182話目お好み焼き
実は宇垣昌弘はお好み焼きやたこ焼きが大好きだったりする。
これは史実のお好み焼きの話だが、
池田弥三郎の「私の食物誌」には「昭和6〜7年(1931〜1932年)ごろに銀座裏のお好み焼き屋が密会所のようになり、風俗上の取り締まりで挙げられた」というエピソードが記録されており、当時のお好み焼き屋は飲食を口実として懇ろの男女に逢瀬の場を提供する、どちらかと言えばいかがわしい業態としても機能していたことが読み取れる。
食文化史研究家の岡田哲は、「お好み焼き」は当時の東京の花街において、座敷にしつらえた鉄板で客が自分の「好み」に焼く風流な遊戯料理として誕生したというこの証言に基づいた解釈を紹介しており、日本コナモン協会会長の熊谷真菜も自著にて同じ説を採用している。
田辺聖子は藤本義一との対談の中で、大阪でお好み焼きが知られるようになったのは昭和16〜17年ぐらいからではなかったかと発言している。
現存するお好み焼き屋の中で最古とされる店は、浅草の「風流お好み焼 染太郎」で昭和13年(12年という説もあり)の創業であるが、大阪でも同じ時期に「以登屋」(現在は閉店)が開店しており、大阪で初めて客に自由に焼かせる「お好み焼き」を紹介したとされる。
以登屋は芸者や花柳界の粋人、船場の旦那衆などを対象とした高級店で、市中の洋食焼きが10銭程度であった時代に1円50銭もしたという。ちなみに大衆店として人気を博した染太郎では、創業当時のお好み焼きの価格は一枚5銭であった。
戦後、「お好み焼き」という言葉は客が自分で焼いて楽しむという原義を離れ、ネギではなくキャベツを用いた粉物料理そのものを指すようになる。キャベツを用いる混ぜ焼き式の「お好み焼き」は近畿地方を中心に戦後急速に浸透し、全国各地で洋食焼き・どんどん焼きからお好み焼きへと料理の名称と調理法が更新されていった。焼き方に関しては現在も戦前のスタイルを残す地域が存在するものの、名称の点ではほぼ全国的に「お好み焼き」に統一されている。お好み焼きは戦後の大阪において、具材やソースの追加、腰掛け式のカウンターテーブルの採用などの変化を経て、本家と言われるほどに発展していく。
ちなみに、宇垣昌弘はお好み焼き屋が
取り締まりをされるようないかがわしい店になっていた事を知らない、、、
皇太子時代の嘉仁親王(大正天皇)と一緒にふらりとお好み焼き屋に入って食べていた時に警察がやってきたら驚いた事だろう。
この世界では明治末期の1900年頃には宇垣系列のお好み焼き屋が銀座の裏筋に店を出したりしているからだ。
なお、そこではたこ焼きも食べられる。
上皇陛下が天皇だった時代にお忍びで
来店されて貸切の店でお好み焼きを食べた事もあったりする、、、
もし、警察がやってきたら、護衛の衛士達は慌てて止めるだろう。
陛下や殿下が外食を楽しまれる機会なんてそうそう無いからだ。
せっかくの御食事を台無しにするわけにはいかない、、、
なお、広島や大阪のお好み焼きのルーツはピザであり、昭和初期に軍艦の乗組員がヨーロッパから呉に伝えたという説もある。
宇垣系列にはピザやパスタを出す洋食屋もある。
この世界もピザを食べて改良してお好み焼き屋を出そうとする料理人が出るかもしれない。
欧州で裕仁親王殿下はパスタやピザを
食べられているし。
コロンボで停泊した時の戦艦近江・美濃・高尾は大量にスパイスを買い付けてニュースにもなっていたらしい。
週末にカレーを食べるのは日本の軍艦にとっては当たり前の事なのだが。
宇垣昌弘が皇居内の自宅でたこ焼きを陛下や殿下に振る舞う時は変わり種たこ焼きとしてチーズやうずらのゆで卵やベーコンなどをたこ焼きの中に入れてドミグラスソースやクリームチーズソースをかけてたこ焼きを食べる事もある。
先祖返りとも言えるかもしれないね。
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