「杉の町」と豪語しちゃってる町で育ったもので、見事に花粉症になりました。春になると黄色い粉がそりゃもうわっさわさと……。
厄介者と思いましたが、植えたのは人間なんですよね。真っ直ぐ速く伸びるからいい、なんて最初は褒めそやしておいて、後から「やっぱり多様性のある森じゃないと……」なんて言い出す。勝手ですよね。
一人でお散歩するといろんな思考が渦巻くの、よくわかります♪
それにしても、五月山まで80分で楽勝~って考えるのが凄いです!
さて、無事に着いて、そして帰れるのか!?
作者からの返信
こよみ様♡
黄色い粉を見ただけでクシャミが出ると、花粉症の姉が言うてました。
私は今のところ花粉症は発症しておりませんが、鼻炎らしく季節の変わり目特に夏から秋にかけて涼しくなる頃に目も鼻もグズグズになります。モーニングアタックに「ハーックション もうわかったっちゅうねんっ💢」と独りでクシャミ連発して自分に怒るという不毛な闘いをしています。
「杉の町」素敵な響きです(*´ω`*)
調子にのってかなり無理をさせたようで、昨日より盛大にふくらはぎの筋肉がイチャモンをつけておりますです、はい。
ハイキング、杉林のエピソードからこんな深い洞察をされるとは!
幕末の新撰組の隊員達とか、会津藩の白虎隊の少年隊士達の雰囲気に似てるという
感覚、分かるような気がします。
朝ドラで今、植物学博士をモデルにした物語を見てるのですが、
大和様に同じものを感じました。
今は嫌われ者の杉への大和様の温かい眼差しも感じました。
作者からの返信
ハナス様♡
わかって頂けて感激です🤩
何だか哀しく切ない一途さですよね……頑なな一念みたいな覚悟を感じます。純粋な若さみたいなものも……憧れるけどやっぱり不安な気持ちになる。大人になる、というか歳を重ねると色んなものがくっ付いてしまうので。
それが不純なものばかりとは限らないし、また、不純で何が悪いか!という開き直りにも似た気持ちもあります( ͡° ͜ʖ ͡°)
「らんまん」私も観てまーす(≧∀≦)
万太郎さんみたいにな人、本当に憧れます!でも私、すえちゃんにメロメロで御座います😍
人間の手によって嫌われ者にされてしまった杉には誠に申し訳ない気持ちでいっぱいです。花粉ばら撒くぐらいの嫌がらせは致し方なしなのかも知れませんよね……ヘプショ🤧
杉の木から感じ取られた洞察の数々・・・面白いです。そういう見方ができる感性は素直に羨ましい。
> ひとつのことをひたすらに貫く人生っていうのもあるし、そう出来るのは大変だけど素晴らしい人生だろうなぁと想像はするのだが、
それを実践しちゃった一例は、二世議員って人たちなんですけどね。(笑)
以下、第7話のお返事です。長くなっちゃったので、適当に流して下さい。
> 弥生時代の土器が縄文時代のものに比べて、装飾より機能性に特化したものになっていったのは、人々の間に争いが起こり始めたからだという説を読んだことがあります。
> その説によると、より多くの食糧を確保するため、より広大な土地を求める戦が増えていき「どうせ壊されるし……」とか「逃げる時に直ぐ持っていける様に……」みたいな理由でシンプル設計になったってことらしく……
勉強になります。生活に余裕がなくなって、芸術性が後退したんですね。芸術家の友人が「芸術は生存の役に立たないもののこと」と語っていたことを思い出しました。芸術にリソースを割けることそれ自体が、余裕の現れなのでしょう。縄文人の女性がアクセサリー大好きだったのは、羨ましいことなのだと痛感します。
> 何より縄文土器の持つ森羅万象に対する歓喜の声というか、愛情みたいなものが人々の心から薄れていったのかも知れないなぁと個人的には想像してしまいました。
縄文土器って、日本人の原点的心象風景を感じさせるんですよね。縄文時代で妄想を膨らませるというお気持ちは、とてもよくわかります。弥生時代じゃダメなんです。(笑)
> 勿論自然に対する信仰はその後も続いていきましたが、それは己れも自然の一部であると認識し森羅万象全てのものに感謝と愛を持って生きていた縄文の時代とは異なり、この辺りから自然崇拝というか、畏敬の念というか……
> 「信仰」的なものに形を変えてしまったのでは?と。
「己れも自然の一部であると認識し」という部分が核心とお見受けしました。確かに縄文時代はそういう時代であったと思います。弥生時代は農耕による食糧生産が始まった時期でもありますから、縄文時代とは経済システムが違うんですよね。それは結局、土地の奪い合いが本格的に始まったということでもあります。古事記や日本書紀がイメージしている土地や神様も、農作物の恵みをもたらす存在という感じがしますので、日本神話の原点も弥生時代の感性だと思うのですよ。仰る通り「信仰」の時代です。
> まぁ、学者さんの中にも私の様な輩が少なからずおられる様に見受けられるのです(特に考古学や民俗学の様な文系の学者様)きっと本人は認めない、というか気付いてないのかも知れないけど……
近日中にこちらの近況ノートにて、この辺のことを徹底的に暴き出す予定です。(爆)
作者からの返信
杜若さま♡
7話のお返事ありがとうございます(≧∀≦)
芸術は生存の役に立たないもののこと、なるほど!
「余裕の現れ」完全同意しますっ❣️
縄文の人々は、大切な人に手づくりのアクセサリーを贈ったと本で読みました。その人のことを考えながら作ったその時間ごと贈るプレゼント。素敵😍
でも現代では手づくりのアクセサリーよりブランド物の方が喜ばれるんだろうなぁ……いや、女というものの本質はそうそう変わらないもの。縄文の女性も、思い入れたっぷりの貝殻アクセサリーより、高級な翡翠の方を喜んだやも……←おいっ💢
弥生時代は、国外から齎された技術や産業、知識が人々の生活を豊かにし発展させた時代だったのでしょうが、それによって「潤い」というか「余裕」が人々の日常や心の中からどんどん失われていった時代でもあったんじゃないかなぁ…とも思うのです。
「何の役にも立たない」「無駄なこと」と言われることの中にこそ、無上の喜びや楽しみがあるのにーと最近少しわかってきました(*´ω`*)
あ、思い入れが過ぎる学者様の分析楽しみです(≧∇≦)宜しくお願いします。
近況ノート、いつも楽しみにしているのですー 勉強になります!ありがとうございます。