192話目オーストラリアのアボリジニ。

西洋人がオーストラリアを「発見」した段階では、50万人から100万人ほどのアボリジニ(オーストラリア先住民族)がオーストラリア内に生活していた。


しかし1920年には約7万人にまで減少してしまっている。


人口減少の最大の要因はヨーロッパ人が旧大陸から持ち込んだ伝染病(天然痘や梅毒、インフルエンザ、麻疹など)の流行によるものと考えられている。


それまでオーストラリアは旧大陸とはほぼ隔絶されていたため、アボリジニはこれらに対する免疫を持っていなかったのである。


(だが、アメリカでもそうだったのだが、邪魔な先住民を減らす為に天然痘などの各種の病気を人為的にばら撒いて大規模に虐殺したと思われている。


アメリカ政府は入植し始めた頃のアメリカ大陸にどれほどの人数のアメリカ先住民が居たのか発表しないが、

その人数から現在のアメリカ先住民の数を引いた人数がナチスが殺害したユダヤ人達より多いと言う事がアメリカに取って、よっぽど不都合な真実なのだろうか、、、



1788年からのイギリスによる植民地化によって、初期イギリス移民の多くを占めた流刑囚はスポーツハンティングとしてキツネを狩るように多くのアボリジニを虐殺した。


「今日はアボリジニ狩りにいって17匹をやった」と記された日記がサウスウエールズ州の図書館に実際に残されている。



1803年にはタスマニアへの植民が始まる。入植当時3,000〜7,000人の人口であったが、1830年までには約300人にまで減少した。


虐殺の手段は、オーストラリア本土と同じくスポーツハンティングや毒殺、組織的なアボリジニー襲撃隊も編成されたという。


数千の集団を離島に置き去りにして餓死させたり、水場に毒を流したりするといったことなども行われた。


また、1828年には開拓地に入り込むアボリジニを、イギリス人兵士が自由に捕獲・殺害する権利を与える法律が施行された。捕らえられたアボリジニたちは、ブルニー島のキャンプに収容され、食糧事情が悪かったことや病気が流行したことから、多くの死者が出た。

島に隔離しての虐殺である。


これによりアボリジニ人口は90%以上減少し、ヴィクトリアとニューサウスウェールズのアボリジニの人口は、10分の1以下になった。


多い時期で約3万7千人ほどいたタスマニア・アボリジニは激減した。



特に東海岸沿岸部等の植物相の豊かな地域に居住していたアボリジニは、当初はイギリス移民との平和関係を保っていたものの、後の保護政策に名を借りた強制的な移住もあり、この入植者たちによるハンティングという惨劇を語り継ぐ者をも残さず姿を消している。(絶滅)


20世紀前半には、アボリジニは絶滅寸前の人種(死にゆく人種、死にゆく民族)として分類されるようになる。

この死に行く民族という規定は、1937年まで続く。

死に行く民族という規定が廃止されると、今度は積極的に白人社会に同化させる方針が強化される。


イギリス人らの入植開始当初は50万-100万人いたアボリジニ人口は、1920年頃には約7万人にまで減少していた。

同1920年、時のオーストラリア政府は先住民族の保護政策を始め、彼らを白人の影響の濃い地域から外れた保護区域に移住させたが、これはむしろ人種隔離政策的な性質があったようである。

元々オーストラリアに移住した白人は、犯罪者が大半を占めていた。そして、徹底的な人種差別政策、いわゆる白豪主義をもって、移民の制限及びアボリジニへの弾圧政策を続けた。


また、1869年から公式的には1969年までの間、アボリジニの子供や混血児(『ハーフ・カースト』と呼ばれ人権は認められず、奴隷のように売春婦として利用されることさえあった)を親元から引き離し白人家庭や寄宿舎で養育するという政策が行なわれた。

様々な州法などにより、アボリジニの親権はことごとく否定され、アボリジニの子供も「進んだ文化」の元で立派に育てられるべきという考え方に基づくものと【建前上】は定義されていたが、実際はアボリジニの文化を絶やしアボリジニの存在自体を消滅させるのが目的であった。政府や教会が主導して行なわれたこの政策で子供のおよそ1割が連れ去られ、彼らの行き先は実際には白人家庭でも寄宿舎でもなく、強制収容所や孤児院などの隔離施設であった。


そして、隔離施設から保護を放棄されたり、虐待を受けたり、遺棄された者も少なくはなかった。結果として彼らからアボリジニとしてのアイデンティティを喪失させることとなった。

(これらは史実のアメリカ政府もインディアンに対して行っている。)


彼らは"Stolen Generation"(盗まれた世代)、または"Stolen Children" (盗まれた子供たち)と呼ばれている。なお、「盗まれた世代」の政策が実際に徹底されて行われていたか、またどの程度の規模だったのかは、いまだにわかっていない。


史実では1920年から1930年の間だけで、混血も含む10万人のアボリジニの児童が親元から引き離されて、故郷から数百キロ、時に千キロ以上も離れた、監獄とも言える劣悪な強制収容所に送り込まれた。


無論、アボリジニも全くの無抵抗だったわけではなかった。これらの政策に対してのデモや暴動を起こすものも少なくなかったが、結果としては白人たちの敵愾心を煽るにとどまった。


一方、不毛な乾燥地域である内陸部のアボリジニは周辺の厳しい自然環境に守られながらどうにか固有文化を維持し続けた。

今日でもアボリジニ文化の史跡は沿岸部都市より隔絶された内陸地に多く残る。

近代のアボリジニ激減と、文字文化を持たなかったことから文化的痕跡を残さず消滅した部族も多く、彼らの言語や文化の系統を調査する試みは進んでいない。

音声的に完全に失われた言語も多く、それらの民俗学的調査は「既に大半のピースが失われたパズル」になぞらえられている。


その後、アボリジニ人口は徐々に回復し、1996年には約35万人になった。これはオーストラリア総人口の約2%である。


アボリジニの市民権は、1967年にようやく認められた。


こうしてアメリカでアメリカ先住民に対して行われたような事がオーストラリアでも行われていたわけだが、インド系ゴーレム達はアボリジニに接触し

洗脳魔法で支持を得る事に成功していた。

1923年、アボリジニ達は

『このままではオーストラリア先住民はイギリス人に皆殺しにされて絶滅させられてしまう。

世界の皆さん助けてほしい。』

と世界に訴え始めるようになる。


内陸部のアボリジニの各部族は70,000人で、オーストラリアそっくりに作られたダンジョン内部に匿われる事になり転移魔法で運ばれた。

彼らの住んでいた場所に残ったのは

アボリジニ型ゴーレムであり武装してイギリス人に対してゲリラ戦を行う。


ニュージーランドでもゲリラ戦が開始される。


どこからともなく狙撃された銃弾にて

オーストラリア兵、ニュージーランド兵は損害を増やす事になる。


親元から離された混血のアボリジニの

子どもたちだが、イギリス人の外見の

ゴーレム達が可能な限り保護してダンジョン内のアボリジニ居住地に転移させて保護した。

彼らは志願兵になる者も多く、オーストラリアの先住民独立戦争の主力となる。

オーストラリア内陸部は独立を宣言する。

そして姿を見せずにゲリラ戦を開始する。



作者からのコメント。

下手するとアボリジニが絶滅してしまうと判断し、保護及び独立戦争を開始しました。

アボリジニ達は避難所がダンジョン内だと知りません。

彼らを教育して訓練して武装させて元に戻します。

航空機の性能が低く、車なども貴重品で車両が少ない今のうちが最大のチャンスだと判断しました。


混血のアボリジニ達も含めると勝ち目はあります。

アボリジニゴーレムや歴戦のインド人ゴーレムが彼らを守り戦います。

その中には日本人のゴーレムの姿も。

日本政府は知りませんが、、、

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