第3話 はめあい

原動機のテストが返ってきた。答案用紙に書かれた点数を見て、俺はほくそ笑んだ。

へっ、俺だってやればできるじゃん。

放課後、ルンルンで家に帰った。

ただいま。

自分の部屋のドアを開けると、伊丹が勉強机に向かっていた。何か書いてる。

さすがに日中も涼しくなってきたからか、今日は長袖のカーキ色の作業着を着ていた。

それにしても、カーキ色の作業着姿のおっさんが勉強机に座っているってなかなかシュールだ。帽子は被ってないけど。やっぱり不審者発言は効果があったかな。

先生?俺は声をかけた。でも、反応がない。

作業に夢中なのか、シカトしてるのか。

先生?もうちょっと大きい声で呼んでみる。でも、スルーされた。仕方ない。耳元に近寄って、先生、おーい先生ってば。

その呼びかけで、あ、ああすみません。やっと俺の声に気がついてくれた。椅子を少し俺の方に向けて、言った。

すみません。仕事に夢中になっておりました。おかえりなさいませ。

うん、帰ってきたよ。あと、原動機のテスト。言われたとおりに80点ちゃんと取ったよ。

俺はリュックサックの中から答案用紙を取り出し、堂々と差し出した。俺もやればできるんだなって思ったよ。はい、そうですね。87点、確かに80点はきちんと取っておられますね。問題に対する回答への理論も、計算方法も特に問題はありませんね。ただ、用語に関する記述問題の詰めが甘い。あと、図でエンジンのメカニズムを説明するところの図がなってませんねえ。

あんなに必死で夜遅くまで勉強したのに。ちゃんと80点いけるかガチで不安だったのに。

やはり黒川は図で表すものが苦手ときていますねえ。気持ち悪い不気味な笑いに俺は正直イラッときた。

先生、一生懸命頑張った人にその言い方はないだろ。いえいえ、愚人に褒められたるは第一のはぢなり、ですよ。ちょっとのことで人から褒められていい気になるのではなく、むしろ少々人からケチつけられている方が良いのですよ。真っ直ぐに頑張っている人こそケチをつけられる世の中ですから、世の道理に従って真っ直ぐに生きていることが示されていますからねえ。人の偉さを決めるのは、名誉でも地位でもありません。どれだけ目の前の課題と、地道に向き合ったか、それだけなのです。

まーた仏法の話か。難しいし、宗教の話なんて俺はうんざりだ。

はいはい、うんちくはいいから、早く次の課題出してよ。

黒川、あなたはこの仏法の話に出会えただけでも幸いなのに。まだあなたの心は曇っていますね。伊丹は虚しそうにため息をついた。

そう?

ええ。少々の栄光に酔っているようですから。まだまだあなたの心を磨く必要があります。

心を磨く?はい、これをご覧ください。伊丹は机に置いてあったケント紙を手渡した。

この間やった製図の課題。フランジ形固定軸継手のトレースだ。製図の授業は、教科書に描いてある図面をケント紙に手書きでトレースすることをやっている。けど・・・。色々描き方がなっていないので、手直しをしておりました。随分ごまかしておられますねえ。そうかな?他の線より太い線はだいたい寸法のズレをごまかしておられるのでしょう?あと、線を引くのにちゃんと製図用のシャープペンシルを使っておられますか?

あ、そういえば。

数字もテンプレートで描いていない。これはいけません!さっきのルンルン気分を吹き飛ばすような獅子吼だった。こいつ、怒りの沸点が分かんない。製図の授業で製図道具を使わずに、ごまかしばかりの図面なんて誰が信用できますか?将来例え図面を描く仕事に就かなくとも、技術系の仕事は何であれ、図面と向き合わなければならないのですよ。その時に、線のはっきりしない、寸法もよく分からない図面を渡されて気持ちよく仕事ができますか?技術系以外の仕事に就くから、なんて言い訳はとてもできる雰囲気ではなかった。・・・確かに。と言う他なかった。

製図は、人の性格がよく現れます。やればできると自分の可能性を認められたならば、今度は自分の心の曇りと向き合いましょう。

ということは?

次の課題は製図です。これから私がお見せするものを描いてください。というと、伊丹は机の本棚に置いてある製図の資料集を手に取ると、ページをめくった。

付箋をいただけますでしょうか?

あ、机の引き出しにある。俺は机の引き出しを開けて、小さな水色の付箋を出した。はい、これしかないけど。いいえ、ありがとうございます。伊丹は付箋を手にすると、何枚かの資料図面に一枚ずつ貼り付けた。そして、そのページを俺に見せた。出されたのは、ボルト・ナットの図面とスパナの図面。これだけでもめんどくさそうな課題というのは何となく察しがついた。前にやったことあるけど、提出日ギリギリまでかかって、骨が折れた。トレースといえどもきつかった。

またあれをやるの?嫌だなあ。すると、そう思っているのを察したのか、伊丹は言った。

そうとう苦労されたのですね、それならやりがいもひとしおですよ。そうだといいんだけど。やればできると自信がついたなら、挑戦する価値はありますよ。それに、今回はただトレースするだけではありませんから。

え?

この世に出回る図面は、資料集の一例だけとは限りません。この世には、様々な大きさのねじや歯車が存在しています。それはご存知ですよね?

ま、まあ一応は・・・。俺はぎこちなく頷いた。ということは、資料集の一例だけ描ければいい、読めればいいというわけではありません。そして、俺に資料集を手渡した。この資料集の後ろの方のページに、ボルト・ナットやスパナの形状・寸法の表があります。今から私が指示する呼びで描いてください。指示された呼びにすべて、机に転がっていたテキトーなペンでアンダーラインを引いた。

では、頼みますよ。

あ、先生。ちょっと待って。

消えちゃう前に、そうだ、言わなきゃ。親との関係で悩んでいるってこと。

はい、何でしょうか?あ、あのさ。俺、ちょっと先生に相談したいことがあるんだ。ほお、相談ですか。何の相談ですか?

えっと・・・、うまく説明できないんだけど、俺、母さんとここのところうまくいってなくて、何かぎくしゃくしちゃってるっていうか、その・・・。どうやったらうまくいってないの治るかなって思って。

そのことについては、ご自身でお考えください。私が口を挟んだところで解決できることではないと思います。あなたとお母様は、生まれてこの方10数年の付き合いでしょう?どうすればいいかは、ご自身がよくご存知かと思いますが。案外冷たいな。普段あんなにうんちく垂れるのに。

冷たいなあ。

何でもすぐ答えを出すべきではないと思いますから。

意地悪だな。意地悪ですから。と言うと、伊丹はあの気持ち悪い引きつった笑みを浮かべた。

では、頼みますよ。ケント紙は、A4でお願いします。紙は牧口先生から頂いてください。彼女ならあなたの力になってくれると思いますよ。

そうなの?今まで色々助けていただいたではありませんか。今回も、頼ってみてはいかがでしょう。

消えた。

勉強机に向かい、伊丹が手直ししていた図面を見る。確かに、製図用シャープペンシルを使ったほうが図は明快だし、テンプレートで数字をなぞってある方が分かりやすい。

自分のだらしなさをまじまじと実感せざるを得なかった。ふう、今度製図やるときは、ちゃんと製図道具使おう。ケースが無駄に大きくて、そのせいで重くて鬱陶しくて、使うのためらってたけど、与えられたものには必ず使うための理由がある。無駄なものって、意外と無いんだなあ。


翌日の放課後、俺は機械科職員室のせつなを訪ねた。

製図をやりたいから、製図室の鍵を貸して欲しいんだ。

製図?せつなが首を傾げた。

黒川、最近どうしたの?設計にしろ原動機にしろ、製図にしろ、何かすっごい頑張ってるけど。何かあったの?

何かあった…、いや何かがあったって言うより、何なんだろう。どう説明しよう。俺は考え込んだ。

まあ、言いたくないなら言わなくていいけど。

いや、せつな。

不思議なことに、俺は自分でも分からなかったけど、なぜか口を開いていた。

何?

この前、急に伊丹先生が俺の前に現れて、俺の態度があまりにもダレすぎてるから、罰として24時間後に俺の友達みんなの記憶から俺に関わる内容を消す。それが嫌なら課題をやれって言われたんだ。

何それ、あんた大丈夫?

俺にも分からないけど、そういうことがあったんだ。アニメとかソシャゲとか見すぎじゃない?

見てないって、元からそんなに興味無いし。ふーん。

まあ、製図室だったら今3年生が卒業課題やってるから開いてるよ。職員室のドアの前に製図室の入室名簿があるから、そこに名前と今の時間を記入して。ありがと。

入室名簿に名前と時間を書くと、せつながデスクの椅子から立ち上がって、俺の方に歩いてきた。

紙はあるの?

そういや無かった。紙はせつなから貰えって言われてたな。

無いよ。ふうん、じゃあ余ってるのをあげる。せつなと一緒に職員室を出た。製図室のある上の階まで、並んで歩いた。

それにしても不思議だよね。急に人が目の前に現れて、他人の記憶を消すなんて。記憶なんて、余程のことがないと消えないのにね。

そう?ここ数日の夜飯のメニューとか、昨日観たバラエティ番組の内容なんて、すぐ忘れちゃわない?

まあ、そういうのだったら忘れるかもね。取るに足らない情報だもん。でも、友達に関する記憶とは違うんじゃない?

どういうこと?

大事な思い出とか、友達の誕生日とか、友達が好きな物とか、言っちゃいけないタブーな話題とか。結構重要じゃない?

まあ、付き合いがあれば。

それを一瞬で無くすって、結構な暴挙だよね。どんな手段を使うかは分かんないけど。そんなことされたら、アタシだったら耐えられないかも。

そうなの?うん。だって、アタシ大学に入るまでずっと独りぼっちだったもん。だから、大学の時の友達って、すっごく大切な存在でさ。卒業して2,3年経つ今でも付き合い続けてるもんね。

そっか。うん。と言うと、せつなは製図室の向かい側にある、製図準備室の鍵を開けた。中に入って、ガサガサ何か探し始めた。

紙のサイズは?A4。2枚欲しい。2枚?結構頑張るね。2つ図面書かなきゃいけないから。そう。と言うと、せつなは紙をくれた。

はい、頑張ってね。ありがと。あ、あと、製図室を退出する時は、機械科職員室のさっきの名簿に退出時間を書きに来てね。もし出るのが最後になったら、全部戸締りして鍵を返してね。

うん。準備室を出た。

準備室の戸締りは、アタシがやるから。

うん。じゃ、せいぜい頑張るのね。

案外素直に助けてくれた。あいつって、実は良いやつかもしれない。

製図室に入ると、確かに3年生が数人ドラフターを使っていた。冗談を言い合いながら、談笑している。ずいぶん賑やかだ。本当に製図が進んでるのか分かんないけど。使われていない、適当な位置のドラフターを選び、リュックを床に下ろした。さて、やるか。と思った時。

黒川?辺りを見渡すと、剛が窓際のドラフターにいた。しめた。俺は、剛の隣のドラフターが使われていないのを見ると、リュックを持ってそこに陣取った。

黒川、お前どうしたんだ?また例の課題?うん。今度は製図。

伊丹先生、なかなか面白い課題の出し方するな。剛が笑った。座学の次は実技か。面白。で、課題は?

ボルト、ナット、スパナの図面。呼びが指定されてるから、それで描くんだ。お前にはなかなかきつそうなやつだな。お前普段の製図だってそんなに早く描けないし。まあね。

そういや、剛は何で製図室使ってるの?

俺?俺は、テクニカルイラストレーション3級の練習。技能検定の?そう。

お前、そんなことやってたんだ。うん。もともと製図好きだし、絵を描くのも好きだし。中学の時は美術部だったし。

今は?いや、部活は入ってない。1年の時は美術同好会やったけど、2年になって辞めた。

そうだったんか。うん。それに、と言うと剛はため息をついた。俺はあんまり家に居たくない。

何で?いつも馬鹿な冗談ばかり言っている剛がそんなことを言うなんて、俺はびっくりした。何で家に居たくないん?

俺さ、父親が再婚者なんだ。実の父親は、俺が中学3年の時に病気で亡くなった。それで、高1の時に母さんが再婚して、さ。だけど、時系列で考えてみたら、中3の時に父親が死んで、そこからすぐ再婚ってそれって母さん不倫してたんじゃないかって思うんだ。じゃなきゃ、子持ちの女がすぐ結婚なんかできないだろ。

確かに。それで、俺は母さんも再婚者の男も嫌いになった。だから家に居たくない。まあ、2人とも、高校行かせてくれたり、俺のこと気遣って色々やってくれてるから、虐待とかはされてないけどな。バンドだって続けさせてもらってるし。

バンド?俺は剛がエレキギターをかき鳴らしているところを想像してみた。坊主頭に黒縁メガネの剛が豪快にロックって・・・シュールだな。

ジャズバンドだよ。ロックじゃねえよ。剛が苦笑いした。

ジャズバンド?うん。病気になる前まで、父さんが中心でやってたんだ。父さんの友達と、母さんと俺と、合わせて5人で。俺はピアノで、父さんはコントラバス。母さんはアルトサックス。あとの人たちがドラムやったり、ボーカルやったり色々。俺、幼稚園の頃からピアノ習ってて、小学5年生からジャズピアノも始めた。父さんが大のジャズ好きでさ。日常的にジャズのレコードとか聴いてたから、俺も好きになってジャズピアノ始めて、家族で演奏してた。父さんのベースは本当に温かくて、落ち着きがあって、でもそれだけじゃなかった。ソロでも心を掴むものがあったし、鋭かった。父さんのベースの中でピアノを演奏すると、どんなに調子が良くなくても、ミス連発しても、全部良いものに変わるんだ。不思議だったな。ガーシュウィンとかマンシーニが好きでさ。うん、と俺は相槌を打った。

だけど、父さんが死んでからはバンドはガタガタ。息が揃わなくなった。まあ、俺のせいかもしれないけど。

何で?

ベースが、変わっちゃったんだ。違う人に。父さんの友達の友達に。何か、家に知らない人が土足で入ってきたような感じがして、俺は嫌なんだ。だって、今までずっと家族でやってきたのに、それが急に変わっちゃってさ。家だってそうだ。だから俺は家に居たくない。帰っても、ずっと父さんが使ってたレコードプレイヤーを使って、ジャズのレコードを聴きながら部屋にこもってる。

俺よりやばいやつがここにいた。そんな母さんと口喧嘩とかそんなレベルじゃなかった。

でもさ、世の中捨てたもんじゃなかった。

えっ?

分かってくれたんだよな、伊丹先生は。剛がしみじみと言った。

どういうこと?

俺、1年生の時、製図の授業が面白くて、放課後も自主的に残って製図の課題とかやってたんだ。そうしたら、伊丹先生が時々様子を見に来てくれて、その時に色んな話をしたんだ。あの人、化け物だった。父さんよりジャズに詳しい人は初めてだった。しかも、ジャズピアノも。あの人もピアノが好きだったっぽくてさ。

うん。

ある時、それで思い切って話してみたんだ。父さんのこと、再婚者の男のこと、バンドのこと。そうしたら、先生、俺にこう言ったんだ。

大切なご家族を亡くされた悲しみは、簡単に癒えるものではないと思います。私も、高校生の時、父を病で亡くしました。その後も、何度か大切な人たちを亡くしました。その時は、悲しくて、つらくて、何もできませんでした。あなたの気持ちは痛いほど分かります。しかし、人間には生老病死というものがあります。この世に生まれたなら必ず病気になったり老いたりして、最後には死んでいく。これは人の常です。死によって今世の生は終わるかもしれませんが、生命そのものが消えるわけではない。生命は永遠です。亡くなった方の生命は、私達の目に見えない深い次元において、私達の生命と一体です。あなたがここまでお父様を思われているということは、必ずお父様の生命に届いておりますよ。大丈夫です。それと、今のお父様のことは、確かに不純に見えるかもしれない。お母様との間に何があったのかは定かではありません、が、少なくとも今の桜山の生活を応援し、力になろうとしてくれている。例え嫌いであっても、そのことへの感謝の気持ちだけは、忘れてはなりませんよ。何もできなくても、したくなくても、せめて1日に2,3回は笑顔を見せてあげてください。それだけでも親孝行ですから。きっと、喜ばれると思いますよ。再婚者の中には、連れ子を虐待してしまう者も多くいる中で、ご尽力賜ってくださっていますから。それに、バンドの方々だってそうです。音楽というのは繊細なもので、演奏者が違うだけで世界が一変してしまう。しかし、音楽は言葉が通じなくても心を通わせる最高のツールです。その音楽にありのままの自分の思いを込めてぶつかってみてはどうでしょう?不満ばかり言っていては、向こうも改善の余地がありません。自分とは、こういうものだ、という思いをピアノに乗せて、思い切りぶつかるのです。必ずしも他の人たちの演奏がすべて、というわけではないし、お互いに絶え間なく切磋琢磨し合う必要があります。向上、成長のための努力を怠れば、それは敗北と堕落の始まりですからねえ。鉄は鍛え打てば剣となります。何度も何度も、熱しては叩くことで、不純物が叩き出され、強くて美しい剣になりますね?あなたは、その方の金槌なのです。その方の技術が向上するために必要な存在なのです。もし何か言われても、ああこの人は今日も元気だなあ、くらいに思えばいい。それに、あなたはまだ若い。若者の意見が思わぬ突破口を開くことは今までの歴史から見ても間違いありません。遠慮などいらない。どんどん叩き出しなさい。そうすれば、もっと自由に意見のやり取りができる活気あふれるバンドになるのではないでしょうか?って。

それに、ピアノ以外にも、あなたは製図が好きだという。それなら、合わない人がいて、ピアノやバンドの練習に行くのが嫌なら、この際技能検定試験に挑戦されてはいかがですか?って言われて、それでテクニカルイラストレーションの技能検定を勧められたんだ。まあ、実技試験の日、俺はインフルエンザにかかっちゃって受験できなかったんだけど・・・。

だから今やってるってワケ。

ふうん・・・。

製図はいいぞ、無心になれるからな。黒川もやってみるといいよ。と言うと、剛はまたドラフターと向き合った。

俺も、自分の課題と向き合った。指定された呼び径を、資料集の資料のところに書き込んで・・・と。ケント紙をドラフターに乗せて、さて枠線から描こう。と思ったときだった。あ、製図道具、下の更衣室のロッカーに入れっぱだった。あーあ。せっかくやる気になっても、忘れ物をしてしまうとやる気はなくなってしまう。急に一気に、まじでやる気無くなった。ドラフターの上に倒れ込んだ。

お前ダサっ。剛が言った。

仕方ないだろ。取りに行ってくる。と言うと、俺は製図室を出てロッカーに向かって階段を降りた。廊下を歩いてロッカールームに入ると、そこに見慣れない男子生徒がいた。1年生?いや、1年生なら学ランの襟に赤のMのバッジがついてるけど、そいつはバッジがついていなかった。普通の常識ある生徒なら、みんなつけてるんだけど・・・。製図道具、貸す。そいつが製図道具が入った黒いケースを押し付けてきた。

えっ?

お前、ポケット見てみろ。ロッカーの鍵忘れてるぞ。

えっ?言われたとおり、ズボンのポケットや学ランの胸ポケットを探ってみると。

あ、しまった。今日は実習もないから鍵を家に置いてきてしまったのだ。

まったく、気をつけろよ。やれやれ、といった表情でそいつは言った。しかし、誰だこいつ?

痩せてて、背が高くて、髪は短くて、細いフレームのメガネをかけてて・・・。何か心なしか伊丹に似てる気がする。あ、あのさ。と俺が声をかけた瞬間、そいつは音もなく消えた。幽霊?でも実体はあった。じゃあ、一体、誰?渡された製図道具を見ると、そこには前のマシニングの実習の時渡された教科書同様、名前はなかった。


使い慣れてない製図用シャープペンシルを使って枠線を書き、いよいよ本体の製図に取り掛かる。しかし、寸法が分かっているから、すぐに描けるんじゃないか、という俺の予想は大きく外れた。製図は、描く、ということにも技術を要する。そしてその技術は自分で頭を使って体得していくしかない。座学は、誰かが教えてくれたことをそのまま実践すれば何とかなることもあるけど、製図はそうはいかない。おまけに、使い慣れていない製図用シャープペンシルは、筆圧が合わないのかしょっちゅう芯が折れる。芯が折れると心も折れる。剛、すごいな。俺は剛に尊敬の念を込めて言った。すごくなんかない、何度も描いてるうちに手が慣れてきた。まあ、そうだよな。1年の時から居残ってやってたから・・・。俺、1年の時何やってたんだろ。昨日の夜やってたことも覚えてないのに、もっと前の過去のことなんかもっと分からない。無理だ。ドラフターに倒れた。

お前、ホント雑魚だな。そんなすぐ諦めてたら、何もできないぞ。だって・・・、マジで描き方分かんないんだ。きっつい。

どれ、見せてみろ。剛が俺のドラフターに近寄って、俺の図面を見た。それから、資料集や教科書を見ながら何かをブツブツとつぶやき、考え込んだ。

・・・お前、教科書のねじのところ、見たことあるか?ねじ?製図例のところじゃなくて、種類とか規格とか載ってるところ。

何それ?俺は首を傾げた。ってことは、見たことないんだなオメー。そりゃあできるわけがない。技術以前の話だ。

えっ?うん、と言うと、剛は教科書をめくってねじの章を開き、ボルト・ナットのかき方、というページを開いた。ここに、基本的な書き方が載ってる。あとは呼びに合わせて寸法を変えるだけだ。

へえ・・・。

俺一人だったら絶対分からなかった。それでやってみて分かんなかったら、また聞いてくれ。

剛は自分のドラフターに戻り、また作業にかかった。俺も、教科書を見て寸法を記入し、色々と細かい計算をして、何となくだけど描くことにかかった。

何か、俺ってすごい受け身なんだな。この製図にしろ、この間の原動機も設計も、優樹やせつながいなかったら、俺はとうの昔に課題を諦めて、ぼっちになっていただろうけど、俺は誰かに教えてもらわないと、何もできない。いや、今までやってこなかったから当然の報いだと思うけど、それにしても頼りすぎな気がした。

だって、優樹は自分からせつなと交渉して教えてもらってたし、剛だって自分から居残って勉強してた。知らない間に、自分からすすんで勉強する、という技が身についていた。だけど、学校は勉強しに行く所だから、教えてもらうのが当たり前だと思っていた。今までそうだったし。でも、それでずっと受け身だったから、気がついたら他の奴らと差がついてしまった。きっと、高校って、与えられたことをやっていればいいって世界じゃないんだ。ふと、俺の年齢を考えてみると、俺は今16歳。10代後半。来年は就職だ。就職したら、こんな学校みたいに手とり足取り教えてくれる会社はそうないだろう。そのことを考えると、やっぱり今が分岐点で、就職するためにある程度自立しなきゃいけない年頃なんだな。大学とか行かないから、ちょっと理不尽に感じるけど。

自分からどんどん、勉強しなきゃいけないんだ。年齢のことを思えば、やっぱり今がその練習をする最後のチャンスで。

自分から何か物事を始めて良いなんて、そんなこと今まで知らなかった。だって、大人は子どもに言うことを聞け、とばかり言う。反論すれば、ブチギレたり生意気だと言われたり、ヒステリーを起こして面倒なことになる。面倒ごとを避けるには、嫌でも大人の言うことに従うしかないと思ってた。でもそれは違うんだな。

それに、勉強って与えられた物事をやれば完璧ってわけじゃなくて、そこから更に自分で掘り下げないと本当に理解することはできないんだ。こないだ伊丹が言ってたように、ちょっとしたことで興味を起こすのをやめてしまえば、理解という火は得られない。そして、それは自分でやるしかない。そのことも、自立の一歩なのかもしれない。

それに、自分の意見をしっかり大人に言わないから、家での居心地が悪くなるんだ。確かに、喧嘩して良い思いはしない。でも、伝えなきゃ和解はできない。剛のさっきの話を思い出して、俺は妙に納得した。


黒川、もうすぐ7時だぞ。

剛に声を掛けられて、俺はハッと前の黒板の上に掛かっている時計を見た。

本当だ。そろそろ帰らないと、やばいぞ。うん。

どれぐらい描けた?

本体の形は描けた。あとは寸法と、スパナの課題。スパナ?うん。俺、スパナも描けって言われてる。伊丹先生、課題のセンスやべえな。鬼畜だ。

うん、設計8割の時点で鬼畜だったけどな。あの人、本当にやべえな。機械極めすぎだろ。本当にそうだ。

一緒にドラフターの掃除を後片付けをして、戸締まりと電気を消して、一緒に製図室を出た。帰り、一緒に帰ろう。と俺は剛に声を掛けた。いいよ。剛は俺の家の最寄りのバス停より1駅前のバス停の近くに家があるから、帰る方面も一緒で、たまに一緒に帰っている。

鍵を職員室に返して、一緒に学校を出た。職員室にせつなはいなかった。多分帰ったな、あいつ。

帰りの道中では、また2人でスマホを見ながら馬鹿な話をした。芸術的な剛から一転、いつものネット廃人の剛になった。やっぱり剛はこっちのほうがしっくりくる。

そのことを言うと、お前も、目が死んでてだらーっとしてる方が似合うよ、と言われた。

俺ってそんな脱力系キャラ?服を変えたら、疲れた社畜リーマンみたいになって、岐阜駅のベンチに座っててもバレないと思う。何か・・・嫌だな。地味ハロウィンにエントリーしろよ、もうすぐハロウィンだし。何だよそのニッチなイベント。

やっぱり、ネット廃人は、普通の一般人とは何か違う。


その夜、家に帰ってからも俺は製図の課題を続けた。別に明日は休みだから、休み明けにまた学校でやっても良かったんだけど、何か・・・、中途半端に終わらせたくなくて。ちゃんと、終わらせたくて。

俺は寸法と向き合った。リュックにさっきの製図道具を忍ばせて持ってきたから、ドジを踏むことはない。

さっき、剛に教わった、三角定規を合わせて平行線を描くやり方で一つ一つ丁寧に寸法線を描き、テンプレートと字消し板を駆使して矢印と数字を描いた。

その結果、俺は日付が変わる頃、何とかボルト・ナットの製図を終わらせることができた。描けた、良かった。ホッとしたのと、やりきった達成感で、体が一気に脱力していくのが分かる。こういう疲れは、わりと心地良い。

風呂に入って汗を流し、体を温めた。ひと仕事終えた後だし、今日は母さんも仕事でいない。のんびりしよう。そう思って、浴槽でしばらくくつろごうとしたその時。

静かだからか、何か物音が聞こえる。なんだろう。耳をすませると、何かの音楽らしかった。でも、この家には今俺しかいないはずだ。母さんは夜勤でいない。一体誰が。

急いで風呂から出て、バスタオルで体を拭いて服を着た。さすがに服は着ないとやばいと思って。音は、1階の置くから聞こえてくる。恐る恐る近づいていくと、音楽がはっきりと聞こえた。音の感じからして、クラシック。オーケストラ。でも、何で?

音が聞こえる奥の部屋は、もともと父さんの部屋だった。そこには、本棚いっぱいのレコードとCDがあって、レコードプレイヤーや大きなオーディオがある。

ひょっとしたら、泥棒が、その情報を嗅ぎつけて来たのか?確かに高そうなレコードとかあるし・・・。それなら、やばいんじゃね?

急いで、玄関から、役には立たないかもしれないけど傘を持ってきた。形だけでも武装しておかないと、泥棒にすぐやられてしまうかもしれないし・・・。

また奥の部屋の前に戻ってきた。音楽はまだ流れていた。誰の曲か、分からないけど。でも、泥棒だったら・・・。

3,2,1で中に突撃しよう。俺は覚悟を決めた。3,2,1、おい、誰だ!!俺は勢いよくドアを開けた。するとそこには・・・。

ああ、こんばんは。リラックスした表情で、奥のデスクの備え付けの椅子に、伊丹が座っていた。びっくりさせてしまって申し訳ありません。

今夜はお一人でしょうから、用心棒になって、いようと思って。バサッと傘が手から落ちた。い、伊丹?また俺の家に不法侵入?

不法侵入とは失礼な、私はあなたにしか見えませんし、用心棒になろうと思って・・・。いや、お前のほうが不審者だよ。入り方が幽霊とか泥棒みたい。もう少し改善しろって言ったじゃないか。えー?改善しろって言われましても〜。伊丹はめんどくさそうに頭を掻いた。ウザい。

それにしても、今何聴いてるの?

ブルックナー交響曲第8番です。第1楽章。伊丹、クラシック音楽聴くんだ。ええ、聴きますよ。私は幼い頃からクラシックピアノを習っていまして、クラシックには目がないのです。特に、ロシアとドイツ、アメリカの作曲家には。ふーん。俺はクラシックなんて興味ないけど・・・。

聴いてみてはいかがですか?

いや、さすがに夜遅いし、やめとく。そうですか。と言うと、伊丹はオーディオの停止ボタンを押して、再生を止めて、CDを出し、デスクに置いてあったケースにしまった。そして、置き場所を知っているかのように、慣れた手付きで本棚にCDを返した。

いつ見ても、良いコレクションだ。伊丹がつぶやいた。

前にも、俺の家来たことあるの?ええ、ありますよ。あなたは覚えていないかもしれませんが。

えっ?

伊丹って、俺の家族と何か付き合いあったっけ?親戚にはいない・・・はずだけど。

いずれ分かりますよ。そう言って、伊丹は消えた。本当に変なやつだ。


次の日は、休みだったから一人で過ごした。案の定、颯太から、遊ぼうぜって連絡が来たけど断った。今までずっとこん詰めて勉強してたんだ。俺だってオフが欲しい。

バスで隣の市の大型ショッピングモールに行って、フラフラ歩きながら色んなものを見た。一人もたまには悪くない。自分のペースでものを見れるって、落ち着く。

色んなアパレルブランドの服を見たり、ヴィレッジヴァンガードで変な雑貨やお菓子を見たり、ニッチな本を見たりした。それでふと思い立って、最上階にある書店にも足を運んで、自動車や航空機関連の雑誌をパラパラめくってみた。写真が鮮やかで、きれいだった。こうやって眺めるのも面白い。

でも、買おうと思っても値段は面白くなくて、高校生の俺には買えるものじゃなかった。社会人になったら、買えるかな。

一通り自分が眺めたいものを見終わると、俺は1階のスターバックスに入って、キャラメルフラペチーノを頼んだ。コーヒーは、味を想像しただけで気持ち悪くなるから飲めない。適当な席に座って、フラペチーノを飲んだ。ここのところ、ずっと勉強漬けだった俺に染み入る甘さだった。やっぱり、適度な休憩はいるわ。

スマホを出して、SNSを一通りチェックする。特に変わった話題は無さそうだ。そう思って、スマホを見るのをやめようとした時、俺は、ハッとあることを思い出した。

原動機の追試が終わったあと、せつなの実習の授業中に、せつなから色々面白い話を聞いたのだ。もうマシニングの実習は終わりかけてて、俺は暇を持て余していたので、せつなと颯太と喋っていたのだ。Twitterに、色んな企業が公式アカウントを作ってるの、知ってる?それぞれの企業に、中の人っていう、Twitterに企業の情報を載せる人がいて、それが面白いんだよね。中の人同士でレスやってることもあって、楽しいよ。

その時は、ふうん、としか思わなかったけど、今思うと、企業の内側の情報がTwitterで見れるって、ちょっと面白いかもしれない。ライバル企業同士がバトってるのを見るのも面白そうだし、良い暇つぶしになるいかも。俺は、Twitterを開き直し、この前の調べ物で使ったサイトの企業を何個かフォローした。これで、ちょっとは色々詳しくなれると良いな。

スターバックスを出て、また1階を歩く。一通り見たし、帰ろうかな。バス停のある方の出口に向かって歩いた。でも、その方角は、実は間違っていて、俺はバス停のある方角と真逆の方角に歩いてしまった。そのことに気がついた時、俺はバス停の出口の逆にある、エディオンの前に来てしまった。あーしまった。スマホの時計を見ると、バスはもう出てしまったようだ、仕方ない、ゆっくりしよう。

エディオンの中に入ると、ずらっと家電製品が並んでいる奥に、「おもちゃの在庫処分市」という派手なポップが大きく躍っているのが見えた。

おもちゃなんて、もう高校生なんだし興味はない。でも、時間はあるし、眺めるだけ眺めるか。

大きなかごの中には、色んなフィギュアやプラモデル、ドールハウスキットやぬいぐるみなどがギチギチに詰められていた。

フィギュアは、優樹や剛が喜ぶかもしれないキャラクターのものだった。プラモデルは、精密すぎて俺には難しそうなものだった。特に収穫なし、かな。と思ったときだった。

タミヤの白い箱に、ラジコンみたいな、戦車か重機みたいな絵が描いてあるおもちゃがあった。何だろこれ。スマホで調べると、「楽しい工作キット」と呼ばれるシリーズだった。工作・・・か。俺は手先は不器用だけど、せっかく座学と製図に打ち込んでいるんだ、本丸のものづくりやったっていいよな?値段も、在庫処分市だから、そんなに高くない。買えそうだ。レジに行ってお金を払うと、今度こそ俺はバス停のある方角へ歩き出した。

良い買い物をした、と思った。


その日の夜、俺は不思議な夢を見た。俺の部屋で、俺は漫画を読んでいた。それは日常と変わらないんだけど、俺がふと顔を上げると、俺の側で俺の知らない人が他の漫画を読んでいた。でも、俺はその人を特に怪しい、とか不思議だ、とか思ってなくて、昔から付き合いのある友達に対するような、リラックスして砕けた感情しか持ってなかった。面白えな、これ。2人で本を見合わせて笑う。会ったことないのに、何故か話が合うし、感性も合う。一緒にゲーム機でゲームもやった。俺は最近ゲームをやってなくて、腕がなまってて連戦連敗。雑魚いな、と笑われたけど、特に何とも思わなかった。夢だからかな。笑って、うるせえよ、と返した。

もう一戦やるか?マジ?と俺は返した。またやるのかよ、勘弁してよ、航(こう)。お互いに顔を見合わせて笑う。航、と俺が言ったやつは、俺が笑い終わっても、クスクスっと笑った。その横顔は、何か・・・伊丹と似てる気がした。ドッペルゲンガー?

瑞貴、お前を練習させないと、ガチでバトルできないからさ。俺ばっか勝つのも飽きてきた。うぜえ。俺は苦笑いした。

しかし、航って誰?俺の周りにはそんな名前のやついない。それに、航は何で俺のこと知ってるの?・・・一体誰?


休みが明けて、また1週間が始まった。また面倒くさい平日の始まりだ。月曜日は嫌い。電車に乗って学校に行く時、他の乗客を見てみた。みんな気怠そうな、眠そうな顔をしていた。

俺も、あれからまた家でダラダラ過ごして、そのダラダラを引きずっていた。工作キットは、結局作らなかった。もっと気が向いたらにしよう。と思って、部屋に放置したままだった。

学校に着いて、授業が始まる。今日は実習がある。せつなの実習も最終回を迎えた。マシニング、プログラミングがダルかったけど、旋盤とかより危険じゃないし、休み時間に使ってるデスクトップでネットサーフィンとかできたから、楽しかったかな。

しかし、点呼を終えて、マシニングの実習室に入った時、せつなはいなかった。東崎だけだった。

今日、せっちゃんは?颯太が東崎に聞いた。

牧口先生は、今日は休みだ。えっ、今日、授業あるのに休み?セコくね?と俺は思った。

ちょっと、急用ができたらしいんだ。と東崎は言った。急用?何だ?デートとか?颯太が言った。そんなワケ無いだろ、あのせつなだぞ?俺は言った。

あいつとくっつく男なんていないだろ。颯太がクスッと笑った。逆にいたら、見てみたいな。黒川がそんなこと言う?何かせつなの相棒みたいだな。相棒じゃねえよ。あんなやつ。颯太のからかいに、俺はちょっとイラッときた。

せつなのいない実習は、課題をやる前みたいに味気がなくてつまらなかった。まあ、最終回だし、レポートを書くくらいしかやることがなかったから仕方ないんだけど。

東崎が、班のメンバーと喋っているのをバックに聴きながら、俺はレポートを書いた。すると、東崎が、不思議そうに話し出した。

そういや、最近のことなんだけど、機械科職員室の倉庫からちょくちょくものが無くなってるんだよな。え、マジすか?と誰かが返す。

うん、何か実習の教科書が無くなったり、予備の実習帽とか色々。あと、技能検定3級の、旋盤の加工図面も無くなってた。

え、それやばくないですか?泥棒?機械研究部のやつに聞いてみたけど、みんな倉庫には入ってないって言ってたし、職員もそうなんだ。しかも、パクられるならまだしも、それは後日ちゃんと返されてるんだよ。ドキッとした。返したのは俺だ。マシニングの実習の教科書と実習帽は、あれから俺が、この前の試験期間中にこっそり返しておいたのだ。旋盤の図面は見たことないから、それは別件だろう。

それに、最近は製図道具が一式無くなっててさ、まあ予備だから良いんだけど・・・。怖いな、急にものが消えて、また戻ってくるって。機械科の棟に、幽霊でもいるのかな。

ポルターガイストとかっすかね。呪われてたりして。やめてくれよ、もう遅くまで職員室にいられないじゃないか。お祓いしてもらったらどうですか?

盛り上がるバックとは裏腹に、俺は何となく申し訳なさを感じていた。伊丹、結構学校の中うろついてるんだな。自分の姿が俺以外に見えないのを良いことに。早く俺が課題を片付けないと、マジで心霊現象と思われてやばいことになりそうだ。課題、やんなきゃな。


放課後、俺はまた製図室へ向かった。今回は1人で製図をする。剛が、今日はジャズピアノのレッスンがあるらしく、ごめん、と言って帰ってしまったから。唯一の頼みの綱が無くなってしまった。

しかし、俺以外に迷惑被ってるのが公に出てしまった以上は、やるしかない。

とぼとぼと本館を出て、渡り廊下を通って機械科の棟に着いた。製図室の入室時間とか、色々書かなきゃいけなかった。職員室に行かなきゃ。

廊下を歩いて、機械科の職員室にたどり着いた時。せつなが、向かい側の階段から上がってきた。グレーのショートジャケットに、白い襟無しブラウス。グレーのチェックのロングタイトスカートを合わせていた。いつもどおりのせつなの格好だ。こんにちは。と俺は挨拶した。黒川?でも、声にいつもの元気さはなかった。

せつな、今日実習来なかったけど、どうしたん?

い、いやあ、申し訳ない。長く下ろした茶髪の髪を触りながら、せつなが言った。

まあ、体調悪くなっちゃって。軽い貧血。いたずらをして、見つかったときの小さい子どもみたいに、バツが悪そうに笑った。

貧血?うん。まあ、アタシだって一応、女だし。普段の様子から見てると、到底そうは見えないけど。まあ、女ってそんなもんよ。どんなにがさつでも、影では女の子なの。

ふうん、女の子、か。

そんなことより、黒川。どうしたの?

ああ、製図。あの課題?そう。じゃあ、名簿に名前書いてね。と言うと、せつなは職員室のドアに手をかけた。

あ、せつな。気がついたら、声が出ていた。

ん、どうしたの?

製図・・・教えてくれんかな?

えっ?

あと、スパナの製図だけなんだよ、書き方教えて欲しい。えー、そう言われましても・・・。せつなは困った顔をした。

アタシ、製図受け持ったことないんだよね。

え、マジで?

うん。だから、製図を教えるのはちょっとキツい。ごめん。

教員って、何でもできるもんだと思ってた。教員って、何でもできるんじゃないの?

そんなことないよ。アタシだってできないこといっぱいある。製図だってそうだし、実習もまだ一通りやってない。知らないことばっか。

そうなの?うん。完璧な人間なんていないじゃん?それと同じだよ。ふう、とせつなはしんどそうにため息をついた。

そう勘違いする奴らがいるから、アタシたちもしんどいんだよね。そうじゃないって。ただでさえ、工業の教員免許取ったからって自分の専門の学科に入れるとは限らないのに。

そうなの?うん。アタシは機械が専門だけど、自動車にいたことがある。他の先生だってそうよ、電気が専門でも、建設に行かされた人もいるし、化学が専門なのにデザインに行かされたり。工業って、めちゃくちゃよ。それで、畑違いに飛ばされて、生徒たちから何でもできると思われて、できなかったら馬鹿にされる。理不尽だと思わない?

あんたが、機械科の生徒なのに、急に建築科とか土木科に行けって言われて、対処できる?

できない。無理でしょ。うん、それが工業の教員の現状。

やばいな。うん。だから、ホームグラウンドに居させてもらうってことは、すごく感謝しなきゃいけない、んだけどね。せつなは、自分に言い聞かせるように言った。

まあ、今日できなくても明日とかさ。その課題ってリミットはあったりするの?

ない。じゃあいいじゃん。ゆっくりやればいい。

そうかな。

うん、そうだと思う。その課題が出てるってことは、必ず何か意味があると思うし、リミットがないのもそうだと思うな。

起こることすべてに意味がある。伊丹の言葉だ。こいつらってグル?とちょっと思ったけど、あまり深く考えないことにした。

じゃあ、俺やる。

うん。名簿、書いてね。せつなが職員室のドアを開けて、俺を中に入れてくれた。


難しい。

1人でやる、やらなきゃと思いはしてるけど、実際に行動するのは難しい。

剛がいない俺は、無力だった。しかも教科書にスパナの描き方は載ってなかった。

どうしよう。枠線は描き終わった、けど。正面図だけでも描くか。正面図なら、角度のことは気にしなくて良さげだし。平面図を描くところからスペースを十分に取って、と。俺はドラフターのL字型の定規を動かした。この間のボルト・ナットの製図のおかげで、製図用シャープペンシルを使うことにだいぶ慣れてきた。芯があんまり折れなくなった。小さな成長はあるみたいだ。

やがて正面図の線を描き終わって、仕方なく平面図に取り掛からなきゃいけなくなった。あーマジかよ〜。でも、難しいのだ。何がって、スパナの頭の部分。

確かに、スパナの製図は1年生の製図でやった。でも、その内容は忘れてしまった。忘れてしまった記憶を無理やり引き戻そうとしたって、無理なものは無理。限界は限界、だ。

もう無理だよ〜。そう思って、ドラフターに倒れ込んだ時。

黒川。後ろから声を掛けられた。振り返ると。あ、伊丹。

お困りですか?

そりゃあ・・・。

ふむ、どこまで進みましたか?

ボルト・ナットは終わった。あとは、スパナの製図だけだよ。と言うと、俺はリュックに入っていたボルト・ナットの図面を取り出して、伊丹に渡した。

ふむ・・・。メガネを上げて、伊丹は図面を見た。そして、軽く、コン、と指で図面を小突いた。やっぱり癖が治ってませんね。線がずれている。

じゃあ、描き直し?

いいえ、まずは課題を終わらせましょう。微調整はそれからです。すべて終わらないと、直すところも直せませんから。それに、何かお困りのようですね。

うん、スパナの頭の描き方・・・。忘れちゃった。

忘れたのですか、それなら思い出しましょう。思い出せないよ。

仕方ありませんね。伊丹は渋い顔をしながら、俺の隣に来た。本当に真面目にやられていることを鑑みて、特別に補助をします。ですが、今回限りですよ?

マジ?やった、ありがと。

本当に、これっきりですからね。伊丹はしつこく念を押した。

分かったよ。

本当に分かったの?伊丹は首を傾げた。まあ、そんなことを言っても仕方ない、やりましょう。伊丹に教えてもらうって正直めんどくさそうだけど、今は仕方ない。素直に聞こう。

伊丹の説明は、驚くほどにシンプルだった。こんなにすぐに描けるの?ってくらい。製図の担当の先生や、得意な奴らが使う小手先のテクニックは一掃され、本当に単純だった。

ありがと、これなら描けるかもしれない。

はい、描いてください。

そこから俺は、伊丹に教わった手順でスパナの頭を描き、柄の部分を描いた。柄の部分の説明は正直無くても良かったけど、伊丹が横で教えてくれて、結構スムーズに描けた。

最後に寸法線と寸法の数値を描き、俺の製図は終わった。

終わったー!!俺はまたドラフターに倒れ込んだ。疲れた、もう1週間分頭を使ったよ。はい、お疲れ様でした。

じゃあ、次は取り敢えずボルト・ナットの微調整?いいえ、その必要はありません。今回はあなたの努力を鑑みて、特別にクリアとします。

え、マジで、やった!!

しかし、と言うと、伊丹は、コホンと咳払いをした。次の課題の方が、もっと難しくて根気が必要ですよ。今回はその課題の遂行を期待してのことです。

どういうこと?

これをご覧ください。と言うと、伊丹は2つのラミネート加工された図面を差し出した。受け取って見ると。

これって・・・。東崎が探してた図面だった。倉庫から使われていない図面を拝借いたしました。これが何かお分かりですか?

旋盤の、図面。

はい。この図面に書かれた寸法で、この2つの部品を作ってください。もちろん、旋盤で。

えっ?

これは、国家資格の技能検定、普通旋盤作業の3級の課題です。あなたが1年生の時、学んだことも含まれています。

でも、B部品、俺作ったことないよ?俺はA部品しか作ってないし、しかも材料は鋳鉄で、バイトもチップじゃない。

どうすればいいの?

それは、ご自身でお考えください。健闘を祈ります。消えた。

旋盤、かよ。確かに今までで一番難しい。技術、体力、精神面、すべてにおいて難関だ。どうしよう。

しかし、悩んでいても仕方ない。一応課題は終わったし、窓の外はすっかり暗い。それに製図室は、いつの間にか俺1人しかいなかった。今日は帰って休もう。ドラフターにいっぱい散らばった消しカスを集め、ゴミ箱に捨てた。

ドラフターをもとあった角度に戻し、製図道具をケースに閉まって、戸締まりして電気を消して、リュックと製図道具を持って製図室を出た。製図道具を倉庫に返さなきゃ。

夜の学校の廊下は、めちゃ暗くて怖い。本当に幽霊でも出そうな雰囲気。スマホを出すのは校則違反だけど、懐中電灯なんか無いし、ライトくらいなら使ってもいいかな。と思って、リュックからスマホを出した時だった。

眩しい光が俺の目をくらませた。

わっ。

お前、遅いんだよ。誰かが懐中電灯を俺に照らしていた。

誰だ?でも、その人の姿は暗くてよく見えなかった。

帰るぞ。

懐中電灯の楕円形の光が、ぽつんと廊下の一点を照らした。俺はその光を追った。

階段あるから、気をつけろよ。

階段を照らしてもらったおかげで、俺は階段で足を踏み外さずにすんだ。下に降りると、機械科職員室の灯りが見えた。

ありがとう。俺はその誰かに言った。

課題、取り敢えず半分終わったな。おつかれ。

え、課題やってるの何で知ってるの?ちょっとな。と言うと、その誰かはぐいっと製図道具を引っ張った。俺はそれでバランスを崩して転びそうになった。

危ないよ。ごめん。製図道具、返しといてやろうと思って。え、マジ?いいの?うん。ありがと。と俺が言うと、その誰かの影と懐中電灯の光が消えた。でも、不思議と俺は怖いって気持ちにはならなかった。








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