第3話 夢幻地獄
また、うなされていた。最近同じ夢をよく見る。しかも悪夢だ。寝汗でTシャツも短パンもぐっしょりと濡れて、不快だった。
だけど、夢の内容は俺を苦しめるには十分すぎる内容だった。
西島さんが出てくる。俺にとってはもう過ぎ去った人だし、これ以上関わっても仕方ない人だった。でも、夢に出てくる。
不思議なことに、俺は根尾谷の薄墨桜の前で、西島さんと寄り添っていた。肩を寄せ合う恋人みたいに。それも、とても自然な形で。
寄り添い合って何かを語り合っていたが、何を語り合っていたかまでは覚えていない。でも、そこには奇妙なくらいの安心感があり、俺は穏やかな気持ちで流れに身を任せていた。
でも、その幸せは長く続かない。突然彼女は何かに吸い込まれるように遠ざかっていく。俺は必死で手を伸ばして彼女の手を掴み、離れまいと抗う。彼女も必死で俺の手を掴み、俺の名前を叫ぶ。結実、と俺も叫ぶ。「離れないで」「離れるわけない、俺達はずっと一緒だ」西島さんは頷く。しかし、どんなに抗っても限界は来るもので、手は無理やり剥がされるように離れ、彼女はどこか遠くへ消えていく。そこで目が覚める。
ひどいもんだ。
どうして、特に関わりの深くない彼女が出てくるんだ。確かに彼女とは1年、仕事や部活の関係で色々話した。それなりに親しかった。でも、離れてしまった今では、特に話す内容もないし、関わる必要もない。でも・・・。
彼女は俺を求めている。時々、思い出したようにLINEが来る。内容は、「お元気ですか?」とか近況を聞きたそうなもので、時々情緒不安定になる俺に、当たり障りのない内容にしてあるのが、精一杯の気遣いとして受け取れた。
だけど、今更連絡を取って何になるんだ。俺は過去の人物で、彼女の生活や仕事には関係ないはずだ。さっさと今に集中してしまえばいいのに。
鬱陶しい、という嫌悪感を抱いた。しかし、それで彼女を完全無視するのも何だかいたたまれない。
何だか、放っておけない、という気持ちが無いわけでもなく、俺は思考の無限ループにはまってしまい、眠れなくなる。
最近、どうもこの無限ループのせいで寝不足になってしまう。しかし、これは俺自身のせいだという認識もある。だけどどう踏み出して良いのかわからない。必要ない人との関わりが分からないのだ。
小さい頃から俺の実家は転勤族で、ちょくちょく引っ越しを余儀なくされた。ある時は東濃の奥地、ある時は滋賀県にほど近い西濃の地域、またある時は下呂や高山と、俺は岐阜県内を親とともに移った。最後は各務原市に落ち着いたが、それまで俺は地域文化の違いや、移り変わるクラスメイトに辟易していた。
東と西、美濃と飛騨では人柄も時間の流れも何もかも違う。時には温かい友情に触れたこともあれば、馴染めず仲間はずれになったこともある。
しかし、どこかで俺は悟っていた。「どうせまた全部変わる」と。だから、俺はもともと社交的な性格ではないことから、学年が上がるにつれてどんどん人を避けた。下手に仲良くして別れを悲しくして未練を残すのは寂しくて嫌だったし、喧嘩やいじめのターゲットになんか絶対なりたくなかった。
だから、俺は次第にインドア趣味や単独でできる趣味に打ち込んでいった。ものづくりープラモデルや模型作り、電子工作はいつでも孤独な俺を夢中にした。作るために手を動かしていると、色んな嫌なことや見たくない現実をかき消してくれる。写真撮影も、1人で静かな山の中や渓流、湖など、町の喧騒を忘れさせてくれる自然に触れているうちにどんどん腕が磨かれた。だから、俺は1人でいるのがデフォルトで、誰かと連れ添って歩くなんて絶対ありえないーと思っていた。
西島さんが現れるまでは。
西島さんは、無垢な性格で純真な人だった。そして、教員になるまで大手メーカーの契約社員や派遣社員などで苦労してきた俺を気遣うかのように、俺にはいつでも優しかった。その優しさに見返りはなかった。理不尽に俺を責めることもなく、「伴走者」のように俺の横にいた。けど、彼女はどこか脆くて弱かった。勿論、講師だから来年の雇用について不安があるのは当たり前だ(俺も経験しているからよく分かる)し、機械科での勤務は初めてだと言っていたから、色々戸惑うこともあるだろう。しかし、それを上回る何かが彼女にはあった。放っておけない、と俺に思わせる何かが。ふとした時に、大きな失敗をするような気配がするし、何か見続けていないといけないような、そんな気がしたのだ。
それは、課題研究の時大きく出た。勿論彼女は生まれて初めての課題研究だったそうだから、上手くいかないのは当たり前だけど、だからといって見守っていれば何とかなるということではなかった。気がついたら俺は大きく手を貸してしまった。時には叱責して彼女を怯えさせたこともある。けど、すべては「放っておけない」「何かしなければ」と思わされていたからだ。
でも、正直俺はそれで彼女が俺を嫌うかもしれない、と思っていた。俺はまず女性に好かれた試しがないので、当たり前の考えだと思っていたが、予想は大きく外れた。彼女は、俺に限りない感謝と尊敬の念を持っていた。「ありがとうございます」「ごめんなさい」なんて、他人から言われたことなかった。
彼女には、俺の手助けが嬉しかったみたいだ。自分が分からないことに一緒に向き合ってくれることが、色んなことを教えてくれることが、嬉しいというのだ。
俺がいて嬉しいだなんて、今まで言われたことなかった。「自分が必要とされている」なんて今までなかった。
だからなのかもしれない。彼女を忘れられない理由は。彼女に喜ばれるたび、彼女に感謝されるたび、俺の心には何か温かいものが流れた。それは、今まで経験したことがないものだった。ゆえに、俺の中で彼女は「仲間」という新しい認識ができたのかもしれない。
だから、彼女の契約打ち切りに伴い、俺もあんな行動を取ってしまった。あのときの俺は、どこか苦しかった。でも、その苦しみを浄化する方法はなく、ただただ自分も異動になっていたことから、そのための引き継ぎ作業にわざと没頭した。
しかし、彼女は俺が現実逃避に走っていても、教えを乞うてきた。その年は運悪く、講師の求人が恐ろしく少なかったため、彼女はあぶれ、契約打ち切りと同時に無職になりかかっていた。その苦しみは、筆舌し難いものがある。つい昨日までは「教員」という仕事に就いて社会人をやっていたのに、年度が変われば一気に無職に叩き落される。学校における、講師という非正規雇用はあまりにも悲惨で残酷だ。契約社員や派遣社員もそうではあるが、教員には生徒がいる。その大切な生徒と無理やり引き離され、来年へ向けて指導の計画を練っても踏みにじられ、すべて無に帰してしまう。まるで我が子を失ったかのような悲しみだ。そんな悲しみの中、彼女は俺に話しかけてきた。
「打ち切りになってしまいました」見ていれば分かるよ。俺は思った。いつもははつらつとして元気な彼女だったが、一気に生気を無くしていた。
そうだと思ってた。これからどうすれば良いのか、まるで分からない、と彼女は言った。
俺はその時、民間企業への転職を勧めた。まだ彼女は20代だったし、色んな仕事を経験して欲しかった。教員だけにこだわっていると、人はあたかも自分が偉くなったかのような錯覚を覚える。それから、視野がぐっと縮まる。どこか上から目線で、高慢な人間になってしまう。そういう人間が同じ学校にいつまでものさばり、本当に賢くて生徒思いの教員を潰していく。本当は真逆なのに。彼女には、そんな風になって欲しくなかった。潰す側にも、潰される側にも。
俺はかつて、初めて講師として学校に勤めた時、それはそれは激しいいじめを受けた。そのいじめの内容はあまりにもお粗末でバカバカしかった。非正規だから、若者だから、そんな理由だ。「若者はいじめて育てる」とかいう訳のわからない風潮のせいではびこったいじめに、俺は倒れてしまった。うつ病だった。そこから這い上がるのに、20年は要した。その20年こそ契約社員や派遣社員としてギリギリの線で生きてきたところだ。
ましてや彼女も今の学校に来る前に同様の迫害を受けているというではないか。それならなおさらだ。俺は民間企業への就職を強く勧めた。
しかし、非正規ながらも教員への道を歩みだしたばかりの彼女に、その方向転換は難しそうだった。気持ちはわからなくもない。しかし、今の現状と、今後の工業業界の様子を考えると、1年くらいは企業で勉強したほうが授業のネタにもなって良いんじゃないか。彼女は、その意見には賛成の意を示したが、やはり何か受け入れられないものがあるらしい。俺は言った。
「今ここで勇気を出さないと、何も成長は望めないと思うな。違う業界でも学べることはあるし、教員として身につけたことが役に立つときだってあると思う」
ありきたりな言葉だった。でも、そうとしか彼女に掛けられる言葉はなかった。今思えば、ここで彼女の意思を再確認し、それを踏まえた上で俺の経験や意見を言うべきだった。それが先輩としての礼儀だったのかも知れない。あのときの俺は、とにかく彼女から逃げたかった。
しかし、彼女の反応は意外なものだった。翌日、また彼女は俺に声を掛けてきた。そして、俺の言ったとおりだと反省の弁を述べた。
「教員にこだわるより、今できそうなことを探してみようかなって思います。ひょっとしたら、その方がかえって天職だった、とかなるかもしれないし。今あんまりここで視野を狭めてしまったら、本当の意味で世間知らずになっちゃいますもんね」俺は何も返せなかった。まさか、ここまで受け止められるとは思っていなかったからだ。彼女の意思を無視した無責任なアドバイスだったし、若者には酷なものかと思った。それでも、彼女は俺に感謝と尊敬の念を忘れずに持っていた。
そして、彼女は言った。「こうなってしまったのは必ず意味があることだし、前の職場でハラスメントされたのも意味があると思うんです。だから、いつかこういったでき事に感謝できる私になりたいです」「だからこれからも色々教えて下さいね」精一杯、俺に誠意を向けていた。でも、その言葉や彼女の表情には、どこか背伸びして無理しているところもあった。一生懸命、生きようとしていた。そのことが、俺にとって苦しかった。自分のせいで、彼女はこれから荒れ狂う社会の大波に立ち向かっていかなければならない。しかし、俺にはその責任は取れない。というか、取りたくなかった。なぜって、弱かったからだ。これで潰れてくれればよかったものを、彼女はしっかり吸収して、前を向いていた。そんなひたむきさを向けられたことはなかった。だから戸惑ったし、自分が引き起こしたことの重大さに逃げたくなったし、まっすぐに生きようとしている彼女に胸が傷んだ。
自分のせいで、という気持ちとこれから彼女が入っていく運命に彼女を思うと、と言う気持ちで、やるせなくなった。罪悪感に苛まれてつらかった。
突っぱねたって良かったのに。いや、最初に俺が話しかけられた時、「それは自分で考えなきゃいけないことじゃないかな」と突き放してしまえばよかったのかもしれない。でも、そんなことできなかった。
日を追う事に、彼女は身を畳む準備や就活に向けてこつこつ歩みを進めていた。でも、その歩みはやはりどこかおぼつかなく、放置できそうなものではなかった。
特に最後まで足を引っ張ったのは課題研究の装置の処分だった。彼女の課題研究は、もともと彼女が専門としていた流体工学を用いた風洞実験で、それを畳むためにはアクリル板で作った風洞を壊す必要があった。しかしその風洞は女性が1人で壊すにはいくばくか力を伴い、危険も伴う作業だった。手元が危なっかしい彼女1人で作業させるのは、俺だって不安がつきまとう。散らかっている部屋を整理し、装置の周りの部品を解体していくのを、俺は実習室の外でこっそり見ていた。
やっぱり、手を貸さざるを得なかった・・・というより、気がついたら俺は彼女のところに駆け寄っていた。
「危ないでしょう」ハンマーでアクリル板を叩いて、破片が彼女に刺さりそうになったのだ。
「貸してみて」俺の力で風洞装置はみるみるうちに壊れていった。ガラスのように脆いアクリル板はどんどん細かく砕かれていく。それは俺の心から彼女という記憶を壊しているようでもあった。
「言わんこっちゃない」本当に放っておけない人だった。解体が終わって一息つくと、彼女は怯えた顔をしていた。「ごめんなさい」情緒不安定、怒りの沸点が自分でもわからない俺は、時折彼女に怖い一面を見せてしまったことがある。しかし、彼女は何も悪くないのだ。俺が恐怖で支配しているも同然だ。こんなに、ひたむきに頑張っているのに。
胸が痛い。俺に気丈に振る舞って、理不尽に耐えて、これからも彼女は社会の荒波の中で気丈に振る舞っていくのだろう。俺が心を病み苦しんだ社会の中で―
俺は思わず、彼女を抱きしめた。俺なりの懺悔だった。ちょっとブカブカな濃いブルーグレーの作業着が当たる。後ろでひとつに束ねた長い茶色の髪を撫でる。
すると、彼女も俺を抱きしめた。まるで、「あなたの痛みは私がしっかりわかっています」と応えるようだった。
ひょっとしたら、俺達は深いところで友情という絆ができていたのかのしれない。でも、彼女とはあくまでの仕事上の関係だと思って、そういう心の動きをあえて無視していた。それに、その後すぐに彼女に中津川での勤務が決まり、俺はほっと胸をなでおろして引き継ぎ作業にまたふけった。そして今に至る。だけど、今はどうだろう。夢に何回も彼女が出てくる。夢はその人の深層心理を表すとか言うけど、非科学的すぎないか?
しかし今の俺の勤務地は中津川。配属は彼女と同じ電子機械科だった。引き継ぎ資料に、彼女の足跡を見つけた。まるで彼女にいざなわれてここに来たような感じがするし、彼女の後処理のためにここに来たような気もする。いずれにしても、彼女は俺から離れてくれないし、俺も離れたいとはあまり思っていないフシがある。でも、つらい。
逃げさせてくれ、忘れてくれ、忘れさせてくれ―俺はそう願うが、どうにもその願いは叶わなさそうだ。
気づけば、閉めた寝室のカーテンからかすかに光が漏れている。朝が迫ってきているのだ。また寝不足な中1日が始まる。
この無限ループから抜け出す方法はないのか。彼女はもう存在さえ消えたというのに。何なら、彼女とともに俺の記憶も消してくれ…。
叶わない祈りを毎朝して、苦しい1日を今日も俺は淡々と生きる。
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