第19話 陰陽寮(前編)

翌朝ーーー。

弥彦とフウに送迎してもらった緋眼は、少し緊張した面持ちで晴明の屋敷に上がる。

思い出されるのは、昨日の董禾との事。

昨日の今日と言う事もあり、どうすれば良いのか。

会った時に何と声を掛けて良いのか。

そもそも、ちゃんと彼の顔を見れるだろうか。

今までと何も変わりなく共にいれるだろうか。

様々な不安が過り、緋眼の中で整理が出来ていなかった。


「あっ」


そこへ、ちょうど広間から出て来た董禾に遭遇してしまう。

長い様で短い様な沈黙ーーー。

ロトに突かれて我に返った緋眼は、着物の袖を掴んで息を吸い込んだ。


「おはっ…おはようございますっ」

「……おはよう」


勢い良く頭を下げた緋眼の頭上に、董禾からの言葉が返ってくる。

一先ず挨拶が出来た事に安堵したのも束の間、彼が踵を返すのが見えた。


「あ、あのっ、董禾様っ」

「……」


思わず声を掛けてしまうが、振り返った董禾の顔を見て、また言葉が詰まってしまう。

そんな緋眼を見て、彼が僅かに眉間を寄せたのが分かった。


「あ、あの…」

「……」

「落チ着ケ、緋眼」


何かを話そうとした訳でもない上に、なかなか次の言葉が出てこない緋眼に、ロトが緋眼にしか聞こえないパラメトリックモードで告げる。

緋眼はその言葉を受けて深呼吸をすると、董禾を改めて見据える。


「あの、えと…、フウちゃんの事なのですが」

「ああ…、弥彦から聞いた」

「え?」

「鎌成達によって、愛宕姫の斬り落とされた腕から作られた鬼だったのだろう」

「は、はい…」


呼び止めたからには何かを話さなくてはと必死に頭を巡らせ、そう言えばと昨日の帰宅途中の出来事を思い出し、何とか話題を作れたと思ったのだが彼からの返答に緋眼は拍子抜けしてしまう。

フウの事は、あの後屋敷に戻り頼光達には話しているが、その場に居なかった彼が弥彦から聞いて知っていると言う事は、弥彦が彼に文なり飛ばして伝えたのかもしれない。

話す事がなくなってしまった緋眼は次の言葉に迷う。


「ならば尚の事。あの鬼をお前の傍に置く訳にはいかない」

「え?」


次いだ董禾の言葉に緋眼は思わず聞き返す。


「どうして…ですか?」

「どうして?お前は鎌成達に目を付けられている事を忘れたのか?」

「それは…」


確かに緋眼は鎌成から嫌がらせとも言える文を送られていたが、それだけだ。

董禾が呪詛を懸念していたが、毎日の様に送られていた文には今のところ呪詛が掛けられたものはなかった。

他に何かされた訳でもないし、フウに至っては関係があるとは思えない。


「失敗作として廃棄したと思わせお前に近付け、何か狙っているのかもしれない」

「そんな…フウちゃんは…」

「お前は妖の事と言い鎌成達の事と言い、甘く見過ぎだ!」

「っ!」

「考え無しに近付いて、寝首を掻かれてからでは遅いんだぞ!奴等はお前が考えている程甘くはないっ!隙を見せた瞬間……っっ」


董禾は勢いのまま緋眼の両肩を掴むが、直ぐにハッとして息を呑んだ。


「す…済まない……」

「董禾…様?」


僅かに怯えている様にも見える彼は、ゆっくりと緋眼から手を離すと数歩後退る。


「董禾様…」

「済まない…私は……」

「いえ…、私こそ…申し訳ございません。気を付けます」


急な董禾の態度の変化に困惑するものの、彼の警告は真っ当なものだ。

これまでも、事ある毎に警告してくれていたではないか。

この世界に、妖達の事に詳しい彼とは違って、緋眼のそれはただの感情論に過ぎない。

今更ながら素直に彼の警告を聞けなかった自分に対して自己嫌悪に陥っていると、その場に再び気まずい沈黙が訪れてしまった。


「緋眼、仕事、仕事」

「あっ、申し訳ございません!」


何とか董禾と話をと思っての事とは言え、あれからどれくらいかは定かでないものの時間は確実に経ってしまった筈だ。

ロトの掛け声で我に返ると、緋眼は仕事をするべく頭を下げてから一歩踏み出した。


「緋眼…」

「は、はい」

「私はこれから大内裏に参内する。お前は屋敷でいつも通り過ごしていろ」

「え?」


董禾からの言葉に、緋眼は耳を疑った。

今までも董禾は緋眼を置いて行く事はあったが、刹鐃の一件があってからは晴明や弥彦が居ての事。

今日は晴明は朝早くから屋敷を空けているし、弥彦とも別れたばかりだ。

彼なりに、緋眼に護衛はもう不要であると判断したのだろうか。


「私がいてはお邪魔でしょうか…」


こんな事を言うべきではない。

以前、大内裏に行った時も結局は緋眼は部屋で待たされて、董禾と一緒に行動させてはもらえなかったのだ。

その事を考えれば、今回最初から屋敷に置いて行く事も何等不思議な事ではない。

それは分かっているのに、緋眼の口からはそんな言葉が出てしまった。


「そうでは…ない」

「……」

「屋敷からは絶対に出るな。いいな」

「はい…」


小さく緋眼が返事をしたのを聞くなり、董禾は荷物を持って玄関へと行ってしまった。

彼が緋眼を連れ歩かない事は今に始まった事ではないのに、緋眼は自分でも不思議なくらい気持ちが沈んでいくのが分かった。



夕餉の準備が整った頃、玄関先から物音が聞こえる。

一瞬、董禾が帰ってきたのかと思うも、聞き慣れたそれに直ぐに彼ではないと判断してロト達を引き連れて玄関へ赴く。


「晴明様、お帰りなさいませ」

「只今戻りました。とても美味しそうな香りですね」


柔らかな笑みを浮かべながら、晴明は屋敷へと上がる。

緋眼はいつもの様に彼の手荷物を受け取って後に続いた。


「今出来上がったところなので、直ぐに夕餉のご用意を致しますね」

「今日の夕餉もとても楽しみです。ところで、董禾はいないのですか?」


晴明のその言葉に、緋眼は一瞬動きを止めてしまう。

けれども、直ぐに口を開いた。


「は、はい。大内裏に行かれました」

「そうですか」


晴明は特に気にした様子もなく、自室まで歩を進める。

そのまま、ありがとうと一言告げて緋眼から荷物を受け取ると、着替えの為に部屋に入った。

それを見届けてから、緋眼も夕餉の準備の為に厨に向かう。


広間に料理の乗せた高杯を運び終えると、ちょうど着替えを済ませた晴明が入ってきた。


「今日も一段と美味しそうですねえ」

「ありがとうございます。昨日とは違う和え物とお吸い物を作ったのですが、晴明様のお口に合えば良いのですが」

「緋眼の作ってくれる食事はどれも美味しいですからね。一日の中で、食事が私の一番の楽しみなのです」

「そう仰っていただけると、私も励みになります」


晴明が茵に腰を下ろすのを見届けてから、董禾の分の夕餉を整える。


「先程、董禾の式神から連絡がありましてね」

「董禾様の?」

「帰りが遅くなるようで、先に夕餉を食べるようにとの事でした」

「そう…ですか…」


晴明からの言葉に、緋眼は目を伏せた。

夕餉の時間までに帰ってこれないのであれば、夕餉を一緒に取る事は勿論、それ以上遅くなっては今日は彼とはもう会えないと言う事だ。

今まで晴明が夕餉に居ない事はあったが、董禾が緋眼を置いて何処かへ行っても、夕餉までには帰ってきていたので、初めての事に言い様のない寂しさを感じてしまう。


「今日は二人きりでの食事になってしまいましたね」

「では、董禾様のお食事には蓋を被せておきますね」

「緋眼は気が利きますねえ」


この世界には、鮮度を保つ為のラップやタッパーと言った便利なものはまだ無い。

なので、せめて少しでも乾燥等を防ぐ為に、蓋や蓋代わりのものを被せて代用するしかなかった。

ご飯や汁物は保温機能がないので、時間が経てば経つ程冷めてしまいご飯は固くなってしまう事は防ぎようもないのだが。

台盤所から蓋を取ってきて被せると、晴明と二人夕餉に箸を付ける。


「そう言えば、道長殿が貴女に会いたがっているのですよ」

「道長様が、私に?」


いつもの様に晴明と世間話をしていると、彼からこの話題が切り出される。

道長とは、恐らくあの藤原道長の事だろう。


「ええ。以前、董禾と一緒に会ったそうですね」

「あ、はい。董禾様のお仕事の関係で大内裏に行った時にお会いしました」

「一目見て貴女に興味を持った様でしてね。じっくり話がしたいそうなんですよ」

「私なんかに、ですか…?」


道長の事には詳しくないが、一応相手は教科書にも載る程の大物なのだ。

以前は通りすがっただけではあるが、そんな相手に会うだけでも気が引けてしまう。


「そんなに固くなる必要はありませんよ。ただ話をするだけでしょうし、私も一緒にいますから。ですから、そうですねえ。明日にでも大内裏に参内しませんか?」

「明日、ですか?」

「ええ。たまには私と共に出掛けてくださると嬉しいのですが」


沢山の貴族や皇族の居る大内裏に行く事や、道長に会う事はあまり気乗りはしないが、そう言えば今まで師である晴明と二人で出掛けた事はなかった。

明日以降も今日の様子から、董禾の付き人として同行させてはもらえないだろう。

ならば、晴明の言う通りたまにはいいかな。

そんな思いが緋眼に過る。


「晴明様が宜しければ」

「ありがとうございます。緋眼と二人で出掛けるなんて、何だか新鮮ですね」


嬉しそうな笑みを浮かべてくれる晴明に、緋眼も自然と表情が綻んだ。


「では、明日はその様に予定しておいてくださいね」

「かしこまりました」


その後も晴明の他愛のない話が続いたが、やはり董禾は帰ってこなかった。




翌朝、案の定董禾は緋眼を置いて仕事に向かっていった。

その事にまた気持ちが沈むも、彼を送り出してから急いで以前大内裏に行った際に彼に用意してもらった着物に袖を通し、晴明と共に大内裏へと向かった。

ロトは緋眼の袖の中に姿を隠し、三つ目を隠したさくもちは犬の扱いではあるが、リネットと共に大内裏の外で待機する事となった。


大内裏では相変わらず沢山の貴族が行き交っている。

そして、以前と変わらず緋眼には嘗める様な視線が纏わり付いて嫌な気持ちになった。


「失礼致します」

「おお。晴明、来たか」


晴明の後に付いて沢山ある建物の中の、これまた多くある部屋の一つに足を踏み入れる。

すると、部屋の中では道長が寛いだ様子で菓子を摘まんでいた。


「緋眼も来てくれたか」

「はい。道長様、ご無沙汰しております」


緋眼は頭を下げて道長に挨拶を交わす。


「さあさあ、二人とも座ると良い」

「ええ。さあ、緋眼は此方へ」

「はい」


晴明に促されて緋眼は彼の隣の茵に腰を下ろす。

道長は女房に指示を出し、酒と菓子を持ってこさせた。


「遠慮無く呑むと良い」

「ありがとうございます。緋眼には白湯をお願い出来ますか?」

「なんと、酒を呑まぬのか?」

「両親が厳しいのです」

「それは仕方がない。麦湯でも用意させよう」

「お気遣いありがとうございます」


元の世界では未成年である事を気遣った晴明が、緋眼の代わりに道長に話を通してくれる。

晴明はいつも然り気無い気遣いをして手を回してくれるので、本当に助けられている。


「にしても、晴明よ。緋眼を陰陽寮おんようのつかさに入れておらぬのだな」


陰陽寮ーーー。

晴明と董禾が仕事の話をする際に出てくる言葉だ。

緋眼は晴明に視線を移す。


「以前もお話しした通り、緋眼は私の母方の親戚の大切な娘なのです。呪術の才があると判り、帝にお仕えしている私が師となり勉学に励んでいるのですが、一人前になったら故郷でその力を振るっていただこうと思っているのですよ。ですから、都に従事する呪術師になる為の陰陽寮に入れる必要はないと考えています」

「ふむ」


陰陽寮について、袖の中のロトがパラメトリックモードで説明してくれる。

朝廷の、即ち公的な機関であり、陰陽師とは現代で言う国家公務員の役職の一つなので、誰もがなれる訳でも名乗れる訳でもない事。

故に、陰陽寮の無くなった緋眼の時代では晴明の子孫であっても陰陽師を名乗る事が出来ないし、陰陽師と言うものは存在しない。

民間で陰陽道を極めた呪術師が陰陽師を名乗る事もあるが、現代と同じで相手に分かりやすい単語で自称しているに過ぎない。

陰陽道を極めてさえいれば陰陽師と名乗れるのであれば、陰陽寮に所属しない陰陽師など数え切れない程いるだろうが、陰陽寮所属の陰陽師は限られた人数しかいない。

陰陽師となる為には、陰陽寮で陰陽生おんようのしょうとなり陰陽博士おんみょうはかせから指導を受ける必要があるそうだ。

緋眼の世界ではとして有名な晴明ではあるが、その彼もこの世界では緋眼の世界の資料と同じく天文道を担当する天文博士てんもんはかせ

そして、晴明の弟子である董禾は陰陽師ではあるが陰陽博士でない中、緋眼に陰陽道と呪術について教えてくれている。

緋眼は陰陽師になる為に晴明に師事した訳ではないが、よくフィクションで見られるものは陰陽寮や陰陽師について細かい描写がなされている訳でもなく、誰でも彼でも陰陽師で悪霊退散な事もあり、今更ながら初めて知る陰陽師の詳細に内心驚きを隠せなかった。


「それは残念だな。陰陽寮所属の女子おなごの呪術師など初となろうに」

「何も都の呪術師に拘る必要はないと思うのです。國の呪術師となれば都と國々が連携し合い、お互いがより良い國作りをしていけると思うのですよ」

「それも一つの策ではあるな」


道長と晴明は酒を呑み交わしながら話を進めていく。

そもそも緋眼が晴明に師事したのは、それが少しでもまだ見ぬ厄災に対して力になれればと思っての事なので、二人の会話に少々不安を覚える。

とは言え、晴明とてそれは分かっての事であろうし、緋眼が口を挟める内容ではないので、ここは晴明に任せて黙って見ている事にした。


「して緋眼よ。そなた、私の妻にならぬか」

「へ?」


油断していた事もあり、急に振られた話に緋眼は間の抜けた声を漏らしてしまう。

そもそも道長が今何と言ったのかも分からなかった。


「おやおや、道長殿。道長殿は既に何人もの女性を娶られているではありませんか」

「妻を娶るのは多ければ多い程良い。女子が多ければそれだけ男の箔が付くと言うものだ」

「……」


道長の述べた言葉には、緋眼は思わず絶句してしまう。

道長に既に何人もの妻がいると言う事は、平安時代と同じく一夫多妻制なのだろう。

あまり意識してこなかったが、恋愛的な価値観も違うのかもしれない。

緋眼は何と返すべきか困ってしまう。


「流石ですねえ。ですが、緋眼はまだお嫁には出しません」

「もうよい年頃ではないのか?」

「道長殿と夫婦めおととなれる事は女性としても何より幸せな事でしょう。ただ、緋眼は今は私の元で修行を積み、それから親元でよくよく考えるのも遅くはないと思います」

「それは残念な話だ。だが緋眼、私はいつでも歓迎するぞ。女子の呪術師を活かした待遇も考えよう」

「わ、私には勿体無いお話しです…」

「そう畏まる必要はない。才ある者はそれを活かさねば意味がない。それに男も女も関係ないのだぞ」

「そう言えば、道長殿は今、女性の歌人にも目を掛けられていましたね。確か、紫式部殿でしたか?」

「ああ、あの者は大層頭が良くてな。娘の教育係を務めてもらおうと考えている」


紫式部ーーー。

源氏物語で有名な女性作家だ。

まさか、その様な人物の名が今を生きる人として聞けるとは。

ただロトの話によると、目の前に座る道長もそうだが、紫式部の年齢が緋眼のいた世界の記録とは異なっているそうだ。

緋眼の世界の記録では、彼女の正確な生まれ年は分かっていないものの、まだ幼いとされる年代なのだそうだ。

この世界はやはり過去と言うよりは、過去によく似た別世界なのだろう。


「それでな、晴明。ついでに見てもらいたい物があるのだ」

「何でしょうか?」

「帝への献上品の一つなのだが、これが来てからと言うものの良くない事ばかり起こるそうでな」


道長は再度女房に指示を出すと、女房は恐る恐ると言った様子で一つの黒い箱を差し出した。


「ふむ」


晴明は箱の蓋を開けて中身を見据える。

緋眼も中に入っている物を見てみると、そこには見事な紋様で彩られた壺が入っていた。

しかし、壺からは何やら負の念が感じられる。


「緋眼はどうですか?」

「あ、はい。何だか念みたいなのを感じます」

「そうですね。恐らく、この壺を作った者か、前の持ち主の念が込められているのでしょう。それも、良い念ではありませんね」

「はい」

「なんと。ではそのせいなのか?」

「人の念と言うものは、良いものを招きませんからね。ですが、問題はありませんよ」


晴明は手慣れた様子で印を組み呪文を唱える。

すると、あっと言う間に壺に纏わり付いていた念が浄化された。


「これで問題ないでしょう」

「うむ、流石だな。これで帝へ安心して献上出来るであろう。緋眼よ」

「はい」

「これを内蔵寮うちのくらのつかさに戻してきてはくれぬだろうか」

「私は構いませんけれど…」


そう話が振られるも言い淀む。

緋眼は大内裏に来るのは二回目であるし、内蔵寮なるものが何なのかも分からなければ、場所も分からないのだ。


「道長殿、緋眼はまだ大内裏内の場所を把握出来ていないのです。私が行きましょう」

「なれば女房に案内させよう。頼まれてくれるか」

「はい。責任を持って承ります」


緋眼は道長に頭を下げると、箱と渡された官符を持って女房の後を付いていく。

緋眼に指示を出したと言う事は、道長は緋眼の仕事振りを見極めているのか、はたまた晴明と二人で込み入った話があるのか。

色んな考えが頭を過るも、今は目の前に与えられた作業に集中する事にした。


女房に案内され内蔵寮に到着する。

場所が分かれば良いので、女房とは礼を言ってからそこで別れる。

官符を見せれば簡単に手続きが出来るそうなので、建物の中に入りそこに勤めている蔵人と思しき官人に声を掛けた。

特に問題なく手続きも終わり、献上品の入った箱を渡して帰ろうと踵を返す。

すると、ふと不思議な感覚に捕らわれた。

何だか気になって、緋眼は無意識の内に一つの部屋の前まで来ていた。


「ドウシタ、緋眼」

「あ、ううん。何だか不思議な感じがして」


我に返った緋眼は、部屋の中が気になりつつも勝手に覗く訳にもいかないし、不審者扱いされる前に晴明の元に戻ろうと体の向きを変える。


「何方か、其処にいらっしゃるのですか?」


部屋の中から男の声が聞こえたと同時に御簾が上がった。


「これはこれは。珍しい客人ですね」

「あっ、勝手に申し訳ございません!」


中から姿を見せたのは、深い緑色の長い髪を後ろで束ねたとても気品溢れる男性だった。


「金品の支出ですか?」

「えっと、壺を戻しに来まして、手続きを終えたところです」

「そうでしたか。それはご苦労様です」


物腰の柔らかな男性は、声色もとても優しくて思わず聞き惚れてしまいそうだ。


「申し遅れました。私は仁鏡じんきょうと申します。帝への献上品等の管理をつかまつっております」

「あっ、私は十六夜緋眼と申します。その…安倍晴明様の元で修行中の身です」

「安倍晴明様の?では、緋眼様は陰陽寮の方なのですね?」

「あ、いえ、陰陽寮に所属はしていないのですが、陰陽道について学ばせていただいているんです」


相手を勘違いさせてしまった事に慌てつつも、緋眼は言葉を選びながら応える。


「そうでしたか。この様に可愛らしい方が陰陽道を学ぶ時代が来たのですね」

「か、可愛くはないですよ…。それに、まだまだ修行中の身ですから。晴明様や董禾様の足元にも及びません」

「橘董禾様は安倍晴明様の弟子の陰陽師の方ですね。安倍晴明様の弟子にはなかなかなれないと聞き及んでおります。弟子になれた時点で、緋眼様にはそれだけの才があると言う事なのでしょう」


そう言えば、鎌成が今までの弟子達は直ぐに逃げ出したと言っていたのを思い出す。

もし、その者達も晴明ではなく董禾から指導を受けていたのであれば、逃げ出す人がいたのも納得出来るかもしれない。

それによって、董禾以外の弟子がいなかったのだろうか。


「買い被り過ぎです。それに、私なんかに“様”を付ける必要はありませんよ。その様な身分でもありませんから」


仁鏡の言葉に流石に居心地が悪くなって緋眼は眉尻を下げる。

自分はそんなに優れた出来た人間ではない。

晴明とて厄災の事がなければ、緋眼を弟子として迎え入れ陰陽道を教えようなどと思う事もなかっただろう。

董禾に陰陽道を教わる事もなかったのだろう。

緋眼が晴明の弟子としての今があるのは、厄災に対抗する為とその為の姫の一人だと期待されているからに他ならない。

改めて突き付けられた現実に、何だか急に気持ちが沈む感覚に捕らわれる。

緋眼は初対面の目の前の人物に余計な話をしてしまったと思い、頭を下げてから立ち去ろうとした。


「……。宜しければ、中にある献上品を見ていきませんか?」

「え?」


不思議と通る澄んだ声が緋眼の足を止める。


「これも何かのご縁でしょう。此処にある物は瓦落多ガラクタと言われる物ばかりですが、貴女さえ宜しければ」


緋眼は部屋の方に目を向ける。

そもそも此処まで来てしまったのは、この部屋が気になっての事だった。

管理者である仁鏡の許可があるのならば、少しくらい見ても良いだろうか。


「ご迷惑でなければ…」

「そう仰っていただけて良かったです。さあ、どうぞ」


緋眼は仁鏡に促されて御簾を潜る。

部屋の中には、古い土器の様なものや銅鏡、埴輪やあの遮光器土偶まであり、歴史的に見ても価値の高そうな物ばかりが綺麗に整頓されて納められていた。

テレビや教科書でしか見た事のないそれらに、思わず緋眼の胸も心踊ってしまう。


「緋眼様は、この様な物でもご興味がございますか?」

「はい!教科書でしか見た事がないものですから、まさかこうして間近で見る事が出来るなんて」

「きょうかしょ、でございますか?」

「あっ!その…資料と申しますか…」

「安倍晴明様程のお方ならば、これくらいの資料であれば山の様にお持ちなのでしょうね」

「そ、そうですね…」


考えもせず出てしまった言葉に冷や汗を掻くが、晴明のお陰で特に怪しまれず流れる会話に身を任せる。

気まずさから視線を漂わせると、ふと視界の端に入ったものに目を留める。


「わあ、綺麗なお人形さんですね」


その先にあったのは、長い黒髪に豪華な十二単を着せられた日本人形だった。


「緋眼様は気付いてくださいましたか。人形姫ヒンナヒメと言います」

「ヒンナヒメですか?お姫様なんですね」

「人形姫も、この品々と共に保管されている物の一体です」

「近くで見てみても良いですか?」

「構いませんよ」


そう言うと仁鏡は人形姫を抱き上げて緋眼の目の前に持ってきてくれる。


「綺麗なお姫様ですね」


陶器の様な白い肌に、翡翠色の瞳をした日本人形だ。

まるでこの世の物とは掛け離れた美しさに緋眼は見惚れてしまう。


「そう仰っていただけたのは貴女が初めてです。人形姫も喜んでいるでしょう」

「献上品ならば仕方がないのかもしれませんが、ずっと此処に仕舞われっぱなしなのは勿体無いですね」

「献上品と言えど、この部屋にある物は人々に見向きもされない瓦落多なのです。再び日の目を見る事はないでしょうね」

「そんな…」


再度、仁鏡の腕に収まる綺麗な日本人形や献上品の品々に目を向ける。

緋眼は別に歴史オタクでもコレクターでも何でもないが、博物館でも開けそうな遺物の数々は見ていてワクワクする。

とは言え、人の興味も人それぞれだ。

こう言った物に興味がある者もいれば、全く見向きもしない者もいるだろう。

この一室に仕舞われたままと言うのは勿体無い気がするが、緋眼にはそれらをどうこう出来る権利も何もない。


「緋眼様が宜しければ、またいつでもいらしてください。蔵人には話を通しておきましょう」

「え?ですが…」

「貴女の様な可愛らしいお方が来てくだされば、人形姫も此処のモノ達も喜びます」

「ありがとうございます。でも…」


そこまで言って緋眼は言葉を詰まらせる。

今日此処に来れたのは晴明と共にいたからだ。

緋眼は気軽に大内裏に来れる身分ではない。

仁鏡の言葉と気遣いは嬉しいが、だからと言っておいそれと此処に来る訳にはいかない。


「勿論、宮城にいらした時に少しでも立ち寄ってくださるだけで良いのですよ。私達は、いつでも貴女をお待ちしておりますから」

「仁鏡様…、ありがとうございます。次はいつ来れるか分かりませんが、大内裏に来た時は必ず寄らせていただきますね」

「はい」


仁鏡の柔らかな笑みに緋眼も笑顔で応える。

名残惜しさはあるものの、道長の遣いの途中であった事を思い出し、仁鏡に挨拶をしてから別れた。

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