サインと判子はよく考えてしろ』ってじいちゃんに言われてるんだ」


 法律が変わったので十八歳の俺はもう成人だ。保護者の同意なしに契約を結べるが、その責任も大人として背負う義務がある。友達の頼みだとしても慎重にならねばならない。……もう友達じゃないけどね。


「そんな固いこと言うなって。俺とお前の仲じゃないか。進む道はわかたれたが俺に協力してくれるって約束したじゃないか。その約束の証をここに示してほしい、それだけだ」


「きょ、協力? そんな約束したっけ?」


「思い出してくれ! リコネスの今までの曲をこれからも使わせてくれるって約束のことだよ」


「あぁ、あれね。うん、覚えてるよ」


 ぼんやりとだがリコネスをクビになったあの日のことが脳裏に浮かぶ。


 音楽活動を疎かにしてしまった俺は今後リコネスの足を引っ張らないようクビ同然に身を退いた。

 しかし単に脱退しただけではリコネスに迷惑をかけることになる。なので俺が作ったリコネスの曲は今後も使い続けて良いとの約束をしたのだ。ケジメをつけるよう信彦に促されてのことだ。それ自体は俺も納得していた。


 俺が思い出すと信彦は心底安堵したのだろう、恵比寿様みたいな満面の笑みを浮かべたのだった。こんな顔今まで見たことがない。


「そりゃ良かった! この書類はその覚書みたいなもんだ」


「そんなことしなくても使って良いって言ったんだから好きに弾けよ」


「その言葉、本当にありがたいよ。だが東京ってのは堅苦しい場所でな、何でもかんでも形にしとかないといけない。俺もどうかと思うんだが、向こうがそうしろっていうから是非ともここに署名してほしいんだよ。な、良いだろ?」


 ふぅむ、なるほど。プロとして仕事するならその辺りをきっちりしないといけないものなのか。


 その点は理解した。だが……


「な、なぁ、信彦。サインを求める前に俺に言うことがあるんじゃないか?」


 そう、信彦は俺にとんでもない仕打ちをしてくれた。バンドを追い出した挙句、結愛を奪うというとんでもない仕打ちを……。

 そんな彼が俺に何かお願いするのなら、まず別の言葉があって然るべきだ。


 信彦は目を瞑り、すぅーと深く深呼吸をした。それからゆっくり目を開くと、おもむろに肩に腕を回して顔を近づけてきた。


「金吾、お前の気持ちはよく分かるよ。だが今は言い争ってる場合じゃない。リコネスの危機なんだ」


「リコネスの?」


 危機と耳打ちされて喉元を絞められるような息苦しさを感じた。同時に過去の恨み辛みなど頭から吹き飛び、真実を知りたいとの衝動に支配された。


「危機ってなんだよ? リコネスに何があった?」


「詳しく説明している時間は無い。時は一刻を争う。それくらい切羽詰まってるんだ。この窮地を脱するには金吾、お前の存在が必要不可欠なんだ。リコネスを救うため、人肌脱ぐ気でサインしてくれよ」


 なんと……説明している時間もないくらいピンチなのか!


「それは一大事だ! 俺がここにサインすれば良いんだな?」


「そうだ! 頼むよ、金吾! リコネスのためにな!」


「サイン……サイン……リコネスのため……」


 リコネス……リコネス……。その単語が頭の中をぐるぐると回る。


 俺の愛してやまないバンド。

 俺の青春の全て。


 事情はよく分からないけど、リコネスを救うためなら……俺は……。


 カチッ――


 俺はボールペンの頭を親指で押し込み、ペン先を押し出した……。


 さらさらさら――


「『小早川金吾』と……」


 一種の混乱状態に陥った俺は、深く考えられず言われるがままに署名したのだった。


†――――――――――――――†

 いやサインするんかーい!

 どうなる!?


涼子「金吾、何ぼさっとしてるのよ……。うん? ミラーに映ってるのは……信彦!?」

†――――――――――――――†

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