第43話 「諦めたくない!」

「そんなことがあったんですね……」


 日曜日の出来事を語り終えた空李さんに二杯目のお茶を出す。深い赤みのある琥珀色の茶から気持ちの安らぐ甘酸っぱい香りが立ち上るが、空李さんの表情は沈んだままだった。


「金吾からもらったお守りがあれば絶対合格できるって思ってたの。それが目の前で壊れちゃって、頭が真っ白になって……。それで一つ目の科目のテストを受けたけど調子が出なくて、これじゃあダメだって焦っちゃって……それで……」


 空李さんはまた鼻を啜った。

 結末は語るに及ばず。大切にしてくれていたヘアピンが壊れてショックを受け、気持ちを持ち直すどころか負のスパイラルに陥って実力を出せなかったということか。


「金吾、ごめんなさい。せっかくプレゼントしてくれたのに壊しちゃって……」


「空李さんが謝ることじゃありませんよ」


「そうだろうけど、そのせいで動揺して試験で実力を発揮できないなんて自分が不甲斐ない。今までつきっきりで勉強を見てくれた涼子さんと詩乃さんにも申し訳なくて合わせる顔がないよぉ……」


 不慮の事故で起こった『サクラチル』の暗示。

 大切にしていたお守りが示唆した凶兆はナーバスな受験生の心を過剰に刺激したのか。


 たかがジンクス。されどジンクス。


 ヘアピン一本で勇気づけられるし、不安にもなる。感受性が豊かなのは空李さんの長所でもあり弱点でもあるらしい。


「そんなに気負わないでください。テストが振るわなかったからってあの二人が空李さんを責めるようなことはありませんよ。むしろ落ち込んでるのに何もしてあげられないのを悲しむと思いませんか?」


「悲しんでる……のかな?」


「えぇ、二人とも空李さんから連絡がないからずっと心配してます。今日になっても何もなかったら涼子から連絡してもらうことになってたんです。それでもし落ち込んでたら三人で励ましてあげようって相談してたんですよ」


「そうだったんだ。だったらもっと早く報告してればよかった」


 よもや俺達が落胆して見放すとは思ってはいまい。だが人は思い詰めると悪い方向に考えがちだ。それで空李さんは怖くなって連絡をよこせなかったのだ。


「ちゃんと涼子さん達にも報告しないとね……」


「そうしてください。結果も気にしてますが、空李さんの心を俺達は気にしてたんです」


 実力を出しきれなかったのは惜しまれるがもはや過ぎたこと。

 むしろ気になるのはショックを受けた空李さんの心の方だ。


「スタートダッシュを切れなかったのは残念ですが、悔やんでも仕方ありません。だから今は先のことを考えましょう」


「先……二次試験のことだよね」


「はい。今後の指導の方針も勘案するので確認しておきたいです。見せてもらえますか?」


 共通試験が終わると大抵学校で自己採点をさせられる。学校側はそれを取りまとめて教材会社等に送り、統計処理した成績表を送ってもらうというのがお決まりだ。

 だが業者から送られてくるのはもう少し先の話だ。しかし最近は大手予備校が合否判定が分かるスマホアプリをリリースしているので志望校と得点を入力すれば判定がすぐに分かるようになっている。


 空李さんはスマホをカバンから取り出した。シリコン製でトラ猫の耳が飛び出した可愛いカバーに覆われた端末を受け取る。


「がっかりしないでね……」


「しませんよ」


 余裕を持たせつつ俺は固唾を呑んでディスプレイを見る。

 果たして空李さんの合否判定は……


『国立北斉大学 C判定』


 画面に表示された文字を見てつい息を呑む。


「ご、ごめんなさい! 酷い判定で……」


 俺のお顔色を窺って空李さんが平謝りする。だが俺は攻めたり落胆することはなかった。


「酷いなんてことありませんよ」


「ほんとう?」


「えぇ。むしろ……思ったより良かったくらいです。ひどい落ち込みようなのでEとか絶望的な判定だったのかと……」


 去年の今頃の光景が思い出される。自己採点の結果、普段以上の実力を出した人の歓声や逆に振るわなかった人の悲鳴が教室にこだまし、まさに阿鼻叫喚の様相だった。受験本番になるとナーバスに反応してしまうものだ。


 それはともかく、空李さんの判定は良くも悪くもないC判定。最後の模試で取ったAに比べると見劣りするが、絶望するほどでもない。俺はほっと胸を撫で下ろした。


 内訳を見ると一日目の文系科目はよくできている。苦手だった国語の正答率は八割と目を見張るくらいだ。

 逆に不運に見舞われた二日目の科目はイマイチだ。理科は全く実力が出せてない。比較的得意な数学で粘ったのがせめてもの救いだ。


「なるほど……C判定ですか。Cか……」


 C判定は決して低くない。だが諸手を挙げて喜ぶほど良くもない。

 目安だが合格率は五十パーセント。勝負に出るか判断の難しいところだ。


「親御さんは北斉大に出願することに何か言われてますか?」


 確か空李さんの親御さんは浪人には後ろ向きなのだそうだ。娘が五分五分の勝負に出ることに反対してはいまいか。


「お父さん達からは『空李の好きなように決めなさい』って言われてるの。北斉大に志望校を戻すって言った時は心配されたけど気を遣ってるんだと思う。前の模試の結果は良かったしね」


 でも、と空李さんは俯いた。


「信頼されてると思うと余計不安なんだ。私のワガママに付き合わせて、挙句不合格で浪人したらたくさん迷惑かけちゃう。でもここまで頑張ったから途中で諦めたくもない。私、どうすればいいんだろう……」


 なるほど、裁量を与えられて失敗した時の責任に重圧を感じているのか。


「ねぇ、金吾はどうすればいいと思う? 予定通り北斉大を受けるか、それとも志望校を落とすか」


 空李さんは弱りきった面持ちで俺にすがった。


 それが俺に対するSOSであることは明白だ。


 俺に決めてほしい。自分では決められないから。


 俺がなんと言おうと彼女は従うだろう。だって人に言われるがままでいるのは楽だ。何かあってもその人のせいにできるから。


 でもそれではいけない。彼女は――いや、俺達はいずれ大人になる。自分のことは自分で決められるようにならないと。


「それは空李さんが決めることです。空李さんがどうしたいのか、一番理解しているのはあなたなはず。だから俺に空李さんの気持ちを……選択を聞かせてください」


 だから俺はそっと、握っていた手を離すような言い方をした。


 できることなら背中を押してあげたい。北斉大まで手引きしたい。でも、ことこれにおいては空李さんが「自分で決めた」と言い切れる決断をしないとダメだ。


 空李さんは期待を裏切られて唇を噛んで俯いた。やはり自分で決めるには勇気が足りないらしい。


 仕方がない。少しだけ、ほんの少しだけ追い風を吹かすくらいなら許されるだろう。


「これは助言ではなくあくまで俺の気持ち。C判定ならまだ望みはあるから諦めるのはもったいない気がします」


「確率は五分五分だよ。受かるかもしれないし、落ちるかもしれない……」


「でも絶対落ちるとは言えません。冷静になって考えるべきです。一年前の俺のように冷静に」


「去年の金吾……?」


 なんのことか分からずキョトンと小首を傾げる空李さん。俺は続ける。


「俺の共通試験の結果もC判定だったんです」


「そうなの!?」


「はい。結果見た時は『もうオワったー』って床にひっくり返りました。B判定くらいと予想してたのにそれより低くて『浪人』の二文字が頭をよぎりました」


「それでそれで!?」


「担任や家族にも渋い顔されましたね。特に親は空李さんと同じで『浪人はごめん被る。志望校下げてほしい』って遠回しに言ってきましたし」


「それでも諦めなかったの?」


「いっぺん諦めましたよ。諦めて市立大の方を受けようかと。でも俺に『諦めるな』って言ってくれた人達がいたんです」


「もしかして涼子さん?」


 瞳をキラキラさせてこちらを覗き込んでくる。俺は笑って頷いた。


「『五分五分で諦めるなんてあんたらしくない』って怒られました」


「あはは、涼子さんらしい」


「涼子だけじゃありません。リコネスの信彦と結愛も諦めるなってあの時励ましてくれました。『俺達はこれから五分五分よりの悪い勝負をいくつもしていく。これくらいで折れてちゃ務まらない』って」


 あいつは大学を受験してないし、その後人のこと追い出してどの口がと罵りたい。無論結果論だが。

 でもこの時言われたことは今でも刺さっている。


「勝ち色が薄いからと弱気になっては叶う夢も叶いません。こういう時こそ冷静になって、壁を乗り越えられないかよくよく考えてみて下さい」


 空李さんならまだ頑張れるはず。彼女の根気強さはこの二ヶ月でよく分かっていた。本当の空李さんはこんなところで諦めたりしないのだ。


 空李さんは目を瞑って逡巡し、何度か呼吸をするとハンカチごと壊れたヘアピンを握って胸に押し当てた。


「私、諦めたくない……! 去年の金吾が頑張ったんだもん。私も頑張らないと!」


 その声と瞳には強い意志が宿っていた。

 彼女は追い風を受けてまた歩き出す。だが舵を切ったのは他ならぬ空李さん自身だ。

 その決断を俺は待っていた。


「その意気です。共通試験で出遅れた分、二次試験で取り戻せるよう対策しましょう」


「うん! そのためにもたくさん勉強しないと。金吾も大学の期末試験で忙しいだろうけど、また協力してくれると嬉しいな?」


「もちろんです! 二次試験ギリギリまでみっちり授業しますよ!」


 こうなったら単位の一つや二つ落とすのは痛くも痒くもない。進級に関わらない教養科目は捨てる覚悟だ。


「えへへ、ありがとう。あとね……もうひとつお願いがあるんだ……」


 モジモジ、と顔を赤くして恥じらう空李さん。一体何をしてほしいのか?


「二次試験の日、大学に応援に来てほしいの」


「応援に行けばいいんですか?」


「うん……………………ギター持って」


「ギ、ギター!?」


 なぜギターなんです!?


「試験の前に応援の歌を歌ってほしいなぁ……なんて」


 な、なるほど、応援ソングか。確かに景気付けに生演奏するのは緊張もほぐれるし、勇気づけられるだろう。


 しかし当日かぁ。北斉大は自由な校風で手続きさえすればキャンパス内でミニライブくらいさせてもらえる。でも受験当日に認められるはずがない。


 悩む俺に空李さんはおずおずと目配せをした。本人も無理を言っているのは承知だろう。でも、それで空李さんを勇気づけられるなら……


「分かりました。当日、空李さんのために歌います!」


「本当!?」


「はい。なんとかします!」


「やったぁ!(冗談のつもりだったけど言ってみるもんだな)」


 かくして空李さんは危機にめげず当初の予定通り北斉大を受ける決断をした。


 あと少しできっと空李さんの夢は叶う。


 俺は希望に胸を膨らませつつ、当日歌う曲や交換弦の買い置きがあったかと考えを巡らせていた。


†――――――――――――――†

 空李ちゃん、復活!


 次回は裏切者サイドをお届けします。

 ピンチを乗り越えた空李とは逆にリコネスは追い込まれます……。

 どう追い込まれるかは次回をお楽しみに!

†――――――――――――――†

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