206話アドルフ・ヒトラー

1924年頃のアドルフ・ヒトラーといえば史実ではバイエルン州を拠点にして、国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の党首としてアーリア民族を中心に据えた人種主義と反ユダヤ主義を掲げた政治活動を行うようになっている。

前年の1923年に中央政権の転覆を目指したミュンヘン一揆の首謀者となり、一時投獄されていた頃である。

『我が闘争』を執筆中といったところ

だろうか。


で、この世界のアドルフ・ヒトラーと

いうと画家を目指して、観光客を相手にしての似顔絵書きをしていたのを

前野長康が発見して驚いていた。


ヒトラーの写真なら多くが残っている。その写真にそっくりの人が似顔絵書きをしていたからだ。


名前を聞いてみるとご本人である。

父親の名前も母親の名前も同じであり、オーストリア・ハンガリー帝国出身だから間違いないだろう。


父親のアロイス・ヒトラーは凄い人物で、

1837年にオーストリア・ハンガリー帝国のシュトローネス村でマリア・アンナ・シックルグルーバーの私生児として生まれ、1842年に母親が粉ひき職人のヨハン・ゲオルク・ヒードラーと結婚すると、デラースハイム近郊にあるヨハン・ゲオルクの弟ヨハン・ネーポムク・ヒードラーの家に私生児として引き取られている。


1851年、小学校を卒業したアロイスはウィーンで靴職人の徒弟奉公を始めた。17歳の時には職人試験に合格したが、なおも独学で勉強を続け、

1855年にはオーストリア帝国大蔵省の守衛になり、1868年には税務署の採用試験に独学で合格し公務員になっている。

その後、補佐監督官から監督官に出世して税関上級事務官にまで出世している。しかも能力が認められての異例の

大出世である。


1873年、アロイスは36歳で最初の結婚をした。相手はアロイスより14歳上のアンナ・グラスルという女性で当時50歳であった。(持参金目当ての結婚だと言われている。アンナは裕福な女性だった。)


1876年、彼の養父であるヨハン・ネーポムクによって、アロイスは継父ヨハン・ゲオルクの嫡出子として認知され、シックルグルーバー姓から呼びやすい「ヒトラー」に姓を改めた。

この時、ヨハン・ネーポムクの孫娘クララ・ペルツルと出会い、病気がちの妻の面倒を見るために家に住み込ませた。


1880年にアロイスはアンナ・グラスルと事実上離婚したが、カトリック法の規定により正式には離婚出来なかった。

アロイスはその少し前からフランツィスカ・マツェルスベルガーという19歳のウエイトレスと関係を持っており、1882年には二人の子アロイスが生まれている。

1883年にアンナ・グラスルが死亡すると、アロイスとフランツィスカは正式に結婚した。この年には娘のアンゲラが生まれている。しかしフランツィスカは身体を壊して転地療養し、翌1884年に死亡した。この頃からクララはフランツィスカにかわってヒトラー家の家政を見ていたが、やがてアロイスと関係を持ち、妊娠した。


当時のカトリック法の規則では、ヨハン・ゲオルクの子として認知されたアロイスと、その弟ヨハン・ネーポムクの孫娘であるクララの二人が結婚するためには、教皇の許可を得る必要があったが、1884年に許可がおり、翌1885年正式に結婚した。アロイスとクララの間には6人の子が生まれたが、多くは早世し、育ったのは1889年に生まれたアドルフと、1896年に生まれたパウラだけだった。


1892年には彼の学歴で到達できる最高の地位であるリンツ税関の上級事務官となった。

1895年には退職し、恩給生活に入った。

1903年1月3日、アロイスはレストランで倒れ、肺出血で死亡した。


上オーストリア州で最も大きな日刊紙「日報」は彼の追悼記事を書いた。その中では官吏や農業、特に養蜂の分野で有能であったことが書かれていた。


アロイスの死後もヒトラー家は経済的には豊かだった。


だが父親との確執があったアドルフは

リンツ実科中等学校で二度留年し四年生に進級できたが退学になった。


退学後、シュタイアー市の実科中等学校に復学したが、私生活は荒れており

退校している。


母親のクララは職に付かず画家になる

夢を語るアドルフを心配しており、

裕福なのに年齢より老けて見えたと

言われている。


アドルフが17歳の頃、母のクララが重度の乳癌になった。

だが、介護や家事を手伝わずに叔母や

姉や小学生の妹に任せっきりだったという、、、


ここまでの経歴を考えると中々のクズニートである、、、


1907年、18歳になったアドルフは

ウィーンに移住しウィーン美術アカデミーを受験したが不合格だった。


『アドルフ・ヒトラー、頭部デッサン未提出など課題に不足あり、成績は不十分』と記録に残っている。


1907年の10月に母が危険だと知らされたアドルフは痩せ衰えた母親を見て唖然とした。

積極的に家事を手伝い母親から離れずに看病したと言われている。


1907年12月21日に母親のクララは亡くなった。47歳の若さだった。


父親が亡くなった時に得た財産は700クローネであり郵便局員の年収に相当する金額だった。

母親は父親の遺産の全額3000クローネをアドルフと妹に残したし、アドルフと妹が就業するか24歳になるまでは

孤児保護の恩給が月に50クローネ出る事になっている。

年に600クローネの恩給とは凄いものである。


孤児恩給の半額は姉のアンゲラに養育費として渡っていたらしいが、

『我が闘争』に描かれた無一文でウィーンにやってきたというのは嘘である

らしい。

孤児恩給は本来なら全額を妹のパウラが受け取るべきだとも言われている。


叔母のハンニにアドルフは溺愛されており、父親の遺産や母親の遺産だけで

なく叔母の遺産2000クローネもアドルフは受け取っていたらしい、、、


1913年の頃のアドルフはイエズス会や

共産主義を批判していたが、絵画をユダヤ人画商に好んで売っていたし、

画商との親睦も深かった。


24歳のアドルフは故郷のリンツにて

徴兵検査を受けていないから、兵役忌避罪とその事実を隠しての国外逃亡罪になる。

事実が発覚して逮捕されたら1ヶ月〜1年の禁固刑と2000クローネの罰金という重罪である。

史実のアドルフは1914年1月18日に逮捕されている。

ザルツブルグで行われた兵役検査で不適格と判定され兵役を免除され罪も免除されたが、この時の納税証明書からも裕福な事が伺える。

同年齢の銀行員の給料が70マルクなのに、アドルフの月収は100マルクあり、

年収は1200マルクだった。


史実のアドルフはバイエルン王宛に

請願書を提出しバイエルン陸軍に入隊している。

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