第17話 約束の指切りと無垢な子鬼
「ん……」
次に緋眼が目を覚ました時、外はうっすらと明るくなっていた。
「いけない…起きなうっ…」
急いで起きようとして、腹部の激痛に顔を顰める。
そこで怪我をしている事を思い出した。
「無理スルナ。寝テイロ」
「そんな訳にもいかない…。早く、用意しなきゃ…」
ロトの制止も聞かずに痛みに堪えながら起き上がる。
そこで、御簾が静かに上がった。
「緋眼殿、目を覚まされましたか」
「弥彦様?」
急な来客に緋眼は目を丸くする。
「弥彦様、付キッキリデ看病シテクレタ」
「えっ!」
「まだ休まれていないとお体に障ります。何か用があれば、僕に申し付けてください」
弥彦は水の入った桶を脇に置くと緋眼に近付く。
「あ、えと…もう用意しないと遅刻してしまうので」
「遅刻?」
「晴明様のお屋敷に行かないと」
緋眼がそこまで言うと、弥彦は神妙な面持ちで真っ直ぐと緋眼を見据える。
「怪我が治るまでの間は療養されよと、当面の間の修行はなしになりました」
「え…」
「そのお怪我では動くのもお辛いでしょう。お暇を貰ったと思って、暫くはお体を休めてください」
「わかり…ました…」
緋眼は弥彦の説明を受け、また自分の迂闊さを悔いる。
もっともっと修行に励んで董禾の力になりたいと思った矢先がこれだ。
暫く修行が出来ないのであれば、己を鍛える事が出来ない。
昨晩最後に見た董禾の様子からも、そんな緋眼に呆れているだろう。
寧ろ、暫くの間緋眼の世話を焼かなくて済み、清々しているかもしれない。
そう考えると、本当に本当に自分が情けなくて腹立たしく思う。
「では、緋眼殿。当て布を変えましょう。その後、朝餉をお持ちしますね」
「済みません…。ありがとうございます…」
弥彦に手際よく当て布を変えてもらい、その後運ばれたお粥を啜ってから緋眼はもう一眠りした。
眠ったところでこの胸の鬱憤は消えなかったが、今の緋眼に出来る事はただ眠る事だけだ。
それも本当に情けない。
「董禾殿?」
「…緋眼の様子はどうだ?」
「今は休まれています。熱も少し出てきています」
お昼を過ぎた頃だろうか。
御簾の向こうから聞こえてきた声で、緋眼は目を覚ます。
「そう…か」
「何か用事でも?」
「いや、別件で立ち寄っただけだ。邪魔をしたな」
御簾越しに董禾が体の向きを変えたのが分かった。
「とうか…さま…」
緋眼は思わず彼の名を呼んでいた。
「とう…いっ…」
何も考えずに起き上がろうとして、腹部の痛みに蹲る。
「緋眼殿!」
緋眼の声を聞いた弥彦が御簾を上げて入ってきた。
「大丈夫です…」
「莫迦者が。大人しく寝ていろ」
「済みません…」
董禾は廊下から緋眼の様子を見て溜め息混じりにこぼす。
そんな彼の様子に緋眼は身を縮まらせた。
「……。僕は水を変えに行く途中でしたので、その間緋眼殿の事を頼みます」
弥彦は董禾にそう告げると、桶を持って部屋を後にした。
董禾と二人きりになった気まずさもあり、緋眼は上体を起き上がらせる。
「董禾様」
「横になっていろ」
「でも」
「……」
董禾は廊下から部屋に上がると、有無を言わさず緋眼を横たえた。
「董禾様…、私は破門ですか?」
「……何故そう思う」
「董禾様の言い付けを守らずに…後先考えずに飛び込んで…怪我をしたから…です」
「お前はこうして怪我をする事で、一体どれだけの人間に迷惑がかかるか考えた事はあるか?」
「………」
董禾の言葉に緋眼は何も答えられずに押し黙る。
「怪我の手当てに看病をせねばならない。お前は修行中の身でありながら、修行も中断せねばならない。それがどう言う事か解るか?」
「申し訳…ござ」
「謝罪の言葉が聞きたいのではない。刹鐃の時も今回も、幸いな事に怪我だけで済んだ。だが、死んだらどうするつもりだ?お前を心配する家族とているだろう。彩耶香の様な仲間もいるだろう。何より、お前が助けようとした愛宕姫はどうなる?お前が死ねば、奴も助けられずに調伏される事になる。それで、お前は良かったのか?」
緋眼は辛うじて首だけを横に振る。
「ならば、もっとよく考えて行動しろ。お前の命はそう軽いものではない。死んだら何も成せない。死んだらそれで終わりなんだ」
そう話す董禾は怒っていると言うよりも、何かを堪えている様に眉間を寄せている様に見えた。
「お前はもっと自分を大切にしろ。今後も捨て身で何かを為そうとするのならば、私はお前に修行を付けてやるつもりはない。いいな」
「っ…。もう二度と迂闊な行動はしません。だから…」
「約束出来るか?」
「はい…。お約束致します」
緋眼は咄嗟に起き上がろうとして、再度董禾に止められる。
「だから寝ていろと言っているだろう。全く…お前は今自分がどんな状況か理解出来ているのか?」
「済みません…」
「謝ってばかりでは、言葉の信憑性にも欠けるな」
「え…」
突如突き付けられた言葉に、緋眼は動揺してしまう。
「指切リ。指切リ、シタラドウデスカ?」
「なんだ、それは?」
横から口を挟むロトの言葉に、董禾は興味を持った様にそちらを見る。
「約束ノ誓イ、誓イ」
「指を切ってまで約束をすると言うのか?」
「ち、違いますよ。約束をするに当たって、嘘を吐いたら針千本飲ますと言う脅し文句です…」
「針など千本も飲む前に、苦しみもがくだろう」
「ダカラ、ソウナラナイ様ニ約束スル。約束スル」
「……」
董禾は刹那沈黙して緋眼を見遣る。
彼ならば本当に針千本飲ましかねないと、緋眼は気持ち後退る思いだった。
「ならば、緋眼。この事は指切りだ」
「えっ!」
「小指絡メル、小指絡メル」
「小指?」
「小指絡メテ約束ノ印」
董禾はロトを見遣ってから緋眼へと視線を移す。
「あの…、小指同士を絡めて指切りの歌を歌って約束するだけです」
緋眼は説明する様に小指を差し出す。
すると董禾は躊躇いもなく小指を絡めてきた。
「えっ…」
「どうした?早く歌を歌え」
まさか董禾が乗ってくるとは思っていなかっただけに、動揺と恥ずかしさから緋眼は視線を漂わせる。
「そうか。先程の言葉は口だけで、約束する気はないと言うのだな」
「ち、違います!お約束致します!致しますからっ!」
絡められている小指が次第に締め上げられていく様な感覚に、自身の小指の危険を感じる。
緋眼は色んな意味で動揺が収まらない中、慌てて指切りの歌を歌う。
歌い終わるとそっと指を離した。
先程から心臓が飛び出すのではないかと思うくらい、鼓動が強く速く打っていた。
「因ミニ、ゲンマン ハ握リ拳デ一万回殴ル事。一説ニヨルト、指切リノ元ハ、男女ガ不変ノ愛情ヲ誓ウ証拠トシテ、女性ガ小指ヲ切ッテ男性ニ渡シタ事ニ由来シテイルソウデス」
「なにそれ!?」
「やはり、指を切るのではないか」
「切りたくないです!痛いですっ!」
「私との指切りは約束を違えた時に指を切る事にする。約束を守ると言うのであれば、何ら問題はないだろう」
「う…、必ずお守り致しますっ。なので、指を切らないでください…」
緋眼は腹部の痛みに堪えながら、横たわった状態で彼から距離を取ろうとする。
しかし、直ぐに彼に腕を掴まれる。
「大人しく出来ないのか」
「ううっ…」
「しかし、とんでもない約束事だな。小指を切断した上で、約束を破れば一万回殴られ、針を千本飲まなければならないのか。正気の沙汰とは思えないな」
「ごもっともです…」
「ならば、緋眼。約束を違えるなよ」
「かしこまりました…」
董禾は緋眼の腕を離すと、懐から何やら取り出した。
「それは?」
「鎌成からの例の文だ。よくもまあ飽きもせずに送ってくるものだ」
「はは…」
緋眼は苦笑いを浮かべながら董禾から文を受け取る。
しかし、こうして文を持っていると言う事は、わざわざ緋眼に届けに来てくれたのだろうか。
緋眼は文から彼に視線を移した。
「遣いの者に、暫く文を返せぬと伝える様言っておいた。文の返事を考える必要はない」
「董禾様…」
「今は怪我を治す事に専念しろ。他の事を考える必要はない」
「……」
「怪我を治し約束を守れると言うのならば、また来れば良い。まだ一日も経たぬと言うのに、晴明がお前の作る食事を暫く口に出来ぬと嘆いて五月蝿い。どうにかしろ」
「っ!はい!」
董禾の声色は、いつもと違って優しく感じられた。
きっと彼は彼なりに、緋眼の事を気遣っての今までの言葉なのかもしれない。
思い上がりかもしれないが、緋眼にとっては少しの事でも嬉しかった。
だからこそ、彼に迷惑をかけたくない。
彼の力になりたい。
その思いとは相反する現状に歯痒く思うが、破門ではないなら一日でも早く怪我を治して、修行を再開し立派な呪術師になる。
それが、心配や迷惑をかけてしまった董禾達に返せる事なのではないか。
「董禾様、私…」
「済まない。熱があるのだったな。長居し過ぎた」
「え…?」
必ず怪我を早く治すとーーー、今後絶対に迷惑をかける様な事をしないと告げようとして、董禾はそれに気付かずか立ち上がろうとする。
彼がもう帰ってしまうと言う事に、緋眼は急に悲しい様な寂しい様な気持ちが湧き上がった。
「姫、緋眼殿はまだお休みに」
「なら、枕元にでも置いておけば直ぐにでも食べられるでしょ?」
「そうですが…」
そこへ、廊下から彩耶香と弥彦の声が聞こえてくる。
間もなくして、上がっていた御簾から彩耶香が姿を見せる。
彩耶香は部屋の中の董禾の姿を捉えると驚いた表情をしたが、直ぐに眉を吊り上げた。
「何で董禾が此処に居るのよ?誰の許可を得て緋眼に会ってる訳?」
「……」
その言葉を受けると同時に董禾は静かに立ち上がる。
「姫、董禾殿は」
「渡すものがあったので寄っただけです。それとも、姫君が渡してくださいますか?呪詛のかかった文を解術して」
「なっ!」
董禾はいつもの無表情で返してから、彩耶香の横を通り過ぎて廊下へ出る。
そして、そのまま振り返る事なく行ってしまった。
「なによ…あいつ!私が何の力も無いからって馬鹿にして!」
「姫、董禾殿はその様には」
「ほんっと、ムカつく奴!」
彩耶香は勢いそのまま手に持つ高杯を床に叩き付けようとする。
慌てて弥彦はその手を取った。
「姫、折角お運びになったのに駄目にしてしまいますよ」
「あっ、そうだったわ」
我に返った彩耶香は高杯を持ったまま緋眼へと振り向く。
「緋眼、頼光さんが蘇を貰ってきてくれたから持ってきたの。これ、好きよね?食べれそう?」
彩耶香はさっきとは打って変わって笑みを浮かべると、横になっている緋眼の傍に腰を下ろす。
「彩耶香ちゃん…。ありがとうございます。嬉しいです」
蘇は以前、彩耶香の誕生日会を含めた宴で食べたものだ。
とても美味しくて、また食べたいと思っていた食べ物でもある。
彩耶香の気遣いに嬉しくなって起き上がろうと体を動かす。
「ストップ」
「?」
「起き上がるの痛いでしょ?私が食べさせてあげるから」
彩耶香はそう言いながらアマヅラの蜜をかけた蘇を匙で掬い、緋眼の口許に運ぶ。
緋眼は恥ずかしく思いながらもそれを口に含んだ。
「美味しいです」
「良かった!まだまだあるからね!沢山食べて早く元気になるのよ?」
「はい。彩耶香ちゃん、本当にありがとうございます」
まるで母や姉の様な彩耶香の温かさに、緋眼は目頭が熱くなる。
緋眼には弟がいるし、今は離れているとは言え弟の事は自分では凄く可愛がっているつもりだ。
それでも兄や姉が欲しいと思わなかった事もない。
姉がいたらこんな風なのかなと、気遣ってくれたり世話を焼いてくれたりする彩耶香を見て思う。
「お礼なんていいのよ。私なんて、これくらいしか出来ないし…」
「彩耶香ちゃん…」
不意に彩耶香が俯く。
早く帰りたい早く帰りたいと毎日口にしてはいるが、あまり表には出さないものの、今ではこの世界に打ち解けつつある彩耶香も自分に何か出来る事はないか探している。
そして、彩耶香は緋眼の様に術を使ったり出来ない事を誰よりも気にしている。
晴明や頼光達に姫君と持て囃されていても、何の力もないと居心地の悪さを感じている。
それが分かったから、緋眼は彼女に何と声を掛けるべきか迷った。
緋眼としては自分と同じ境遇で、姉の様にこうして気に掛けて世話を焼いてくれる彼女が居てくれるだけでとても心強いのだ。
でも、そんな言葉を掛けて良いのか。
そんな言葉で良いのか。
「弥彦はズルいわよね」
「え?」
緋眼が口を噤んでいると、急に弥彦に話を飛ばされる。
「私だって、妹みたいに緋眼を看病して甘やかしたいのに、弥彦が独占しちゃうんだもの」
「僕は、そんなつもりは…」
「怪我の手当ては上手く出来ないけど…、他の看病は私がやりたい。良いわよね?」
「ですが、姫にその様な事を」
「ねえ、緋眼。ダメ?」
彩耶香は緋眼を覗き込む様に見る。
「彩耶香ちゃんがご迷惑でなければ、私も嬉しいです」
「ほんと?じゃあ決まりね!」
彩耶香は嬉しそうに手を合わせる。
そんな彼女の様子に、緋眼もどこか嬉しくなる。
「今日の夕御飯、何がいい?ステーキとか用意出来るかしら?」
「すてえき、ですか?」
「鉄板でお肉を焼くの」
「鴨肉でしたらご用意出来るかと思いますが」
「ステーキって言ったら牛肉よ、牛肉!牛!牛!」
「姫、牛の肉は食べる事が殆ど無いので直ぐにはご用意出来ないかと」
「あ、あの、彩耶香ちゃん。私、普通のご飯で良いですよ」
進んでいく話に緋眼は恐る恐る口を挟む。
「緋眼、遠慮しなくていいのよ」
「あの、出来れば口当たりの良いものの方がありがたいです…」
「あ、それもそうよね。なら、何がいいかしら?」
彩耶香は口許に手を当てて考えを巡らす。
その様子が今まで見た事がない程に楽しげで、緋眼も自然と笑みがこぼれる。
彩耶香も緋眼が董禾の役に立ちたいと思う様に、誰かの役に立ちたいのだ。
その気持ちが分かるからこそ、彼女の意思も尊重したい。
それで彩耶香が笑顔になってくれるのならと、緋眼は彼女の言葉に甘える事にした。
それから数日、彩耶香と弥彦に看病をしてもらいながら過ごし、傷も次第に癒えてきた。
屋敷内の頼光達だけでなく、晴明も時折見舞いに来てくれるのだが、董禾だけはあの日以来姿を見せなかった。
董禾は晴明と同じく腕利きの陰陽師で、仕事も絶えず忙しい身だ。
それは、付き人をしていた緋眼だからこそ身をもって知っている。
だから、緋眼になど会う暇がないのはよく分かっているつもりだ。
よく分かっている筈なのだけれど、その事に、董禾に会えない事に気持ちが晴れない日が続いた。
董禾に会いたいーーー。
時間が経つにつれ、日が経つにつれ、その思いは募るばかりだった。
「失礼致します」
あの日、董禾と絡めた小指を見てボーッとしていると、声を掛けられてから御簾が上がる。
緋眼は慣れた動作で入ってきた弥彦を見遣った。
「弥彦様」
「お体の具合はいかがでしょうか?」
「はい、もう大分痛みもなくなりました」
「それは良かったです。…もし動いても問題ないようでしたら、久し振りに外へ行きませんか?」
「え?」
突然掛けられた言葉に緋眼は目を丸くする。
「そろそろ少しずつでもお体を動かしても問題ない頃合いかと。それに、屋敷に籠りっぱなしでは気も滅入ってしまうでしょう」
「弥彦様…」
「勿論、無理をさせるつもりはありませんし、気乗りしないようでしたらお断りください」
「ありがとうございます。外に行きたいです」
緋眼はうっすらと笑みを浮かべて答える。
「では、支度を致しましょう」
「なら、私も一緒に行くわ!」
「彩耶香ちゃん」
廊下で聞いていたのか、彩耶香が部屋に入るなり告げる。
「姫」
「弥彦、抜け駆けは許さないわよ。緋眼を連れ歩くのなら私も一緒に行くわ。良いわね?」
「では、姫の支度もご用意致しますね」
「ええ、お願いするわね」
弥彦は一礼してから部屋を後にした。
「迷惑…だったかしら?」
弥彦がいなくなった後、彩耶香はポツリとこぼす。
「ううん、嬉しいです。彩耶香ちゃんと一緒に外に行く事、あまりないから楽しみです」
「良かったわ。私も殆ど屋敷に籠りっぱなしだし、たまには外に出ないとね」
二人で目を合わせると、どちらともなく笑い合った。
弥彦が手際良く支度を済ませてくれ、緋眼も着替え終わると、彩耶香は
三人とは言っても、いつもの如くさくもちとロト&リネットも付いて来ている。
さくもちは三つ目の妖なので衣被の様なものを被らせ、目を一つ隠す事で犬を装い人々の混乱を避けるようにした。
「緋眼、傷痛くない?」
「はい、大丈夫です」
歩き始めて早々、彩耶香は心配そうな声を緋眼に向ける。
「でも、辛くなったらちゃんと言うのよ?」
「ありがとうございます」
「緋眼は直ぐに無理をするんだから。私が傍にいないとダメよね」
「ダメヨネ、ダメヨネ」
彩耶香の言葉にロトが復唱する。
その様子に皆で声を漏らして笑った。
「僕は兄弟や家族を知りませんが、姫と緋眼殿は本当の姉妹の様に見えます」
「ありがと。そう言えば、弥彦って孤児…だったのよね」
弥彦の言葉に、彩耶香と緋眼は神妙な面持ちを浮かべる。
「どうか、その様なお顔をなさらないでください。僕は孤児であった事を気にしていませんし、篷蝉様に拾っていただいて本当に感謝しています。こうしてお二人の姫君に出逢えた事は、僕にとっては信じられないくらい
「弥彦様」
「私もね、最初は化け物に襲われて凄く怖かったし、訳が分からなかったし、何で私がこんな目にって思ったわ。これが夢なら良いのにって何度も思ったもの」
「……」
「でもね、今は少しだけ、こう言うのも旅行みたいで良いかなって思えるようになったの。緋眼みたいな可愛い妹も出来たし、弥彦や皆にもこの世界に来なければ会う事もなかったのよね。それを考えたら、普通じゃ体験出来ない特権を貰った様なものだと思えば、乗り切れるかなって」
歩きながら話していると、口を覆いたくなる様な異臭が強くなり皆そちらへ目を向ける。
「……」
「あ…」
其処にあったのは野晒しの死体だった。
平安時代と同じく、この世界でも位の低い人間等がこうして道端で死んでいるのは珍しい事ではなかった。
それも、誰も供養も埋葬もせずに放置しているのだ。
その事が都の異臭や流行病の原因となっているので、緋眼と彩耶香は晴明や頼光に話した事があるがそう改善されるものではなかった。
彩耶香が外に出たがらないのも、これが一因となっている。
「姫達の助言により頼光殿達が働きかけてはいるようですが、そう直ぐには改善されないようです。さあ、此処は空気も悪いですから彼方へ参りましょう」
弥彦が気を遣って死体のない方へと行くように促す。
「ま…まあ、ああ言うのはやっぱり慣れないけど、緋眼といるから平気よ」
「彩耶香ちゃん、無理しないでください」
衣被で顔が見えにくくなってはいるものの、明らかに彩耶香の顔色が悪くなっているのが分かった。
彩耶香は緋眼が外に出るからと、本来行きたくない外出に付き合ってくれているのだ。
そんな彼女の優しさが嬉しかったが、これ以上無理をさせる訳にはいかない。
緋眼が屋敷に戻ろうと口を開きかけた時だ。
「うわあぁぁぁんっ」
「!」
突如、少女の泣き声が聞こえてきた。
「何かしら?」
「アッチ、アッチ」
ロトが指し示した方には、建物の間の僅かな隙間で小さな女の子が野良犬に襲われそうになっているのが見えた。
「っ!」
「弥彦!」
緋眼は思わず飛び出し、彩耶香も弥彦に声を掛けた。
少女に飛び掛かった野良犬だったが、素早く駆け付けた弥彦が鞘を抜き、野良犬に峰打ちを決める。
緋眼はその隙に少女を守る様に抱き締める。
怯んだ野良犬は弥彦に一睨みされると、キャンキャン鳴いて逃げていった。
「大丈夫!?」
野良犬が離れてから彩耶香と、彩耶香を守る為に残っていたさくもちとリネットが駆け寄ってきた。
「もう大丈夫だよ。怪我はない?」
緋眼は震えて泣いている少女に声を掛けながら、怪我がないかを確認する。
「その子は…」
少女の姿を見た弥彦からは、驚き混じりの声が漏れた。
「なあに?知り合い?」
「いえ…、その子供は鬼の子供のようです」
「え?」
弥彦の言葉に、緋眼と彩耶香は改めて少女の姿を見る。
すると容姿こそ普通の少女なのだが、肩より上に揃えられた綺麗な銀髪が目を引く頭部には、申し訳程度の可愛らしい角が二本生えていた。
「これが鬼?普通の子供と全然変わらないみたいだけど」
「異形の鬼は確かにいますが、見た目が人と変わらない鬼もいます。それに、力のある鬼は姿を変えられますから、角を隠し人と全く見分けがつかぬ姿で人に紛れている事もあります」
「愛宕姫モ、茨木童子モ、人ニ近イ姿シテタ」
「そうなのね…」
「ひっく…」
少女は緋眼の腕の中でしゃくり上げながらまだ泣いている。
「でも、鬼の子供がどうして此処に?まさか、親も近くにいるんじゃ…」
彩耶香はハッとして辺りを見回す。
「近くにそれらしき妖気は感じません。妖気を隠せる程の技量を持っているのであれば、その限りではありませんが」
弥彦も抜いた鞘を差し直しながら辺りに気を配る。
「迷子って事かしら?」
「ハグレ鬼ッ子カモシレナイ」
「取り敢えず、屋敷に連れ帰りましょうか。対応は皆様に相談しましょう」
「はい」
緋眼は頷いてから、少女を抱き上げようとした。
「緋眼殿、その子は僕が連れて行きますから」
それに気付いた弥彦が少女に手を伸ばす。
しかし、少女は緋眼の着物をギュッと握ったまま離れようとしなかった。
「困ったわね。緋眼はまだ傷が治ってないから無理させられないのに」
「二人デ リネット ニ乗レバ、緋眼ニ負担カカラナイ」
そこへリネットが緋眼に近付いて提案する。
「そう言えば、リネットって乗れるのよね」
「確かにそれでしたら緋眼殿に負担はかかりませんね。失礼致します」
「へっ?」
弥彦は一言告げてから緋眼を少女ごと抱き上げてリネットに乗せる。
あまりに突然だったので、緋眼は言葉を発する間もなくリネットの上だった。
「ロトもリネットも便利よねー。これがあれば殆ど困る事ないんじゃない?」
「あはは。私も凄く助けられてます」
「ロト ト リネット、緋眼ト彩耶香チャン、皆ノ為ナラ何デモスル」
「頼もしいわね。頼りにしてるわよ」
「頼ッテ、頼ッテ」
そんな雑談をしながら頼光の屋敷に戻る。
玄関を上がると、貞光と季武に出会した。
「お帰りー。もっとゆっくりしてるのかと思ったけど早かったね」
「急遽、相談すべき事が出来たものですから」
「相談?」
「その娘は?」
リネットに乗ったままの緋眼の膝に座る少女に気付いた貞光が問い掛ける。
「それがこの子…」
「こんなとこに皆集まって何してんだ?」
少女について彩耶香が説明しようとした所に、公時と綱も歩いてくる。
「綱くん、公時くん」
「緋眼、怪我は大丈夫なのか?」
「あ、はい。もう痛みも」
「っ!やだっ!やだやだやだやだっ!」
「!?」
綱が緋眼の方へ一歩踏み出すと、突然緋眼の腕の中で少女が暴れだした。
「な、なに?どうしたの?」
「分かりまっ…くっ」
「緋眼殿!」
平常時での痛みはないとは言え、暴れる少女を支えきれずに緋眼は苦悶の声を漏らす。
それを慌てて弥彦が支えに入った。
「一体どうしたのだ?」
騒ぎを聞き付け、頼光もやって来た。
「んー、なんかさ、綱くん見て怯えてない?」
「その可能性も捨てきれませんね」
季武と貞光が子声で耳打ちし合う。
二人の言う通り、少女は綱を見た途端暴れだした様に見えた。
他の面々もいるとは言え、今も綱がいる反対方向へ逃げようともがいている。
「大丈夫…大丈夫だよ」
「男が大勢集まったからかしら?はい、皆一旦解散して」
彩耶香は緋眼の前に立ち、季武達にこの場から離れるよう手振りで合図する。
季武達は困惑しながらもそれに従った。
彼等の姿が見えなくなってからも暫く少女の背中を摩っていると、少しずつ少女も落ち着いてきたようだ。
「落ち着いてきたようですね」
「はい」
「皆体も大きいし、綱さん達って愛想が良い訳でもないから怖かったのかしら?私達は平気でも、子供にとっては沢山の大きな大人に囲まれるのって怖いかもしれないし」
「では、一先ず頼光殿に事情を話してみましょう」
「そうですね」
緋眼達は先ず頼光に鬼の子供を保護した事を伝えた。
この鬼の子供をどうするかは、晴明を呼んでから検討する事になった。
晴明を待つ間、広間で少女にお茶と菓子を食べさせる。
「美味しい?」
「ん」
「ちゃんと食べられるのね、偉いわ。ねえ、貴女、名前は何て言うの?」
「あなたなまえ?」
焼き菓子を頬張っていた少女は、彩耶香からの問い掛けにきょとんとする。
「呼バレ方、呼バレ方」
「?」
「私は彩耶香よ。さ、や、か」
「さやか?」
「そ。それで、貴女を抱いているのが緋眼よ」
「ひがん?」
「はい、緋眼です」
「それから、貴女を助けた頼りになる人が弥彦」
「姫、その紹介はちょっと…」
彩耶香に紹介された弥彦は、僅かに恥ずかしそうに告げる。
「何か問題ある?」
「その…」
「こっちがさくもち、ロト、リネットよ」
彩耶香は弥彦の様子を気にする事なく紹介を続ける。
それを聞いていた少女は、噛み締める様に復唱する。
「貴女の名前は?」
「しっぱいさく?」
「え?」
少女から返ってきた言葉に、彩耶香達は耳を疑う。
「つかえない?しょぶん?」
「そう、貴女に言ったのですか?」
「ん、いってた。わたしのなまえ?」
「そ、それは違うわ。誰に言われたの?」
「わからない。なにかな?」
少女は言われた意味も理解出来ていないのか、無垢な表情で辿々しく述べる。
「……」
「ふむ。詳しい事情は分かりませんが、その鬼の子の親、或いはそれに近しい者が“失敗作”として棄てたと考えるのが妥当でしょうね」
「晴明様!」
割り込んだ声にそちらへ目を向けると、晴明と頼光、そして董禾が広間の前で立っていた。
「遅くなりました。緋眼、お体の具合はいかがですか?」
「わ、私は大丈夫です」
問い掛けながら広間に上がる晴明に、緋眼も頭を下げながら返す。
久し振りに見る董禾の姿に、ドギマギしているのが自分でも分かった。
「とは言え、まだ完治はしていないでしょう。無理はなさらないでくださいね」
「お気遣い感謝致します」
晴明は緋眼達に近付く。
そして膝を付くと、緋眼の膝に座る少女を見た。
少女は突然の来訪者に、緋眼にしがみつく様に寄り添う。
「大丈夫だよ。何も怖くないからね」
「……」
「ふむ。鬼の子である事は間違いないですね。この子は一人でいたのですか?」
「はい。野良犬に襲われそうになっているところを、弥彦様が助けてくださいました」
「他に妖はいましたか?」
「いえ…」
「妖気も探りましたが、感知出来るものはありませんでした。あの場には、この子鬼が一人でいたものと思われます」
「一人になる前、誰といたか覚えていますか?」
晴明は優しい声色で少女に訊ねる。
しかし、少女は問われている意味も分かっていない様な、曖昧な表情で首を傾げるだけだった。
「この子、親に棄てられちゃったのかしら…」
「先程の言葉が親なのかどうか現段階では判断出来ませんが、仮に鬼や妖だとすればわざわざ人里に棄てると言う行為は少々不可解ですね」
「ええ。確かに処分する面で考えれば都ならば調伏を目論み棄てに来る可能性はありますが、自身も追われる危険があります。この程度の妖ならば、山に置き去りにするだけでも行き倒れるか、獣や他の妖の餌食に出来るでしょう」
「ちょっと、董禾!なんて酷い事言うのよ!」
「私はあくまで効率を考えた行為を述べているだけです」
董禾の言葉に彩耶香は睨むが、彼はいつもの様に平然と返す。
「すてるってなあに?ひがんも、わたしをすてる?」
「っ!棄てない!そんな事しないよ…」
緋眼は居た堪れなくなり少女を強く抱き締める。
その時初めて少女は表情を和らげて緋眼に体を預けた。
その様子を彩耶香や頼光は複雑そうに見詰める。
「……。しかし、董禾の指摘は尤もだ。この都にこの様な子供の鬼が一人でいる事には些か疑問が残るな」
「何か目的があって都に棄てられたのか。もしくは、棄てた相手が人間ですね」
「人間?どう言う事?」
「先程の“失敗作”と言う言葉。子供の出来が悪かったと言うよりは、何やら人為的なものを感じますね」
「えーっと…」
的を射ない彩耶香は首を傾げる。
「真相は分からぬが、何らかの目的を持って鬼の子供を育てていたか、鬼を作ったか、ですね」
「ええ。人間が鬼から子供を奪うには、相応の技量のある者でなければ難しい。偶然拾うにしても、鬼を育てるには相応の力がなければ殺される虞があります。“失敗作”と言う言葉で考えれば、何者かがこの子を人為的に作ったと考える方がしっくりきます」
「えっ!?鬼って作れるの?」
彩耶香は驚いた様子で問い掛ける。
「相応の知識と力が必要ですが、不可能ではありません。私達呪術師も妖を使役する事もあれば、式神として作り使役もします」
「そう…なのね…」
その話に彩耶香は何とも言い難い表情を浮かべる。
「今考えるべきは、この子鬼をどうすべきかですね」
「そうですね。詳細は分かりませんが、このままと言う訳にはいきませんからね」
「ならば、処分するのが妥当ではありませんか」
「っ!」
董禾の言葉に緋眼は驚いて彼を見遣る。
「董禾!さっきから何なのよ!」
「姫とて、先程から何を仰っているのです?子供とは言えこの者は鬼です。鬼と人は相容れる事はありません」
「鬼だからって何よ?この子、まだ子供なのよ?子供なんだから保護するのが普通でしょ?」
彩耶香のその言葉に董禾は溜め息を吐く。
「まさか姫は、もう妖の恐ろしさをお忘れになった訳ではありませんよね?」
「え?」
「姫が此方の世界に来られた際に山蜘蛛に襲われた事、その後も妖に襲われたと伺っております。その時の事をもうお忘れですか?」
董禾に指摘され妖に襲われた時の恐怖が蘇ったのだろう。
彩耶香は顔色を変えて僅かに体を震わせる。
「さや」
「緋眼にその怪我を負わせたのも紛れもなく鬼です」
「っ!董禾様、それは…」
「その子鬼とて、成長すればどの様に危険な存在になるかも分かりません。否、見た目は子供であろうと、今後どの様な危害を加えられるかも分からぬのです。ならば、早々に処分するのが都の為でもあります」
淡々と言い切った董禾の言葉に部屋中がしんと静まり返る。
「で、でも、この子はまだ何も知らないんです。だから、私達で色々と教えてあげたら」
「緋眼。鬼とぬりかべとを一緒に考えるな」
「っ…」
「そのぬりかべとて、お前に懐いたのは運が良かったに過ぎない。本来、妖とは人間如きが飼い馴らせる存在ではないんだ」
「……」
「妖を嘗めていると、次は殺されても文句は言えぬぞ」
緋眼は彼の言葉に反論する事も出来ず、少女を抱く腕に力を込めるものの項垂れるしかなかった。
「では、その子鬼は」
「お待ちください。この子鬼の事は、私に預けてはいただけませんか?」
頼光が話を取り纏めようとした時、今まで静観していた弥彦の声が割って入った。
「弥彦?」
「私ならば、ある程度の妖であれば術で抑える事も調伏する事も出来ます。もし、この子鬼が我々に危害を加える存在になるのならば、私が責任を持って調伏致します。姫にも緋眼殿にも決して手を出させない事を誓います。ですから、どうか私に預けてはいただけませんか」
弥彦は真剣な眼差しで、頼光と晴明を見遣る。
「何を言っている、弥彦。お前がそこまで」
「まあ、良いではありませんか」
「晴明様!?」
「弥彦殿がこう言っているのです。それに、弥彦殿の実力であれば何も問題はありませんよね」
「それは…」
晴明のいつもの満面の笑みに、今度は董禾が押し黙る。
「それでは、その子鬼の事は弥彦殿にお任せしても宜しいですか?」
「ありがとうございます。無論、責任を持ってお預かり致します」
「どうでしょう、頼光殿」
「うむ、弥彦であれば問題ないであろう。だが、もし子鬼が我等に危害を加えそうになった時は」
「私が責任を持って対処致します。皆様にご迷惑はお掛けしません」
「弥彦…」
「頼んだぞ」
頼光の言葉に弥彦は頭を下げた。
「董禾も良いですね」
「………」
董禾は納得していない表情ながらも、それ以上は何も言わなかった。
「弥彦様…、ありがとうございます」
「僕はお礼を言われる様な事は何もしていませんよ」
「そんな事ないわ。私達じゃ、その子の事…どうする事も出来なかったし…」
彩耶香はまだ震える手を押さえながら少女を見る。
「彩耶香ちゃん…」
「貴女も弥彦にお礼を言うのよ?」
「おれい?」
「そ、ありがとうってね」
少女は彩耶香の言葉を受けて弥彦を見詰める。
「やひ、ありがとうってね」
「え、ええ。どう致しまして」
彩耶香の言葉を鸚鵡返しに告げた少女に、弥彦も彩耶香達も思わず笑いがこぼれる。
その時、緋眼はふと董禾に視線を移す。
しかし、董禾は緋眼と目が合ったのも束の間、一度目を閉じると広間から出ていってしまった。
「董禾様…」
「ふふ、悪く思わないでくださいね。董禾も董禾なりに貴女方の事を思っての事。彼は陰陽師として人々の身の安全を考えなければなりません。そして、陰陽師として妖の恐ろしさを一番知っているのも彼です」
「はい…」
「でも…、だからって…あんな言い方…」
「不器用過ぎるのも困りものですね。でも、彼は方法を知らないだけなんですよ」
董禾の出ていった方を見ながら、晴明は呟く様に述べた。
「へえ、今度は鬼の女の子かぁ。緋眼ちゃんって、妖に懐かれやすい体質なのかな」
「そ、そんな事ないですよ」
その日の夕餉の席で、季武が切り出した。
「名前は…えっと、何て言ったっけ?」
「フウよ」
「フウな。何でフウ?」
ご飯を口一杯に頬張りながら公時が首を傾げる。
「雪月風花から取りました。雪月風花じゃ長すぎますし、風花ちゃんでも良いのですが、まだフウちゃんには長いみたいで」
「雪月風花、四季折々の美しい自然の風景ですか。良いのではないでしょうか」
「ああ。趣もあって良き名だな」
「ありがとうございます」
貞光の言葉に頼光も同意する。
そのフウはと言うと、ある人物から隠れる様にして緋眼の脇で身を縮めていた。
「………」
「フウー?どうしたの?」
「……」
「やっぱりさ、フウちゃんって綱くんの事」
その様子を見ていた季武は、苦笑しながら隣の貞光に耳打ちする。
「フウ、ぶと饅頭を食べますか?」
「ん」
緋眼の隣に座る弥彦にぶと饅頭を差し出されると、フウは弥彦に身を寄せてそれを口にする。
「可愛いですねえ。まるで子供が出来たみたいですねえ」
夕餉を一緒に取る事になった晴明が、その様子を微笑ましそうに見詰める。
「孫が出来たらこの様な光景を毎日見る事が出来るのでしょうねえ、董禾」
「私に振らないでください。孫の姿が見たければ、奥様とご子息殿と同居なされば良いではありませんか」
「董禾…」
いつものやり取りながら、晴明はわざと寂しそうな表情を董禾に向ける。
「晴明様のお子様はおいくつなのですか?」
以前、晴明は別居しているものの既婚者である事を聞いたが、そう言えばと緋眼は訊ねる。
「ああ、息子についてはまだ話した事はありませんでしたね。私の息子の一人は董禾と同い年なのです」
「董禾様と!」
「ですから、彩耶香姫や貞光殿とも同い年と言う事ですね。因みに、もう一人は弥彦殿と同い年です」
「そうだったのね。晴明さんに私と同じ歳の子供が…それも二人もいるなんて、ちょっとビックリだけど」
彩耶香も驚きを隠せない表情で晴明を見遣る。
「頼光殿達も、そろそろ婚姻を考えても良いお歳ですけれどね」
「ぶっ…」
「頼光様!」
急に話を振られた頼光は、口を付けていた汁物を吹き出した。
綱は慌てて手拭いを出す。
「道長殿からも信頼の厚い源氏の御曹司なのです。色々なところから恋文や話が来るのではないですか?」
「それは…まあ…」
歯切れの悪い頼光は、落ち着かない様子で視線を漂わせている。
「そう言えば、頼光さん達って好きな人とかいないの?」
「ごふっ…」
「頼光様!」
頼光は彩耶香の次ぐ話題に、今度は噎せ込んだ。
「姫はそう言う話が好きなのかな?」
「そりゃ、好きか嫌いかで言ったら好きよ。楽しいじゃない」
「女房達もよくそう言う話してんもんなー。女はよく分かんないぜ」
「公時さんはいないの?」
「俺は修行が一番だからな!」
「脳筋なだけだろう」
袖を捲って得意気に話す公時に綱が口を挟む。
「そー言う綱殿はいんのかよ!」
「い、いや…、いる訳ではないが…」
「人の事言えねーじゃん」
「俺は脳筋ではない」
「貞光さんは?」
公時と綱を放って、彩耶香は次に貞光に訊ねる。
「…私は、今は頼光様にお仕えするのが精一杯ですので」
「貞光くん、真面目だよね」
「皆つまんないわね」
「僕は美しい女性は好きだよ。姫みたいにね」
「あら、残念ね。私には愛しの寛くんがいるから」
「本当に残念だよ」
「董禾はどうなんだよ?」
いつの間にか彩耶香の話題に乗っていた公時が、黙々と食事を進める董禾に話を振る。
「あらあら、董禾なんて聞かなくても分かるわよ。どうせ、こう言うの興味ないって言うんでしょ。顔に書いてあるわ」
「………」
彩耶香の言葉にも何も反応せず董禾は箸を進める。
「おやおや。最近はそうでもないかもしれませんよ」
「え?」
「っ?なにを」
晴明の言葉に彩耶香のみならず、董禾も僅かながら驚きの色を浮かべる。
「以前はそうであったかもしれませんが、今の董禾は全く興味がないと言う訳ではないのではありませんか?」
「何を仰るのかと思えば…。姫の言葉に同意せざるを得ないのは不本意ですが、私は色恋沙汰などに全く興味はありません」
「おや」
「ちょっとムカつくけど私の言う通りでしょ。緋眼、いい?恋人にするなら弥彦みたいな人にしなさいね。彩耶香ちゃんの目に狂いはないわ」
「さっ…彩耶香ちゃん…」
「姫…」
話の矛先が向いた緋眼と弥彦は、二人同時に顔を赤らめて視線を漂わせた。
「やひー」
いつの間にか弥彦の膝の上に座っていたフウは、彼の袖を引っ張りご飯をねだる。
「あ、はい」
弥彦は慌ててフウの欲しがっている煮物の野菜に箸を付けた。
そんな中、緋眼は顔色一つ変えずに食事を食べ進める董禾をチラリと見る。
(そう…だよね。前にも興味がないって言ってたものね…)
以前、戻り橋で董禾が言っていた事を思い出す。
色恋沙汰などに現を抜かす気はない、と。
分かってはいる筈なのに、董禾のその言葉に何故だか胸が痛くなり、緋眼は視線を落とした。
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