第8話 記憶を消す努力

「あ、今って何時?」


 芽衣莉ちゃんの鼻血と興奮が収まったところで、結構な時間、宇野さんのおうちに居た事を思い出して、そろそろなのを思い出す。


「今は九時前かな」


 僕が聞くと、梨歌ちゃんがそう答えてくれた。


「お兄ちゃん、帰っちゃうの?」


 悠莉歌ちゃんが寂しそうに僕の腕を掴んだ。


「うん。遅くなりすぎると捕まっちゃうし」


 九時前でも場合によっては捕まる可能性もあるから、早めに帰らないといけない。


「うちに泊まって、流歌さんとあんな事やそんなこ──」


「芽衣莉は黙りなさい」


 芽衣莉ちゃんの口を宇野さんが手で押さえた。


「篠崎さんのご両親が心配してるだろうし」


「……そうだね」


「篠崎さん?」


 僕が思わず、簡素に答えたせいか、宇野さんが不安そうな顔をする。


「ううん、なんでもないよ。泊まれるのなら泊まりたいけど、そうもいかないでしょ?」


「無断外泊も捕まるもんね」


「間違いが起こるからではなくですか?」


 芽衣莉ちゃんがウキウキと言う。


「篠崎さんを信用してないの?」


「篠崎さんならきっと私のして欲しい事をしてくれると信用してますよ?」


「芽衣莉、落ち着こ。明日後悔するから」


 宇野さんが芽衣莉ちゃんの頭を撫でながらそう言うが、当の芽衣莉ちゃんは不思議そうな顔をしている。


「明日は準備が終わったらすぐに来るね」


「今更だけど、家まで遠かったりしない?」


「うん。学校まで十分ぐらいだから、十五分ぐらいで着くよ」


 学校から宇野さんのお家まで五分ぐらいで、僕の家は学校と反対側に十分ぐらいだから、宇野さんの家からは十五分ぐらいになる。


「少し遠いけど、そんなに遠くないね」


「うん。だから休みの日は早く来て、遅くまで居てもいい?」


「私達としては嬉しいけど、いいの?」


「うん。むしろそうしてくれると助かる」


 そうしてくれるのなら、休みの日に意味もなく出かける必要も、学校に意味もなく残る理由もなくなる。


「私達って言っても、あいつはわからないよ?」


鏡莉きょうりは人と仲良くなるの得意だから大丈夫でしょ。ていうか、あいつって言わないの」


「鏡莉って?」


 初めて聞く名前に、僕は宇野さんに誰なのか聞いた。


「あ、鏡莉ってのはね、うちの四女。私達は五姉妹なの」


「人に媚びへつらうのが大好きな奴」


「梨歌!」


 宇野さんに怒られた梨歌ちゃんがそっぽを向いてしまった。


(服をたたむのを教えてた時の反応は鏡莉ちゃんの事を思い出してたからなのかな?)


 服をたたむのを教える時に、梨歌ちゃんに「四姉妹」と言ったら、少し反応が悪かった。


 梨歌ちゃんと鏡莉ちゃんは少し仲が良くないように見えるから、そのせいなのかもしれない。


「りかお姉ちゃんは真面目なツンデレさんだから、あざといきょうりお姉ちゃんと相性最悪」


 悠莉歌ちゃんが僕に説明してくれた。


「悠莉歌ちゃんはどこでそんなに言葉を覚えてくるの?」


「最近の幼稚園児は色んなところから情報を得てるんだよ?」


(最近の幼稚園児は進んでるのか)


 確かに今はネット社会で、大抵の事は調べればわかる。


 それなら幼稚園児が色んな言葉を知っててもおかしくはない。


「あ、だめだめ、お話が楽しくて時間が過ぎちゃう」


「そうだね。お見送りする」


「宇野さんは布団に居てね。僕が心配で布団に戻るのを確認に来ちゃうから」


 布団から出ようとした宇野さんにそう告げる。


「篠崎さんなら本当にしそうだから大人しくしてる。今日は本当にありがとう」


「ううん。僕の方こそ楽しかったよ。でも名前で呼んでね」


「あ、永継君ね」


 まだ呼び慣れてないから仕方ないけど、結構最初の方から名字呼びに戻っていた。


「永継君……永継君ね」と独り言を呟く宇野さんを見てたら、梨歌ちゃんが隣にやって来た。


「篠崎さん、姉さんを運んでくれてありがとうございました。姉さんは私達で見張るから安心して」


「流歌さんは私が責任を持って」


「めいりお姉ちゃんはるかお姉ちゃんの近く寄ったら駄目だよ。お兄ちゃんはバイバイのぎゅーして」


 悠莉歌ちゃんはそう言って両手を広げた。


「うん。ぎゅー」


 僕は悠莉歌ちゃんを優しく抱きしめた。


「ありがと」


 悠莉歌ちゃんはそう言って僕の頬にキスをした。


「ちょっ、悠莉歌!」


「あんたなにしてんの!」


「悠莉歌ちゃんずるい」


「ゆりかこどもだからわかんなーい」


 悠莉歌ちゃんはそう言って僕の後ろに隠れた。


「篠崎さん、私もバイバイのキスを」


「芽衣莉!」


 僕に抱きつこうとした芽衣莉ちゃんを、宇野さんが繋いだ手を引っ張って止めた。


「芽衣莉ちゃん、ちょっとこっち来て」


 僕は宇野さんに視線を送って手を離してもらい、芽衣莉ちゃんを少し離した場所に連れてきた。


 そして抱きしめる。


「ひゃっ、篠崎さん?」


「今の芽衣莉ちゃんも大好きだよ? だけど宇野さんは倒れたんだから、あんまり無理をさせたらだめ。それと、お粥があるんだから暴れないで」


 結局お粥は食べさせきれなかった。


 危ないから避けてはいたけど、なにかの拍子に倒れたり、何かが入ったりしたらもったいない。


「わかった?」


「ひゃい」


「ほんとに?」


「わ、わかりました……です」


 芽衣莉ちゃんが僕の肩に顔を落とした。


「芽衣莉ちゃん、大丈夫?」


「めいりお姉ちゃんが無自覚攻撃にやられた。これで静かになる」


「篠崎さんほんとにすごい」


「……」


 僕は何故か嬉しそうに気絶している芽衣莉ちゃんを床に寝かせた。


「お粥は梨歌ちゃんに頼んでいい?」


「あ、うん」


「洗い物は残しといてくれれば明日やるからね」


「いや、これぐらいでき……るかわからないから置いとく」


 梨歌ちゃんが急に心配になったのか、不安そうに言った。


「梨歌、お腹空いた」


 少し不機嫌な宇野さんがジト目を向けながら言った。


「姉さんはわかりやすいよ。やけ食いしたら太るよ」


「は?」


「すいません」


 宇野さんの本気の怒りが垣間見えた。


 ちょっと怖かった。


「ゆりか、お兄ちゃんのお見送りに行ってくるー。行こ」


 そう言った悠莉歌ちゃんに腕を引かれた。


「ちょっ、悠莉歌逃げんな」


「逃げるんじゃないよ、お見送りだよ」


 今にも泣き出しそうな梨歌ちゃんを置いて、悠莉歌ちゃんは急いで僕を引く。


「また明日ね。宇野さんは早く元気になってね」


 それだけ伝えて、僕は悠莉歌ちゃんと玄関に向かった。


「嬉しいけど、私だけ抱きしめてもらってない」


「わ、私もだからね」


「どうせ梨歌は私が寝てる間にしてもらったでしょ」


「……そんな事ないよ?」


「知らないもん」


(聞こえてごめんなさい)


 宇野さんと梨歌ちゃんは普通の声で話しているから聞こえてないと思っているのだろうけど、僕は耳がいいから聞こえてしまった。


(うん、忘れよ)


 多分今聞いた事は聞いてはいけない事な気がするので、とりあえず忘れるように努力する。


 その間も色々と聞こえてきたが、聞かないように努力した。


「お兄ちゃん、今日はありがとうね」


「ううん。さっきも言ったけど、僕も楽しかったから。だから僕の方こそありがとう」


 僕はそう言って悠莉歌ちゃんの頭を撫でた。


がせめて後六年ぐらい早く生まれてれば、今すぐに付き合ってもがとやかく言われる事もないのに」


「え?」


「なんでもないよー。また明日ね。傘は使ってね」


 悠莉歌ちゃんが傘を指さした後に笑顔で手を振ってきたので、僕は今のも聞かなかった事にした。


 そして悠莉歌ちゃんに手を振ってから、お言葉に甘えて、二本あった傘を一つ借りて、宇野さんの家を出た。


(忘れられるかな?)


 印象的な事が多すぎて、忘れ切れるかわからないけど、努力だけはする。


「帰ろ」


「おにいーさん」


 帰ろうと歩き出したら、背後からとても可愛らしい声に呼び止められた。


「なに?」


 振り向くと、マスクと眼鏡をした小学生ぐらいの女の子が立っていた。


 マスクと眼鏡をしていてもわかるぐらいに可愛い……と思う。


「いやぁ、こんな遅くに何してたのかなぁって」


「友達の看病?」


「何故に疑問形」


 宇野さんとは初めて話した関係だから、友達と呼んでいいのかわからなかった。


 僕は友達だと思いたいけど。


「看病ね。まぁいいや。それじゃね」


 女の子はそう言って手を振ってきた。


 僕も手を振って返して、階段に向かう。


「不純物は取り除かなきゃね」


 可愛らしい声でそう呟いたのが聞こえてしまった。


(何の話だろ?)


 僕は借りた傘をさし、小雨の中を歩いて行った。




(今日は本当に楽しかった)


 家まで後五分ぐらいだが、ここまでずっとその事を考えていた。


 こんなに楽しかったのは初めてだ。


(ほんとに楽しかった。ほんとに……)


 スキップでもしようかという程の気持ちだったが、だんだん足取りが重くなる。


 そしてどこにでもあるような一軒家が見えてきた。


 すると更に足取りが重くなる。


 家の前に着いたので、傘を扉の横に置いて扉を開けた。


「……」


 無言で家に入り、キッチンに明かりがついているのが見えた。


(無理かな)


 お風呂場に向かおうとしたら、キッチンから足音が聞こえた。


「おい、逃げんな」


 煙草のせいなのか、しゃがれた声の男。僕の父親に怒鳴られながら胸ぐらを掴まれた。


「てめぇ、今何時だと思ってんだ」


「……」


「俺の飯の時間は過ぎてんだろ」


「冷蔵庫にあるでしょ」


(あ、駄目だ)


 いつもは黙っているか、敬語で話していたが、さっきまでのノリで普通に話してしまった。


 そうなると……。


「あ? お前今、俺に向かってタメ口使ったのか? 使ったよな? 育ての親に対してタメ口使ったよな?」


(一回言えば聞こえるよ。それに育てたのはあなたじゃないよ)


 そうは思っても口には出さない。


 出したところで、火に油だし、聞く耳をそもそも持っていない。


「少しわからせる必要があるか」


 そう言って僕は父親に胸ぐらを掴まれながらに連れて行かれた。


 そこで起こる事は記憶にない。


 覚えていても辛いだけだから、忘れるようにしている。


 気がつくと、僕は制服の姿でお母さんに抱きしめられている。


 ただひたすらに謝るお母さんに。

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