第42話 サクラチル

 アパートの室内に少女の啜り泣く声が響いて溶けていく。

 まるで初冬に降ったまばらな雪が地面に落ちて儚く溶けるように、絶え間なく溢れては消えていった。


 すんすん、と空李さんは静かに泣きじゃくる。ラグの上に座り込み、俺が貸してあげたハンカチでとめどなく溢れる涙を拭い続けた。

 その横で俺は何も言わず並んで座り、時々背中をさすってどうにか彼女の気持ちを鎮めようとした。


 何度目も背中に触れるうち、空李さんが寄りかかってきた。


 空李さんの身体はすごく軽いのに重い。小さな身体に想像が及びもつかない重荷を背負い込んでいることだけは分かった。

 その証拠に空李さんの冷たい涙は焼けるように熱い。トレーナーの生地から染み込んで俺の二の腕の地肌を爛れさせるのではと思うほどであった。


 たまりかねて頭を抱きすくめると空李さんは一層激しく咽び泣いたのだった。


 *


「落ち着きましたか?」


 それから三十分ほど経ち、ようやく空李さんは口が利けるくらい平静を取り戻した。

 そのタイミングを見計らい、俺は先日も出したローズヒップティーを淹れてあげた。


「ありがとう。それからごめんなさい。急に訪ねて、いっぱい泣いちゃって……」


「詫びることなんてありません。むしろ顔を見せてくれて嬉しいです。ずっと連絡がないので何があったのかと皆不安になってたんです。連絡を寄越して良いのかも分からなかったので……」


「心配かけてごめんなさい……」


 お茶を啜る空李さんはやっぱり弱気だ。いつもの元気さがどこにもなく、ずぶ濡れになった捨て犬みたいに意気消沈して縮こまってしまった。


 彼女がここまで落ち込む理由は想像に難くない。そもそも「大学に落ちた」なんて言うくらいだから原因は共通試験しかない。俺はどうしても詳細を知りたかった。


「空李さん、何があったか教えてくれますか? 二日目の科目の出来が悪かったのでしょうか?」


 空李さんは口をへの字につぐんで語らなかった。されどこくんと小さく頷いて肯定したのだった。


「それで落ち込んでしまったんですね」


 脆くなった空李さんの心へ労りの言葉をかける。だが内心で俺はテストが不出来だったことが不思議でならなかった。

 大手予備校の評価では今年の共通試験の難易度は昨年に比べて優しいとのこと。俺も新聞に載ってた試験を解いてみたが確かに難しくはなかった。

 しかも空李さんが苦手としていた生物基礎と化学基礎は例年に比べて優しく、理科を克服した空李さんなら高得点が狙える内容だった。


 なぜ空李さんは満足に回答できなかったのか。


「会場や道中で何かあったんですか?」


 元凶があるとすればテストそのものではなく、彼女を取り巻く環境。本番前に彼女の身に何かがあったとしか思えない。自信満々の彼女の心を挫くような何かが……。


 俺の予想は当たった。空李さんは目を伏せてまた小さくうなづく。


「何があったか聞かせてくれますか?」


 俺が尋ねると空李さんはすん、と鼻を啜り、おもむろにブレザーの内ポケットから何かを取り出し、テーブルの上に置いた。

 それは四つ折りにされた桜色のハンカチであった。細い指を振るわせながらハンカチを広げていく。


 姿を現したのはヘアピンだった。なんの変哲もない、特に飾りもついてない針金だけのヘアピン。


 これがどうしたというのだろう……。


「これ、お正月に金吾がプレゼントしてくれたヘアピンなの……」


「え……」


 プレゼントというと合格祈願に贈った桜のワンポイントが施されたあのヘアピンか。

 だが目の前に置かれたヘアピンには桜の意匠がなく、同じものとは思えなかった。


 怪訝になる俺に空李さんは日曜日に起こった出来事を訥々と語り始めた。


 ◆空李side◇


 日曜日、共通試験二日目の朝。


「よーし、今日も試験がんばるぞ!」


 ダイニングで朝食を食べ終えた私は大好物の飲むヨーグルトを一気飲みして喝を入れた。


 昨日の試験はかなり手応えがある。国語、社会科は全問回答できた。英語はリスニングが少し難しかったけど、その分筆記でカバーできたと思う。普段の勉強の成果を十分出せた。

 本日二日目は数学と理科。理科は苦手科目だったけど金吾達のおかげですっかり克服できたのでドンと来いだ! 昨日の勢いでやっつけちゃうもんね!


「空李、今日も頑張って。はい、これお弁当ね」


「お母さん、ありがとう。行ってきます!」


 お母さんからお弁当を受け取り、身支度を完了させると玄関を飛び出した。今日はあいにくと冷たい雨がシトシト降る空模様だが、私の心は晴れ晴れしていた。


 ひさしを出る前にスマホを取り出し、LINEを起動する。


「『おはよう! 今から会場行ってきます! 今日もがんばる!』と。送信!」


 金吾と涼子さんと詩乃さんに意気込みを送信した。昨日は試験の合間に手応えを送ったから今日も知らせてあげようっと。


「濡れないように傘差さないとね」


 お気に入りの傘を広げていざ出発!

 小粒の雨が傘の布地に打ち付けられて奏でるビートに乗せて鼻歌でメロディを奏でる。曲はリコネスで一番好きなやつ。もうリコネスは応援する気にはならないけど、これは金吾が作詞作曲した曲だから今でも好きだ。


「あれ、そういえば私……」


 小さな横断歩道で青信号になるのを待っているとあることに気づく。それから前髪を軽く撫で、忘れ物したことに気づいた。


「やば、取りに帰らないと!」


 お母さんから借りた腕時計でまだ余裕があることを確認すると早歩きで元来た道を戻った。


「ただいま! 忘れ物しちゃった!」


 玄関に飛び込んで靴を脱ぎ散らかして階段を登ろうとした時、洗面所からパジャマ姿のお父さんが出てきた。


「空李、忘れ物か?」


「そう」


「当日まで慌ただしいな。昨夜のうちに準備しとかないからだぞ」


「うるさいなぁ。こんな時間まで寝てる人に言われたくありません!」


 憎まれ口を叩くとお父さんをけむに巻くように私は階段を駆け上がった。


 お父さんのお説教や小言は今に始まったことじゃない。最近は受験で忙しい私に気を遣ってくれているからか少しはマシになったと思ったのに、よりによって試験本番に小言を言うなんて本当にデリカシーがない。お母さんはどうしてこんな人と結婚したんだろう?


 でもそんな鬱々とした気持ちも吹き飛ばしてくれるお守りが私にはある。


「ふふ、これこれ。これを忘れちゃダメだよぉー」


 机の上に大事に置いていたヘアピン。スタンドミラーで位置を確かめながら前髪に留める。


 桜のワンポイントがデザインされたヘアピン。

 推しの金吾が合格祈願に買ってくれた必勝のお守りだ。


 私に元気と勇気を分けてくれたロックスター。

 個人的なお友達になっただけじゃなく、家庭教師まで引き受けてくれた優しい人。

 貰いっぱなしで少し申し訳ないけど、今は思う存分甘えさせてもらうことにしている。大学に合格することが何よりの恩返しだし、晴れて大学生になったら何かお返しするつもりだ。


「えへへ、何してあげようかな。金吾にならなんでもしてあげたいなぁー」


 試験本番なのに浮かれてしまって我ながらバカみたいだ。まだまだ大学受験本戦は始まったばかり。もう合格した気になっては勝負が疎かになる。


 ……と分かっていても晴れて金吾の後輩になれることを想像するとニヤニヤしちゃう〜〜!


「空李、何してるの? そろそろ出ちゃいなさい」


 心配したお母さんが部屋の戸の向こうから急かされる。

 いけない! こんなことしている場合じゃないんだった。


 身支度を改め、今度こそ試験会場への道を急ぐことにした。しかし運の悪いことに雨足が強まっており、気温も下がった気がした。厚手のタイツ履いてるから寒さ対策は万全だけど幸先の悪いスタートにため息が出る。


「電車混んでないといいなぁ……。雨の日は混むんだよなぁ……」


 案の定、最寄駅にやって来た電車の中はお客さんでいっぱいだった。特に私のような制服を着た高校生が目立つ。これから試験を受けに行く受験生ライバルだ。


 電車は上り方面へ走るにつれて乗客をどんどん乗せ、車内はパンクするかと思うくらいぎゅうぎゅうになってしまった。まるでテレビで見る東京の通勤ラッシュだ。移動中に見直するつもりだったのにこれじゃあままならない。


 やがて車内アナウンスが試験会場の蘭陵高校付近の駅に到着することを告げた。ようやくこの満員電車ともおさらばだ。


 電車の戸が開いてモワッと生ぬるい車内に冷たい空気が流れ込んできた。私は一刻も早く外に出たくてうずうずしていたが、人の波に従順になる。


 ようやく社外に出られて一息つける。と思ったその時だ。


 ドン、と誰かが私にぶつかる。


 パキッ――


 一瞬、無機質な音がすぐ近くでこだました。


 その瞬間、視界の全てがゆったりスローモーションになって移り変わっていく。

 その中で一粒の、季節外れの桜の花弁が私の目の前を流れ落ちていた。


「あ――」


 声を上げるも身動きが取れず、瞳で桜の花を目で追うことしかできなかった。


 きっとぶつかった際、ヘアピンのワンポイントに何かが引っ掛かり、取れてしまったのだろう。ヘアピンの装飾の桜は私の後方に舞ってホームの床を転がり、そのまま電車との隙間に落っこちてしまった。


「ウソ……」


 茫然自失とする私を降車客が容赦なく押して前に進ませる。結局私が自由を得られたのは改札を抜けた券売所だった。


 そこで私は試験会場に向かうのではなく、忘我となって身に起こったことを確かめた。


 信じたくない思いでゆっくり前髪のヘアピンに触れる。そこにあるはずの花の装飾の感触がなく、背中に冷たいものを感じた。

 それからお化けの正体を確かめるようにおずおずピンを外してこの目で確かめた。


 桜の花が……無い。


 やっぱりあの時壊れてしまったんだ。


「どうしよう……金吾からもらったお守りなのに。どうしよう……」


†――――――――――――†

 空李の身に起こった悲劇……

 一体どうなる……


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†――――――――――――†

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