184話目アムリットサル事件。

アムリットサル事件(Amritsar Massacre)は、1919年4月13日、インドのパンジャーブ地方アムリットサル(シク教の聖地)で非武装のインド人市民に対して、イギリス人のレジナルド・ダイヤー准将率いるグルカ族およびイスラム教徒からなる英印軍部隊が無差別射撃した虐殺事件である。


アムリットサル虐殺事件の起きた市内の地名をとってジャリヤーンワーラー・バーグ事件(Jallianwala Bagh massacre)とも言われる。


市民はスワデーシー(インド自治)の要求と、ローラット法発布に対する抗議のために集まっていた。

聖地を見にやって来ていた人も大勢居た。単なる観光客も巻き添えになって

死亡している。


イギリスは東インド会社を介して、植民地支配を広げ徐々にインドに進出。17世紀末までには、ポルトガルやオランダを圧倒するまでになった。


1757年のプラッシーの戦いでもフランスに打ち勝ち、支配規模を拡大。マラーター戦争やシク戦争を通じて、藩王(マハーラージャ)やシク教徒の力を削ぐことにも成功した。

セイロン島もオランダより奪い、ウィーン会議で承認を取り付け、勢力の衰えたムガル帝国を脅かすまでになる。


1857年には、東インド会社で雇っていたインド人兵(セポイ)による反乱(インド大反乱)が勃発。ムガル皇帝バハードゥル・シャー2世を擁立し、その勢いは全インドに波及した。


だが、残念だが、東インド会社により鎮圧される。

この反乱により、東インド会社は解散。

ムガル皇帝のビルマへの追放により帝国も滅亡し、当時、王位にあったヴィクトリア女王がインド女帝を兼任することにより、イギリス政府による全インドの直接統治が始まってしまったのである。


1917年の英国インド相エドウィン・モンタギューが行った自治の約束(インドの自治を漸進的に実現していく)は形式だけの自治を認めるインド統治法の発布に終わり、1919年3月にはローラット法(インド政庁発布の、破壊活動容疑者に対する令状なしの逮捕、裁判ぬきの投獄を認めた法規)が発布された。


4月に入ると、アムリットサル市を中心としてパンジャーブ州(過激派テロ組織「ガダル党」の根拠地でもある)では大暴動が発生し、銀行、駅、電話局、教会などが暴徒に襲われ、十数人のイギリス人が殺害されたため、治安部隊が投入され、集会の禁止が通達された。


集会の禁止が通達されたものの、4月13日には2人の民族指導者の逮捕に抗議する非武装の1万2千人の集会がアムリットサル市で行われた。


女性や子供も参加し、非武装で暴力的行為も無かった、この集会の参加者に対してイギリス人のレジナルド・ダイヤー准将率いるグルカ兵からなるイギリス領インド帝国軍一個小隊が乗り込み、いきなり参加者に対する発砲を始めた。


さらに避難する人々の背中に向けて10分から15分に渡って弾丸が尽きるまで銃撃を続け、1,500名以上の死傷者を出した。(3500名とも言われている。)


この後、戒厳令が発令され、暴動は収束したが、この弾圧は火種によってインドの反英運動は激化することになった。


イギリス軍は装甲列車を使用して

村落の中や群集の間に機関銃の射撃を加えたりもしている。

爆弾や機関銃は飛行機上からも使用され、クハルサ高等学校を爆破した空軍機もあった。


ダイヤー准将はその地位を奪われたが、しかしインド人によってテロ政策の責任者と目されたサー・マイケル・オドワヤー(パンジャーブ副総督)および総督チェルムスフォード卿は、責任を問われることはなく、かえって賞賛されるほどであった、、、


パンジャーブ地方はこののち戒厳令が敷かれたが、すでに1919年4月6日にマハトマ・ガンディーによって始められていた非暴力抵抗運動(サティヤーグラハ)は、この事件を契機にして大きく進展することとなった。サティヤーグラハの運動理念は、のちにガンディーがインド独立運動を指導する際にも引き継がれた。


ダイヤー准将の行動は、イギリス政府からも厳しく非難され、大佐に降格の上に罷免された。だが、上院の保守派がかばったことと、本人の健康状態の悪化によって訴追されることはなかった(ダイヤーは1927年に死去しているが、健康状態が悪化していたからこそ、悪役を押し付けられたのだともいわれている)


だがイギリス人達はインドの小さな変化に気がついていない。


彼等兵士が違う宗教、違う地域のインド人を同胞だと認識し、虐殺を嫌がるようになりつつあるのを、イギリス人は何も知らない。


宗教が違えば敵だと思っていたのは間違いじゃないのか?と思い始めているのを知らない。


インドVSイギリスの構図になろうとしているのを想像していないのだった。


スパイスを買い付けしながら洗脳魔法を駆使してインド人意識を広めた甲斐があったというわけだ。


そして1段階、インド解放計画を広める時がやって来た。


憎いイギリス人にいいように利用されていてはイギリス人を豊かにして、

インド人は貧しいままである。


『子どもや孫が飢えて死ぬかもしれない国のままでいいのか?』と言い続け、訴え続けた甲斐があったというものだ。


インドにはカースト制度があり、

同一地域、同一宗教でも一体化意識を

持たせるのは非常に難しいです。

低いカーストの人間は人だと認められていません。

インド国民の同胞意識は一定のカーストの上と中の人間に持たせているだけです。

カーストが低い人間に対する認識を変化させるのは洗脳魔法でも難しい事が

判明しました。

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