176話目イギリス到着。

イギリス到着。


5月7日午前11時10分、一行はイギリス本国のポーツマス近くのワイト島に到着し、駐英大使林権助や大西洋艦隊司令長官チャールズ・マッデン大将らの奉迎を受けた。

一行はここで正式な上陸式典の行われる9日まで待つこととなった。


翌8日、裕仁親王はマッデン大将の旗艦ドレッドノートでの昼食会に招かれた。

(史実の時に招かれたのはクイーンエリザベスであり、基準排水量は32700トン、38.1cm主砲を8門も搭載している強力な戦艦である。1915年から5隻も建造され始めている。

史実とは大違いな戦艦の建造ペースだ。)


9日午前8時50分、近江、美濃、高尾はポーツマス軍港に到着し、午前10時10分にプリンス・オブ・ウェールズのエドワード王太子(後の国王エドワード8世)が近江に乗船した。

午前10時27分、裕仁親王とエドワード王太子らは連れだって埠頭に上陸し、ロンドンに向かう宮廷列車に招待された。


午後12時40分にロンドンのヴィクトリア駅に降り立った。

駅ではヨーク公ジョージ公爵(後の国王ジョージ6世)やコノート公アーサー公爵首相代理などの政軍高官が奉迎した。

儀仗兵閲兵の後、裕仁親王、閑院宮ら一行はヨーク公とともに宿舎であるバッキンガム宮殿に向かった。

メアリー王妃との面会の後、

国王ジョージ5世との昼食会に台臨した。歓迎行事は午後11時30分まで続いた。裕仁親王はこの際に国王に対する答辞を英語で行った。


10日にはウィンザー城で歓迎行事が行われ、裕仁親王がヴィクトリア女王や国王エドワード7世の墓に献花を行った。

その後裕仁親王はバッキンガム宮殿に戻ったが、部屋で休息していると突然国王と王妃が訪れ、1時間ほど打ち解けて歓談するという一幕もあった。11日、ロンドン市による奉迎行事に台臨する。


裕仁親王はイギリス滞在中、最初の3日間はイギリス王室の賓客、続く5日間はイギリス政府の賓客、その後は非公式滞在という扱いであった。


12日、裕仁親王はバッキンガム宮殿からウェストミンスターのチェスターフィールドハウスに移り、午後2時半にはナショナル・ギャラリーを台覧し、その後英国議会を訪れて、庶民院の議事と貴族院の儀礼を見学した。


13日には在英邦人代表に引見し、その後大英博物館やイングランド銀行、ロンドン塔等を訪れた。裕仁親王はロンドン塔では武器類に興味を示したという。

その後テムズ川を船で遡ってウェストミンスターに戻り、午後8時半からは日本大使館で裕仁親王主催、エドワード王太子を主賓とする晩餐会が開かれ、500名の貴賓が参列した。


14日、裕仁親王ら一行は特別列車でオックスフォード大学に向かった。オックスフォードでは学内の見学を行った後、留学生から本の献上を受け、ボート競争を見学した後ロンドンに戻った。

6時20分からはデイリーズシアターで『シビル』を観劇した。

この予定が告知されていたこともあり、観衆の3分の1が日本人であった。

5月15日午前にはクランフォードで

ボーイスカウトの奉迎を受けた。

午後にはデビッド・ロイド・ジョージ首相と官用別荘で昼食会を行い、午後のお茶の時間まで歓談を行った。


16日には王立ケンリー基地を訪れ、ヨーク公とともに飛行ショーを台覧した。

午後にはグリニッジ天文台や王立医学校の訪問を行った。

17日にはオールダーショットの陸軍基地を訪問し、午後はサンドハースト王立陸軍士官学校や参謀大学を訪問し、陸軍参謀総長ヘンリー・ヒューズ・ウィルソン元帥の歓待を受けた。

裕仁親王は士官学校での中隊対抗試合のために優勝カップを贈呈し、裕仁親王の即位後には「日本天皇杯」と呼ばれた。


17日で公式日程は終了した。

18日、裕仁親王の一行は特別列車でキングストン駅からスコットランドに向かった。イギリス政府はスコットランドの風物が裕仁親王にとって安らぎになると考え、またスコットランドの大貴族アソル公爵ジョン・ステュワート・マレーに裕仁親王の接遇を依頼することで、親王にイギリス貴族を知ってもらう機会になると考えていた。


なお、一部の供奉員は宿泊所の都合上同行せず、ロンドンに待機する。

18日、ケンブリッジ大学に立ち寄る(政府国賓としての最後の行事)。

ジョセフ・タナー教授の「国王と臣民との関係」という御進講を受け、名誉法学博士の学位を贈られる。

トリニティ・カレッジで晩餐会の後、午後11時にケンブリッジを出発した。


19日午前9時28分、エディンバラ着。公立慈善病院や王立高等学校を訪れた。

王立高等学校でも名誉法学博士の称号を受けるなど奉迎された。

裕仁親王は挨拶の最後に「もし校則が許すなら、今日の記念として次の月曜日(23日)を休校にして生徒達を喜ばせてほしい」と付け加え、校長が承諾すると、生徒達は帽子をとばすなどして歓呼の声を上げた。その後、エディンバラ大学においても名誉法学博士号が贈られる。


21日、エディンバラでボーイ・スカウトの集会に台覧した後、裕仁親王らはパース駅に向かった。

パース駅ではアソル公爵が私兵や市民を動員して奉迎式典を行った。裕仁親王はパース駅からアソル公が保有するブレア城まで宇垣マーク1で向かったが、村人の相次ぐ奉迎によって30マイル進むのに3時間もかかった。

裕仁親王の寝室にはブレア城の「赤の間」が用意され、アソル公爵家の領地でとれた産品が振る舞われた。

23日に行われた別離の舞踏会は領内の村人達が普段着姿で参加し、公爵夫妻とステップを踏むという牧歌的なものであった。宴の最後には一同でスコットランド民謡『オールド・ラング・サイン』が歌われた。


帰途、裕仁親王の一行はマンチェスターで市長主催昼食会に招かれた(25日)。この席で裕仁親王は炭坑ストライキに同情をこめたスピーチをアドリブで行い、周囲を驚かせた。

26日午後7時10分、裕仁親王の一行はロンドンに帰着した。そのままホテル・セシルで開催されたロンドン日本協会(ジャパン・ソサエティ)の奉祝会に参加した。

この会には王太子やヨーク公、閣僚や各国大使も参列した大規模なものだった。

27日にはイートンを遊覧した後、バッキンガム宮殿で国王・王妃との別れの午餐会に台臨した。


その後海軍記念日の行事やリージェンツ・パークでの在留邦人の祝賀会に参加した後、在英日本大使館で裕仁親王主催で晩餐会を開いた。

28日、裕仁親王らは軍事参議院代表の祝辞を受けた後、日本人の祝賀会に台臨し、翌日未明まで歓談に及ぶ。

29日、オーガスタス・ジョン(王立肖像画家協会会頭)のアトリエにて肖像画を作成。

サリーにてゴルフプレイを台覧する。午後2時半には国王・王妃らに見送られ、ヴィクトリア駅からロンドンを発って再びポーツマスに向かった。30日、近江・美濃・高尾はポーツマスを出港し、フランスに向かった。


その後、フランス・ベルギー・オランダ・ドイツ・ロシア・デンマーク・

スペイン・オーストリア・ハンガリー帝国・イタリアを訪問されて、アメリカのニューヨークとワシントンDCを訪問され、メキシコ、ブラジル、アルゼンチンを訪問、サンフランシスコ、ハワイを訪問されて帰国されました。

史実とは大違いの世界一周ルートになっちゃいましたね。


この後、欧州の貧しいユダヤ人の欧州離れが更に増えてイスラエルの人口が

増える事になります。

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