250話目(1925)禁酒法の時代。

アル・カポネと並ぶ有名なギャングに

ダイオン・オバニオンがいます。(Dion "Deanie" O'Banion、本名:チャールズ・ディーン・オバニオン(Charles Dean O'Banion)、1892年7月8日 - 1924年11月10日)は禁酒法時代のアメリカ・シカゴのアイルランド系ギャングスターであり、ノースサイド・ギャングの創設者です。


1902年ごろにシカゴでマーケット・ストリート・ギャングという強力なギャングが存在し、その少年部であるリトル・ヘリオンズのリーダーがオバニオンでした。


やがて地元のシカゴ・トリビューン紙とシカゴ・エグザミナー紙の間で発生したCirculation Wars(販売網拡張戦争。しばしは酒場や通りで銃撃戦が発生するほど激しいものであった)で両新聞社の手先となって暴れまわり、名前を売っています。


その後にノースサイド・ギャングを創設し、花屋を経営しながら密造酒の製造により財を成し、大都市シカゴのノースサイドの大部分を縄張りにしていました。


表向きはシカゴで勢力を二分していたサウスサイド・ギャング(後のシカゴ・アウトフィット)と同盟を結び、カジノの収益金を分配する等協力関係を築いていたが、裏では密造酒を奪うなど邪魔をしていました。


また、多くのアイルランド系ギャングスターと同様に売春の管理を汚い商売と見ていたために手を付けることはなく、イタリア系やユダヤ系に仕事は任せておき、トーリオからの売春業から上がる収益の受け取りを拒絶しています。


1924年には密造酒の取引で年間100万ドル近い利益を上げています。


このように禁酒法時代はマフィアにとってボロ儲けの大チャンスでした。


そして宇垣系の組織が粗製濫造された密造酒を手に入れた時は錬金工場で品質を上げて高級ウォッカにして彼らに売っていました。


麻薬と酒のビジネスで年に1億ドル以上を儲けていたとも言われています。

(史実)


このダイオン・オバニオンを暗殺した頃から、アル・カポネは自分も暗殺されるのではないかという恐怖から警備が厳重になったそうです。

どこに行くにも両脇に2人のボディーガードを連れて行き、外出には必ず車を使っています。

この時期、自宅以外を1人でいることは無かったといわれています。


1925年1月12日にハイミー・ワイスとスキーマー・ドルッチとジョージ・モランは最初のカポネ暗殺を企て、アルの車にトミーガンで攻撃しました。

ボンネットが穴だらけになり、エンジンが壊れたと言われています。

サイドガラスはともかく、運転席側のドアなどは宇垣マーク1だけあって銃弾に耐えぬきました。



1925年にジョニー・トーリオが敵に襲われて引退すると、アル・カポネは組織の縄張りを譲られ、26歳にして組織のトップに立った。

アルは酒の密売でのし上がっていくが、その過程で次々と敵を抹殺していった。

さらにウィリアム・ヘイル・トンプソンをはじめ、市議会議員、警察などの官憲を買収して、アルは組織の勢力の拡大と安泰化を図った。

1920年代のアル・カポネは、実質的に市長ともいえる存在となっていた。1927年頃にはシカゴで有名人となり、1929年にカポネ一家の年間の収益は6200万ドル(現在の貨幣価値に換算すると8億3千万ドル)にもなったと言われています。

ビッグビジネスに成長していますね。


宇垣系のギャングも高品質な酒の密売

と麻薬の密売で全米の大都市で商売をして30億ドル以上の利益をあげていました。

原価の30〜50倍の値段で酒が飛ぶように売れるのだから禁酒法は最高な法律です。

麻薬は原価の100倍ですし。


1000万ドルあれば戦艦が1隻建造できるのですから、驚くほどの利益ですね。

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