止まない雨に漕ぎ出でて(comitia145)
丹路槇
止まない雨に漕ぎ出でて
雨に濡れた車窓を眺めながらある人を思い出していたら、その人は本当に目の前に現れた。
風はないが冷たい秋雨が降り続く朝だった。靴の中まですっかり水が染み込み、ようやく駅に着けば信号機の故障で上下線の電車が運行停止していた。
仕方なくさらに十五分歩き、普段は乗らないJRの沿線を使うことにする。混雑したホームで発着する2本を見送り、点字ブロックの前に立って次に停車する電車を待った。
時間調整でやや速度を落とした車両がごとんと駅へ入り込んでくる。ホームドアの向こうで滑走する車体には小さな雨粒が夥しく付着して後ろへ流れていた。
滲む水泡とざっと吹く風が視界を行き過ぎて、電車からわらわらと降車客が溢れ出てくる。
ぶつかり合う肩の衝撃とうっそうと烟る湿気に思考を無にして、自分が乗る予定の車両を不確かに見つめていた。
規則無く積み上げられた荷物が崩れるように降りていく人々からさっと身を引く。ホームドアの外へ潔く出てその流れを待つ男性に、自然と視線が動いた。目の前に立つ人は背が高く、黒髪を後ろで束ねている。薄めだが広い背に中性的な雰囲気を感じて、ただの好奇心からそちらへ半歩近づいた。容貌を判別する前に、頸にある三つ並んだほくろが見える。その特徴的な首元に鮮明な記憶が紐づいた。
偶然を装ってホームドアの手前にある靴の踵にこつんと傘の先をぶつけてみる。振り返った目は思い出した通りの、降りしきる雨に打たれたような水膜がじんわりと滲んでいた。
「櫂くん」
懐かしい呼び名で俺を呼ぶ男は、同じ高校の同級生だった。
大瀬航という名のその青年は、俺と再会して早々、無風の雨なのに駅へ着く手前で突然傘が壊れたことを嘆いた。まるで俺がいつも長傘を持ち歩いているかどうかにかかわらず折り畳み傘を携帯していて、当然にそれを借りられるかのように言う様が、誂えられた再会の場面のようだと幾分白々しく思ったが、むしろこちらがそれを待ち望んでいたからなのかもしれなかった。
大学に通う頃まで、自分が女性よりも男性に魅力を感じる、性的マイノリティだということに気づいていなかった。よくある、新歓で男の先輩が悪戯半分に尻を揉んできたがちっとも嫌ではなくて驚いたとか、隣の席の女子学生の香水の臭いに耐えられなくて教室を飛び出して吐いたとか、そういう些細な事から自覚の萌芽は起こった。それまでほとんど認知していなかった自意識を顧みてやっと、高校生だった当時、今ここにいる大瀬航に恋をしていたのかもしれない、と気づいた。
分かった途端に終わった恋とは何とも滑稽だと思った。なぜか今日まで文化祭制作チームのグループチャットが消されずに生き残っていたので彼と全く連絡が取れない訳ではなかったが、それに縋ってでも不完全な何かに敢えて終止符を打つ気は毛頭無い。
大瀬は今、城南工業大学に進学してひとり暮らしをしているはずだった。遭遇した路線上に彼の実家の最寄り駅があったはずなので、昨日あたりにたまたま用があり今朝はそのまま通学する、そんなところだろうか。
先にこちらが大学の最寄り駅で降りて別れを告げる。雨の道を余分に歩きたくなかったので、地下鉄直結の改札まで出てわざと暫く地中の通路を渡って行った。
階段で地上に出たところで携帯電話のホームボタンを押し、時間の確認をする。いつもはだんまりの通知が今日は珍しくかさんでいる、と思えば、大瀬がグループチャットを賑わせた後のようだった。
《みんな久しぶりー! 誰か櫂くんの連絡先知らない?》
《ワタルおつかれー。櫂? ダレ?》
《もしかして長岡くんのこと?》
《そう! 長岡櫂! 電話番号でいい知ってたら教えて》
《長岡くんだったらこのグループまだ入ってるよー》
《わ! 見た! ほんとだ! ごめんみんなありがと!》
《ちょっと用件それだけ? ついでにみんな元気? 大卒就活する人、今度集まらない?》
《俺院試ー》
《就活組やろー、院試組もおいでよ! 調整カレンダー作ったから入力してー》
チャットの履歴を追っている間に別のメッセージが入る。ポップに出る本文の1行目に《大瀬航(おおせわたる)です》と律儀に書かれていた。
借りた傘を後日返したい。お礼に食事を奢る。
一瞬、息が止まった。たぶん、嬉しくて。
大瀬にとればこんな事は日常茶飯事だろうし、数年会っていない友人と変わらず交流を再開するなどきっと何でもないことだろう。もともと世界中の目が合う人全てを友人だと思っていそうな奴だ。愛想も面倒見も良くて、いつも快活に笑う男。
それなのに、目だけは降り止まない秋霖の中にいるみたいだった。俺はその核心をいつかどうにかして暴きたいと思っているらしい。親指をぐっと押し付けたまま液晶画面の暗転を妨げて、それでも一文字も返信を打てないチャット画面を、時間を忘れぼんやりと眺めている。
「日本酒バーでもいい? 肴が美味いところ、こないだ行ったんだけど」
いつもは使わない山手線の駅で降りる。改札はひとつしかないと言われていたのに間違えて東急の連絡改札から出てしまった俺を、大瀬は笑いながら走って迎えに来た。
日本酒は好きだが銘柄はてんで分からない、と告げると、男は電車で会った朝と変わらず後ろに括った髪を揺らし、首を傾げながら目尻に皺を寄せる。
「俺も美味いやつの名前覚えるだけで、ほとんど知らないよ。後半は酔ってるから全部美味いって思う」
「分かる」
「あはは、分かるんだ。櫂くん、お酒強そうだね。うちのサークルは結構ノンアル男子多くてさぁ」
大瀬は高校時代に在籍していたギター部から弦楽器に興味を持ったのか、大学では管弦楽団に所属していた。父親の伝手でチェロを借りたので迷わずそのパートを希望したこと、2年の後期からインスペクターという役職に就いていること。
俺がかつて吹奏楽部員でホルンを吹いていたことも憶えていた。「櫂くんみたく上手じゃないけど」という嫌味のない社交辞令も忘れない。
くだけた口調が心地良く耳元を擽る。相槌を強いない、たゆたうような話し方は、生来の人当たりの良さそのものだろう。
乾いた秋風が首元を通り抜けていった。パーカーのチャックを引き上げて両手をポケットに突っ込み、時折黙っては柔に笑う男をそっと見上げる。伸びるそぶりも見せずに止まった自分の身長が嫌いだった。唯一の救いは群衆で気配を消すことができること。人と同じ行動をとるのも昔から嫌いで、結束するとか騒いで楽しむだとかが不得手だった。今夜も本当ならグループチャットで予定が決まった文化祭チームの飲み会の席で傘を返せば良かっただけのことを、俺の性分を読んでわざわざ約束してくれたのだろう。彼の気配りにただ甘えてついてきた自分が余程子どもらしく思えた。
例え大瀬の方に何か期待や、望む相応の見返りがあったとしても、俺がそれを汲んで応えられるような何かには到底なり得ない。今夜は一度きりの晩酌、そう思うことにしている。
「俺、酔鯨にする」
「わ、かっこいい名前のお酒」
「思った。味は知らない」
「あはは、本当に櫂くん、いいね」
ご馳走になるというのはただの名目だとして割り勘の覚悟はしていたが、ちゃんとバイト代を財布に入れてきたかと不安になるくらい飲んでしまっていた。軽食も摂らずに入店したので食べ物もかなりしっかり注文している。そろそろお開きか場所を変えるべきか、と思っていると、大瀬が酒でいっそう綻んだ顔で角のない声を出した。
「時間あれば、俺んちで二次会、どう?」
どっと心臓が跳ねる。いいのか、俺、好きな人の家に行って。
手にしたままのガラスの猪口に視線を落としながら、明日は、と月並みな応答をした。大瀬はさも当然に、2限があるが飛ばしても平気な科目だと言う。
黙っているうちにぐらぐらと酔いが回って目の前がぼやけてくる。心臓はずっと煩いままだ。ゆっくり息を吐くと、躊躇いながら小さく頷いた。このあと終電で帰ることになっても、今後の俺の人生でそう訪れないであろう、意中の人の部屋に招かれるということを、一度だけでも体験してみようと思ったのだ。
大瀬はぱっと笑顔を見せてから、トイレ、と言って立ち上がった。入店して三度目の離席だったが、その時初めて携帯電話を手に持って行った。
大瀬の家は日本酒バーのすぐ近くを走っている私鉄に乗り7駅目のところで、走行する電車は二車両で地上を走り、駅には踏切がついていてカンカンと夜闇によく響いた。
改札を出て商店街の中ほどにあるコンビニに寄る。適当に酒と水と菓子、何を思ったかカップ麺とエクレアも買った。半分こ、と言ってビニール袋の取っ手を片方差し出された時も、急に左折してくるバイクに気づく前に俺の胸の前に腕を伸ばして庇われた時も、大瀬にはこれがいわゆる日常で、偶然その恩寵の中に今夜だけ俺が迷い込んだような気持ちになった。
大瀬航という彼氏像は、推察する通りの温厚で優しく細やかな気配りをする、つまり理想形に違いない。今も当然、同じ学科かサークルかバイト先かで出会った、似合いの交際相手がいるのだろう。
「櫂くんは今、彼女いる?」
彼の部屋でソファベッドの端にあるクッションを持って気持ち良く酒を飲んでいる時に、隣に座る見目の良い男から不意打ちを食らう。ワンルームだが広くて感じのいい空間にあっという間に馴染んで足を伸ばし隙だらけに寛いでしまっていた。驚いて居住まいを正すと、大瀬も少しびっくりした顔をした。目を見開くと長い睫毛が揺れて涙袋の上に影ができる。縺れのないさらさらとまとまったひっつめの髪と同じ艶のある黒だ。俺の趣向だけかもしれないが、男にも造形美というのはあるのだなと感心する。
端然としたその容姿にただひとつの憂い、それはふたつ並んで濡れた双眸だった。背を立てて座り直した時に自然と目が合う。男は、なに、と僅かに白い歯を見せる。
「いない、彼女」
「そっか。出会いがない、とか?」
何と答えるべきか、考える余地はたくさんあったはずなのに、別に馬鹿正直にならなくてもここは頷いて済ませればただそれだけで良かったのに、適当に躱すという対応そのものが不得手な俺はそこに沈黙を作ってしまった。そして考えた末に碌な成果も出ず、至極つまらない言葉を並べてしまう。
「できないと思う。欲しくない、から」
一口残っていたハイボール缶の底を真上に向けて飲み干した。買った酒のうち俺の分はこれで終わったはずだ。このまま会話が尽きたら帰ろう。終電が無くなっていてもこの際どうでも良かった。
大瀬航に俺が同性愛者だと告げてもそつなく対応してくれることには違いないと思った。こちらが居た堪れないと思わずに済むような、絶妙な言葉で包み、仕切りを施し、そっと蓋を被せる。それを疑う余地はない、ただ何をしたって後ろめたさと申し訳なさが募った。
空になった缶をまとめて持ち、台所へ向かう。男はそれについてきて、そのまま置いておいて、と背中越しに声をかけた。
「ご馳走様」
それが散会の挨拶になると思って告げたが、大瀬はふわりと微笑んですぐ脇のカウンターに手をついた。
「寝るの、ベッドとお布団だったら、どっちが好き?」
結局、敷かれた布団に入ることもなく、だらだらと飲み食いしては着地の無い会話を続け、この部屋の主と一晩を明かした。
夜が深くなると大瀬は口数が減り、不必要に笑わなくなった。時折頬杖をついてこちらを見遣り、「櫂くん、お肌綺麗だね」と蒼白くて不健康な皮膚をやたら褒めてくる。
軽い応酬のつもりで、いつから髪を伸ばしているのかと尋ねると、男は黒い髪ゴムを引き下ろして毛束を解きながら、これは願掛けなのだと答えた。
「オケって一曲やりきるだけで本当、大変なんだね。年に2回の定期演奏会でも、ラボで実験とかあると練習、難しくてさぁ。これ、交響曲の演目で舞台に乗れて、楽譜の音を落っことさなくなったら、頑張ったねって、お祝いで切るの」
まだまだでしょ、と苦笑する姿が眩しかった。耳に被さった黒髪が秋雨みたく重力に従ってぱらぱらと落ちる。結び目の癖が流線形の波を打って光り、彼の劣等意識ですら美しいもののように思えてしまう。
大瀬はそれからずるずると猫足の低いテーブルに突っ伏して、顔だけ横倒しにすると、少し照れ臭そうに呟いた。
「今度さぁ、オケの見学、来ない? 見るだけ、入団考えなくていいやつ。どう?」
つくづく酔狂な人だと胸中で独り言ちながら、彼に倣ってテーブルにひた、と頬をついた。腕はあぐらの中に落として、頬を乗せた木製の家具から伝播する鈍い家電の音を聞く。
「なぜ」
「練習、聞いてほしいんだぁ。火曜金曜は分奏の日、土曜は合奏で一曲通すの。櫂くん、聞いたら本当のこと教えてくれそう、だから」
無邪気に話す男の口元にばらけた髪がかかる。それを指先で払い除けたい欲求を押し殺して、脱力しながら瞼を下ろした。
「俺、分かんない」
「え、なに」
「チェロの音。全部鳴ってると、聞こえない」
気の抜けるままにゆるゆると口を滑らせていると、大瀬はがばっと起き上がった。
「えっ! そうなの? そういうモノ?」
目を開くと髪を垂らした男の顔が見える。ああ、今は首の後ろにあるほくろは見えなくなっているんだな、とどうでもいいことを考える。
「そういうモノ。部活、弦楽器はコントラバスしかいなくて、音域の境界と音色、分かんない。ヴィオラと間違えそう」
「へえ、意外だ」
「なにが」
静かな住宅地に雀の鳴き声がする。夜明けの活動を始めた報せだ。間もなく電車が動き始め、俺は宵越しの薄汚れた身体を引きずり、誰もいない部屋に戻る。同居の祖母は早起きで、毎日朝5時になると区画借りしている市営の畑に出ていた。
酒ではなく眠気で腑抜けた顔をしている大瀬航は、やや安堵した顔で上体を起こし、開いた掌に顎を乗せる。
「俺、櫂くんは何でもできる人だと思ってた。できないって言う時の顔、可愛いね」
俺はやはりここに長く居過ぎたらしい。目の前にある乱れも歪みも知らない端然とした顔面にべしゃっと手を押し付けて、そろそろ帰る、と立ち上がる。
二週間後、俺は城南工大の管弦楽団に見学に来ていた。入団の予定もない、次の定期演奏会でアシスタント奏者になれるほどの腕もない、本当にただ見るだけが目的で邪魔していることが少し申し訳なく思う。そもそも高校の部活を引退してから一度も楽器に触れていなかったし、かつて身体に刷り込まれていた感覚はほぼ忘却してしまっていた。
それでも合奏の風景を目の当たりにすると、無性に唇を振動させてバズイングをしたくなったり、左手の運指が懐かしくなって意味もなく関節を曲げ伸ばししたりと、眼前の情景に合わせて忙しなく感情は動いた。当時あれほど毎日辛くて辞めたいと祖母に愚痴をこぼしていたのに、本格的な受験期到来よりも大分先駆けて引退したのをその時は心底喜んだのに、続けていた時にはそれが動力になっていた、〈音楽が好き〉という根本の感情はどうやら今もまだ両握に残っているらしかった。
それでも俺はホルンをもう吹かないだろう。毎日全ての力と時間を賭して向き合っていた音色は二度と出せないと分かっていたのだ。下手になっても楽しく続けたいと思えるような、打算的で過度な期待を止めた付き合い方は向かないと思った。だから生来、人と群生できないのだ、俺は。
工大管弦楽団は管楽器の経験者が多く、特に木管楽器はかなり上級レベルだった。指導者が要所で指示を出せば、演奏表現を変えられる余裕がある。金管の中高音域も安定している。トランペットは下のパートを吹いている人が一番上手だった。主力の世代に役を譲った引退間近の先輩だろうか。
対して弦楽は正直、様々な課題を抱えているというのが正直な印象だった。子どもの頃にヴァイオリンの稽古に通っていた程度が経験者、残りは殆ど初心者、といった感じだろうか。そもそもユニゾンがことごとく不得手な群集に思える。
チェロの音は運弓の動きを目で追いながらなんとか少し音が拾える場面もあった。大瀬は前列、首席の隣で弾いている。交響曲で楽譜から落ちるなんて危なかしい素振りを見せて全部ただの謙遜だったなと、密かに顔を顰めた。むしろ大瀬のレベルで弾けていれば御の字、この楽団は弦楽がどうにかならないといけないのだな、と一度の見学ではっきりと分かった。
この管弦楽団の中で、日頃彼が受け持っているインペクとはどんなことをするのだろうか。分奏、合奏のスケジュール、オーディションの段取りからホール練習、奏者の乗り降りの番……高校であればだいたい顧問がやってくれるような諸事を担うのだろうか。
今、指揮台から檄を飛ばしている指導者も、外部講師であればその都度日程を調整石足り、謝礼を手配したりするだろう。雑務は定期演奏会に合わせてクレッシェンドする。ろくに練習の時間を割けない、大学の課題もある。そう嘆くのは、自然か。
練習室の隅にあるパイプ椅子に腰掛けて、ぼんやりと練習室の天井を見上げる。サークルも学科の自主ゼミにも属さない、ただの学生延命モラトリアムを飽食する俺が、日々に満たされて余りある大瀬を疎んだり、ましてや己の空白を嘆くような思念はさらさら無かった。
最終楽章に合わせて曲調にぐっと圧力が増した。急き立てるような諧調に合わせてチェロのボウイングが揺さぶるように大きく振られる。振られた弓が激しく振動して中低音の独特な彩りが協和音に重なった。
4人のホルン奏者が旋律に合わせて右手で支えた朝顔をぱっと上げる。華やかな姿に幾分懐かしくなって自然と目を細めた。
通しの合奏練習は課題を残しつつ定刻で終わった。大瀬はこの後、俺にどんな言葉をかけるつもりだろう。
解散後、ホルン吹きの面々が見学者のところへ来て話に応じていると、少しして楽器を背負った大瀬もこちらへ歩いてきた。
「櫂くん」
安堵したようにふにゃりと形なく笑う顔には、先日の宵越しの酌で少しだけ見慣れていた。そちらへ振り向いた眼鏡をかけたホルン吹きの女性が、俺がこのまま入団するのかと男に尋ねている。
「あ、そんな感じの話? 櫂くん今、よっちゃん先輩に迫られてた? 大丈夫?」
喋るのを憚って黙って首を横に振ると、俺のことを皆して囲んで虐めてはいないかと温厚な男が眉を吊り上げてみせた。眼鏡の先輩はやや驚いた顔をしながら笑って大瀬の背を叩く。
「入団じゃないってことはエキストラかぁ。長岡くん、唇薄くていい形してる。あとで時間あれば、ちょっと吹いてく?」
「吹いていかない」
何故かそれにひっつめ頭が答えた。飛び出てくるバイクから俺を庇う時のように腕を伸ばされる。
「オーセ、何怒ってんの。吹いて遊ぶくらい、いいじゃん」
「よっちゃん先輩の目がやだ。取って食うみたいに見てた」
「人をセクハラおばさんみたいに言うんじゃないよ。オーセは最近別れた彼女で失敗してるからって、逆毛立てすぎ……」
さっと色を失くしたチェロ弾きのインペクの顔を見て、眼鏡の先輩は所在無く脇に抱えたホルンのロータリーを動かしながら、さて楽器しまうかぁ、とそろそろと離脱していった。後のホルン吹きたちは、短く別れを告げて立ち去っていく。オケのSNSアカウントをひとりの女子が運営しているということで、「良かったらフォローして」とQRコードが入った名刺を渡された。短文投稿で馴染みのサエズッターを使っているらしい。ポケットから財布を出して名刺をしまうと、大瀬が楽器を抱え直しながらパイプ椅子に座ったままの俺を覗き込む。
「これから、暇? 櫂くんとご飯食べたい」
丸みを帯びた声に反して、視線の先には強張った相好があった。付き合っていた女と別れた話を俺に聞かれたからなのか、眼鏡の先輩に茶化されたことに蟠りがあるのか、よく分らなかった。今日は夕方からのバイトのシフトを入れていない。チェロを持ち帰るのなら一度大瀬の部屋に置きに行った方が良いのでは、と言うと、「じゃあ、何か買って帰るか、出前にするのは? 食べたい物、ある?」とあっさり告げられた。このまま無遠慮くに招かれることにするか少しの間迷ったが、きっと大瀬なら誰にでもこんなふうに接するのだろうとすぐに居直った。
「何でも。酒、飲めれば」
「いいね」
こちらに向けられる視線は穏やかに濡れている。今日も大瀬の目の中はしとしとと長雨が降っていた。
(後略)
止まない雨に漕ぎ出でて(comitia145) 丹路槇 @niro_maki
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