第18話 フウの正体

「では、いつもの時刻にお迎えに参ります」

「はい。弥彦様、ありがとうございます」


それから暫くして怪我もすっかり良くなった頃、緋眼は弥彦とフウに送られて晴明の屋敷に来ていた。

夏の暑さも影を潜め、朝晩は少し肌寒くなってきていた。


「ひがん、がんばってね」

「うん、頑張るからね」

「とは言え、あまりご無理はなさらないでくださいね」

「いつもお気遣いありがとうございます」


手を繋いで帰路に就く二人の背中を見送り、緋眼はさくもちとロト達を連れて屋敷の門を潜る。


「董禾様、おはようございます」

「おはよう。…もう良いのか?」


廊下に董禾の姿を捉えると、緋眼は挨拶の言葉を投げ掛ける。

彼の姿を見た途端、胸が高鳴るのが自分でも分かった。

怪我をしている間二度会う事はあったが、ずっとずっと見たいと、会いたいと思っていた姿だ。

董禾は挨拶を返しつつ、どこか控え目に訊ねてきた。

今日緋眼が此処へ来る事は予め文を送って伝えてあるので、彼も晴明も知っている事だ。


「はい。ご迷惑とご心配をお掛け致しました。その分、今日から精進に励みますのでよろしくお願い致します」

「ああ。だが、無理をする事は望んでいない。今日は私は非番だ。いつも通り家事をしていろ」

「かしこまりました」


緋眼は自室に戻る董禾を見送ってから、数日振りの家事に袖を捲った。

怪我で臥せっている間、待ち焦がれていたこの時に心身が軽くなるのを感じる。

緋眼は気合いを入れてから家事に取り掛かった。


間食かんじきの時間となり、緋眼は小麦で作った焼き菓子と豆乳を寒天で固めたゼリーを用意して董禾の部屋の前で膝を付く。


「董禾様、間食をお持ちしました」

「ああ…。入るといい」


彼からの返事が聞こえると御簾も上がったので、食事を渡すべく緋眼は高杯を手に持った。


「っ?」


すると次の瞬間、腕を取られてあっと言う間に部屋の中に引っ張られ床に倒れる。

何が起こったのか分からない中、緋眼は真っ先に手に持っていた菓子がどうなったのかを心配した。


「うっ…」

「やあ、待っていたよ」

「え?」


緋眼が見上げると、そこに立っているのは紛れもなく董禾だ。

しかし、その様子がおかしい。

けれども、緋眼は一度その様子の彼に会っている。


「あ、貴方は…」

「やっと二人きりになれたね。君、怪我なんてしちゃうから、此処に来なくなっちゃうし」


董禾の体を乗っ取った男は、屈んで緋眼の顔を覗き込む。

以前は薄明かりの中ではっきりとは分からなかったものの、その瞳はこの世のものとは思えない程美しく、しかし他者を蔑む様な冷たさを感じる金色こんじきに輝いていた。


「この時をどんなに待ち侘びたか」

「ロトっ…」


ロトの名を呼んで逃げようとするが、緋眼はいとも簡単に男に組み敷かれてしまった。


「あいつらは厄介だからね。外で待っていてもらっているよ」

「っ!」


視線を巡らすが部屋の中にロト達の姿はなく、本当に男と緋眼の二人きりだった。

しかも男は結界を張ってロト達を入れなくしている。


「さあ、邪魔者もいない事だしこの間の続きをしようか」

「続き?」

「まさか、もう忘れたの?董禾と子供を作るように言ったよね」

「っ…!」

「君にはお仕置きもまだだったからね。お仕置きも含めてたっぷりと可愛がってあげようか」

「と…、董禾様の体で勝手な事しないでください…」

「まだそんな事言ってるの?董禾の体は僕のものだって言ったよね。どうやら君には徹底的に調教してあげないといけないみたいだ」


顔を近付けてきた相手に、緋眼は押し退けようと彼の胸元を手で押さえる。


「抵抗しても良いのかな?君が抵抗するのなら董禾がどうなっても知らないよ」

「っ!」


その言葉に緋眼は腕の力を緩める。

董禾を人質に取られてしまっては、緋眼にはどうする事も出来ない。


「そうそう。大人しくしていれば董禾は無事だよ。君もそう痛い思いはしなくて済む筈さ」


男はそのまま緋眼の首に顔を埋め舌を這わせる。

突然の感触に緋眼は思わず目を閉じて体を強張らせた。


「なに?そんなうぶだと言いたげな反応は。初めてだったりするのかな?ふっ、くくはははっ!どうやらいたぶり甲斐がありそうだね。この僕が直々にたっぷりと調教してあげるんだ。光栄に思う事だね」


董禾の声で、姿で男は言い放つ。

彼を人質に取られ、ロト達もいない状況で為す術もない緋眼には、ただ目を閉じて必死に堪える以外に選択が残されていない。


「ぐっ…また…」

「え?」


すると、突如男が苦しみ出す。

この光景にも見覚えがあった。


「何故…抵抗する…」


男は苦しみながら呟く。


「何故…抵抗出来る……くぅっ…」

「そんなっ…待って…」


男の気配が薄れていく。

董禾の意識が戻ろうとしているのが分かったが、今の緋眼にはその事に対して焦りしかなかった。

彼にこんな姿を、こんな状況を見られたくない。

それだけは何としても防がなければ。

けれども、緋眼の思いも虚しく男の気配は途切れ、意識のなくなった董禾の体が緋眼に覆い被さる様に倒れた。


「っ…」


緋眼はせめて董禾の意識が戻る前に部屋から出ていこうと彼の体を押し返そうとする。

しかし体勢も相俟って、意識のない男一人の体を動かす事は至難の業だった。


「う…」

「んっ」


そうこうしている内に董禾から吐息が漏れる。

首に掛かる吐息の擽ったさに堪えながら、緋眼は必死に彼の下から抜けようと体を動かす。

無情にももがいただけで状態は変わらず、彼の体が動いた。


「…ん」

「あっ…」


ゆっくりと上体を起こした董禾は、己の下にいる緋眼に気付くなり怪訝そうに眉を顰める。


「なにを…している…」

「あ、あの…これは…」


前回以上に言い訳が出来る状態ではなかった。

緋眼は董禾の顔を見て頭が真っ白になってしまう。

おまけに彼は上体を起こしたものの、緋眼の上から退こうとはしなかった。

緋眼は言い訳どころか、この場から逃げる事も出来ないのだ。


「なにを…していた…。わたし…は……」


董禾は片手で頭を押さえて呟く様にこぼす。


「ち、違うんです!董禾様じゃないんです!」

「……」


緋眼は思わず叫んでいた。


「董禾様は何もしていません…。董禾様は何も悪くないんです…」

「ひ…がん…?」


叫んだものの、次第にその声は小さくなっていく。

董禾はそこで漸く緋眼の上から退いた。


「ごめんなさい…董禾様…、ごめんなさい…」

「何故、お前が謝るんだ?」


緋眼は居たたまれなくなって、勢いのままに起き上がってから部屋を飛び出そうとする。

ところが、何かに引っ張られるようにして体勢を崩した。


「っ!?」


緋眼は混乱しながらも状況を確認しようと振り返る。

すると、何故か董禾の手には緋眼の指貫さしぬきの後紐が握られていた。

紐が解かれた事によって後ろ側がはだけた上に引っ張られる形となり、指貫も脱げかけていたのだ。


「こ、これは…」

「……。私は…お前を…」

「ち、違うんです!私はドジで間抜けだから、こうして転んでしまって…董禾様を巻き込んでしまっただけなんですっ」

「………」


緋眼はそう言い捨てて部屋を出ようとしたが、尚も董禾が紐を握ったままだったので片足が脱げてしまった。


「あ、あの…、離していただけませんか…」

「あ、ああ…」


緋眼にそう言われ、気の抜けた様な返事をしながら彼は紐を離す。


「緋眼…」

「失礼しましたっ」


董禾は緋眼の名を呼んでいたが、緋眼は指貫を引き摺りながら振り返る事なく廊下を駆けた。

振り返れなかった。

振り返る事など出来なかった。

部屋を出る時に一瞬見えた彼の辛そうな表情が過ったが、緋眼は厨に駆け込むと膝を抱えるようにして屈んだ。


「ううっ…」


理由も分からず止めどなく涙が溢れてくる。

そんな事を気にする余裕もなく、緋眼は暫くそこで泣き続けた。



「それでは…失礼致します」

「気を付けて帰ってくださいね」

「はい」


気まずい夕餉を終え、緋眼は弥彦の待つ門へと足を進める。

夕餉の最中、董禾とはちゃんと目を合わせる事が出来なかった。

彼から目を逸らす事はなく、緋眼が確認出来た範囲では何かを言いたそうにしていた様に見えたのだが、特に何を言うでもなく夕餉の時間が終わった。

晴明は緋眼と董禾の間に流れる空気に気付いたようだが、その事について言及する事はなく、いつもの調子で世間話をしていた。

緋眼にとっては、そんな晴明の気遣いが身に沁みる程ありがたく救われる思いだった。


「お疲れ様です、緋眼殿」

「ひがん、おかえりー」

「弥彦様、フウちゃん…」


二人の声を聞いて、緋眼は体中の緊張が解れていく様な感覚を覚える。


「久方振りの勤務です。お疲れではありませんか?」

「いえ…思ったよりは疲れていません」


弥彦の気遣いに緋眼はふっと頬を緩める。


「ひがん、つかれてたらフウいやすからね」

「ありがとう、フウちゃん」


緋眼はフウの頭を撫でてから彼女を真ん中にして手を繋いで、三人並んで帰路に就く。

その後ろを、さくもちとロト、リネットが続く。


「あの…」


堀川の川沿いに虫垂れ衣を被った女性が一人見えた。

貴族の姫君であれば、付き人も付き添わせずにこの様な時間一人でいる事は危険極まりない。

そう思いながら戻り橋に差し掛かった時、その女性が声を掛けてきた。


「貴女が十六夜緋眼様ですか?」

「え?はい、そうですけれど」


思わず聞き惚れてしまいそうな美しい声に、虫垂れ衣の僅かに透けた布からも、相手が黒髪の美しい女性である事が分かった。

緋眼は自分の名前を呼ばれた事も相俟って、緊張した面持ちになる。


「失礼ながら貴女は?」


弥彦は警戒した様子で女性に訊ねる。


「わたくしは、先日その方に救われたので…その例をと」

「え?」


女性の言葉に緋眼は首を傾げる。

救われたと言う話だが、緋眼には全く心当たりがない。


「人違いではありませんか?」

「……。いいえ…」


弥彦の言葉に女性は袖口で顔を隠す様にして俯いた。


「まあ…この姿では分からないのも仕方がない」

「緋眼、下ガレ」


急に雰囲気の変わった女性に、弥彦とロト達が警戒して緋眼とフウを庇う様に前に出る。


「そう警戒せずとも危害を加えるつもりはない」

「あ、貴女は…」


虫垂れ衣から顔を覗かせたのは、銀色の髪を靡かせた愛宕姫だった。


「この時刻であれば人通りも少ないから変装するまでもなかったか」

「あ、あの…」

「なんだ?」

「腕は…大丈夫ですか?」


緋眼はずっと気になっていた事を口にする。

確か、愛宕姫の暴走は止められたが腕はなかった筈だ。

鬼は腕を取り戻せば回復するそうだが、茨木童子に連れられた彼女があの後どうなったのか分からない。


「人間の分際で、この私の心配をするのか」

「済みません…」

「全くもって不可解な奴だ。腕など無くとも命に関わる訳ではない」

「……」


緋眼は彼女の左腕の方へ目を向ける。

着物なのではっきりとは分からないとは言え、彼女の左腕の袖には腕が通っている様に見えなかった。


「この間はその…無様な姿を見せた。一応礼は言っておく。私は仮を作るのは好きではない。だから、いずれこの仮は返す。覚えておけ」

「え?」


愛宕姫の表情は虫垂れ衣に隠れていてよく分からない。

しかし、その声はどこか気恥ずかしそうにしている様にも聞こえた。

それに、愛宕姫はわざわざそれを伝えに都まで来てくれたのだろうか。

そう思うと、緋眼には自然と笑みがこぼれていた。


「うで、いたいの?」

「フウ?」


弥彦達の後ろにいたフウが愛宕姫の前へと出る。


「なんだ、こいつは?鬼…なのか?」

「あっ!」


フウを見た愛宕姫は怪訝そうにするが、小さいながらもその頭部に生える角に気付くなり困惑した声を漏らす。

並んだフウと愛宕姫を見て、緋眼はある事に気付いた。


「いたいの、フウいやすからね」

「なっ、気安く触るな!」


フウは腕の通っていない愛宕姫の左袖を引っ張る。

突然引っ張られてバランスを崩した愛宕姫の肩が届く高さまでくると、フウはその肩に手を触れた。


「なっ?」

「これはっ…」


その瞬間、フウの手と愛宕姫の触れた肩が淡く光り出す。


「う…くっ…」

「愛宕姫っ?」


肩を押さえた愛宕姫に緋眼は近付く。


「これは…一体どうなっているんだ…?」


困惑の色を深めた愛宕姫の視線の先を辿ると、先程までは何も通っていなかった筈の彼女の左の袖には腕が通っていた。

愛宕姫は恐る恐る指先まで動かし、その感触を確かめているようだ。


「なっ…。腕が…戻ったと言うのですか?」


その事に気付いた弥彦も驚きを隠せない様子だ。


「フウちゃんと愛宕姫…同じ妖気を感じます」

「え?」


緋眼が先程気付いた事。

フウと愛宕姫からは全く同じ妖気が感じられた。

妖気は一つの個を識別出来るものだ。

妖一つ一つが違う妖気を持っているので、似た様な妖気はあっても全く同じ妖気を別の個体が持つと言う事は有り得ない。

緋眼の指摘を受け、弥彦も改めて二人の妖気を探る。


「確かに…妖気が同じ様ですが…」

「それに、同じ感じがするんです。上手く説明が出来ないのですが……同じ人がそこにいると言うか…」


緋眼は言葉を選びながら二人を交互に見遣る。


「愛宕姫ト フウチャン分析シタ結界、同ジ細胞デ出来テイル。ロト ノ推測、フウチャンハ愛宕姫ノ斬ラレタ腕カラ作ラレタンジャナイカ」

「それは本当ですか!?」

「お前達は何を言っているんだ?」


的を射ない愛宕姫は怪訝な表情で問い掛ける。


「フウちゃんはその…誰かは分かりませんが、誰かに作られた鬼の可能性があるんです」

「なに?」

「時期的に見ても辻褄が合いますね。確か、愛宕姫の腕が斬られた場には渡辺殿の他に、蘆屋道満殿と藤原鎌成殿がいたと董禾殿が仰っていましたね。ならば、その二人がフウの生みの親と考えて間違いないかもしれません」

「渡辺がその二人と組んで、私を謀ったと言う事か」

「あっ、違いますよ!渡辺様も利用されていたんです。きっと貴女と戦わせる為に、貴女からと偽られた書状を送られていたんです」

「………」


当時の事を思い出したのか、愛宕姫は忌々しげな表情を浮かべている。


「フウのとうさまとかあさま、わかったの?」

「フウちゃん…」


首を傾げるフウに、事が事なだけあり緋眼は言葉を詰まらせる。


「ならばお前達は、そ奴らからこの鬼を取り上げたのか?」

「えっ?取り上げては」

「フウは棄てられていたのです。失敗作として」

「弥彦様っ」


隠さずに述べた弥彦に、緋眼は落ち着かない様子でフウと愛宕姫を見る。


「はっ。人間とはどこまでも身勝手で憎らしい。私をあの様な目に遭わせておいて、これを棄てるとは」

「愛宕姫…」

「フウと言ったな。確かにお前からは不思議な感じがする。生まれた出自は問わぬ。だが強くなれ。己を利用せんとする愚か者どもを葬る為にな」

「つよく?」

「そうだ。お前が私の一部だと言うのなら、強くなれるであろう」

「つよくなったら、ひがんも、さあちゃんも、やひも、みんなまもれる?」


愛宕姫の言葉に、フウはその目をキラキラと輝かせて訊ねる。


「ふっ、そうだな。守りたいのであれば強くなれ。人里に嫌気が差したら、いつでも迎えに来てやろう」

「ん、フウ、つよくなる!」

「緋眼」

「は、はい」

「同情は無用だ。我等鬼とお前達人間は、これからも幾度と無く対峙する事になるだろう」

「……」

「だが、お前への仮は必ず返す。私の力が欲しい時は愛宕山へ来るが良い。愛宕山は数多くあるが、丹波の愛宕山を訪ねてこい」

「愛宕姫」


愛宕姫はそう告げると空高く舞い上がり、薄暗くなった空へと消えていった。


「すごい、すごい!フウもとべるかな?」

「鬼は神通力を用いて空を飛ぶ事が出来ます。フウもきっと、修行を積めば飛べる様になるのではないでしょうか」

「そんな事が…」

「フウ、がんばるっ!がんばって、ひがんも、さあちゃんも、やひもまもるの!」

「頑張レ、頑張レ」

「フウがあの時の愛宕姫の腕から作られた鬼であった事には驚きです」

「そうですね」

「さあ、すっかり暗くなってきました。早く屋敷に戻りましょう」

「はい」


日も沈み暗くなった道を、弥彦が先導して頼光の屋敷に向かう。

緋眼は一番星を見詰めながら、今日起こった出来事に不安を募らせていた。

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