第15話 貶められた鬼女(前編)

それからも、鎌成からの緋眼を馬鹿にした和歌のみの文を送り付けてくる行為は毎日続いた。

届く度に董禾に見てもらうが、呪詛や術がかけられたものは一切無く、本当にただの嫌がらせなのだろう。

それでも礼儀である以上、緋眼は無視せずに鎌成に歌を返さねばならなかった。


「ふん。毎日毎日真面目に返してくるなんて、本当に莫迦な女だよね」


緋眼から返された歌を見ながら、鎌成は可笑しそうに肩を揺らす。


「何を見ている?」

「ああ、道満。いやね、ただの暇潰しだよ」

「……」


道満は鎌成が文を懐にしまう様子を目で追うが、特に追及する事無くそれを見届ける。


「で?何か用があるんじゃないの?」

「嵐山の宝珠は手に入らなかったが次の手を打つ。手数を増やす為に、強力な式神を作る」

「ふーん。強力な式神ねえ。何を元にするのかな?」

「数ヶ月前、頼光の郎党が鬼女の腕を取ったと言う話を覚えているか?」

「ああ。源氏の宝刀でだっけ?鬼切に改名だなんて、そのまま過ぎて笑えないよね」


扇子で口許を隠している鎌成のその目は冷やかだ。


「その鬼女の腕を使い、強力な式神を作る」

「は?源氏の郎党如きにやられる様な雑魚を元にするの?作った式神も雑魚になるじゃんか」


鎌成は道満の言葉に不満そうに顔を歪める。


「腕を斬られたとは言え、討ち取られまではせぬ厄介な鬼女だ。酒呑童子一派には、今も尚誰一人として満足に手出しが出来ておらぬ。その鬼女を元に強化すれば、必ずや強力な式神となる」

「ふーん。ま、やってみる価値はあるかもね。でも、肝心の腕は?その辺に落ちてるの?」

「その後、直ぐに鬼女が取り戻しておる。だが、この間見掛けた際、腕が完全にはくっついてはおらなんだ」

「まさか、また腕を斬るつもり?」

「左様。鬼の肉体を斬るにはそれなりの力が必要だが、完全にくっついておらぬ腕など簡単に討ち取れる。策もあるのでな」

「へーえ。じゃあ、その策とやらに乗っかってみようか」


鎌成は扇子を広げ、不敵に歪めた口許を隠した。




その日、緋眼は晴明と董禾と共に頼光の屋敷に来ていた。

来ていると言っても、緋眼にとっては自宅に戻った様な感覚ではあるのだが。

晴明と董禾は広間で頼光と込み入った話をしているので、お茶とお茶請けを持って来ようと緋眼はさくもち達を連れて厨に向かう為に廊下を歩く。

すると、その先では綱が文を見て何やら難しい顔をしていた。


「渡辺様?」

「ん?ああ、緋眼か」

「どうかされたのですか?」


綱の様子から文の内容が恋文とも思えないし、何か大事な事の様な雰囲気を緋眼は感じる。


「いや…何でもない」


綱はそれ以上語らずに文を懐に仕舞い、緋眼が来た方向へ歩き出す。


「っ!」


綱が緋眼と擦れ違った時だ。

その瞬間、緋眼は言い様の無い嫌な感覚を覚える。


「ドウシタ、緋眼?」

「何だか…嫌な感じがして…」


緋眼は胸元をギュッと押さえる。

さくもちはそんな緋眼を心配そうに見上げる。


「ドウ嫌ナ感ジスル?」

「よく…分からない…」


胸騒ぎの元凶が分からずに緋眼は視線を落とす。


「取リ敢エズ、オ茶、用意、用意」

「うん…」


緋眼は収まらぬ胸騒ぎを振り払う様に、足早に厨に向かった。


お茶とお茶請けを用意すると広間に戻る。

すると、そこには広間に向かったと思っていた綱の姿はなかった。


「あの、渡辺様は?」

「綱か?綱ならば、先程用があると出掛けたが」

「そう…ですか」

「何か綱殿に用事でもあったのですか?」

「いえ、そう言う訳ではないのですが、少し気になりまして」

「何か様子でもおかしかっただろうか?」

「いえ、私の思い過ごしです」


緋眼はそう言って、お茶とお茶請けを皆に配ろうと手を伸ばす。


「何が気になった」

「え?」


流そうとした緋眼に董禾が問い掛けてくる。


「気になった事を話せ」

「えと…大した事じゃ」

「いいから、話せ」


董禾は睨みまではせずとも、緋眼に強い視線を向ける。


「おやおや。董禾、そんなに睨んでは緋眼も話しづらいですよ」

「貴方は黙っていてください。緋眼」


問い詰める様な董禾の様子に緋眼は恐る恐る口を開く。


「あの…文が…」

「文、とな?」

「渡辺様が文を見ていらして」

「恋文ですか?」

「黙っていてくださいと言っております」


董禾は晴明を睨み付ける。


「おやおや。董禾に怒られてしまいましたね」


晴明は言葉とは裏腹に飄々としている。


「その文からかはハッキリとは分からなかったのですが、何だか嫌な感じがして…」

「嫌な感じ、とはどの様なものなのだろうか?」

「申し訳ございません…。ハッキリとは…」


きちんと説明も出来ない事に、緋眼は視線を落とす。


「不確かではあるものの、その文に何かある、と感じているのですね」

「ふむ。その文を見て出掛けたとなれば、綱の行方も気になるな」

「探索の式神を出しましょうか」

「あまり無粋な事は気が引けますが、念の為に出しましょうか」

「は」


晴明の返答を聞くと、董禾は即座に型代を飛ばす。


「でも…私の気のせいだったら」

「何もなければそれで良いのですよ。貴女が気に病む事ではありません」


緋眼の勘違いで綱が普通に出掛けただけならば、何もない彼を尾行する事になる。

それどころか、もし誰にも知られたくない大切な用事や、相手と落ち合うのであれば、その秘密を暴いてしまう事になるのだ。

それを考えると、綱に申し訳がなくて緋眼は眉尻を下げた。


「それにしても、あれから刹鐃の目撃情報もなく、刹鐃が緋眼を狙いに来る事もない。嵐山の一件であやつの目的は達成され、都に来る必要はなくなったと言う事でしょうか」

「そうとも取れますね。ですが、今は私達も警戒していると思い、敢えて都に来ていないと言う可能性もありますからね。油断した頃に現れる可能性も捨てきれません」

「そうですね。いずれにせよ、警戒は怠らない方が良いでしょう。都を狙う者は刹鐃だけではありませんからね」

「ええ。その通りです」


そこで頼光達は一息吐く様に、一度お茶を口に含んだ。


「この世界を襲うと言う厄災についてはどうなっていますか?」

「それが、あれから占術では何も変化がなく…。変化がないだけなのか、ただ読み取れていないだけなのかも分かりません」

「そうですか…。だが、此方には姫が揃っています。何が起ころうとも大丈夫であると思いたいが…」


頼光と晴明の会話を聞き、緋眼は別の不安を覚える。

この世界に来た時にも話を聞いてはいるが、自分も彩耶香も普通の人間なのだ。

厄災がどう言ったものなのか彼等にも分からないらしいが、厄災と言うくらいだ。

以前彩耶香も言っていたが、そんなものが普通の人間でどうにか出来るとは思えない。

頼光や晴明達がかの姫に寄せる期待は、期待外れになってしまうのではないかと言う懸念がいつも過る。

それよりも、頼光や晴明達の力を合わせた方が、どんな厄災にも立ち向かえるのではないだろうか。

そう思うものの、緋眼には気安くそんな事を口にする勇気もない。


「っ!」


そんな緋眼の脳裏に、一つの光景が過る。

綱が森の中にいる。

その綱の視線の先には、長い銀色の綺麗な長髪を靡かせた女性が立っている。

しかし、その女性は普通の女性ではなかった。

頭部からはヒトには有り得ない、長い角が二本生えていたのだ。


「これは…」

「緋眼、どうした?」


頭を押さえた緋眼に気付いた董禾達は彼女を見遣る。


「渡辺様が…女の人と一緒にいます…」

「綱は女子おなごに会いに行ったと言う事か?」

「でも…女の人には角みたいなのがあります…」

「恐らくは鬼女でしょうね。そこが何処だか分かりますか?」


木々の生い茂る森の中である事は分かるものの、そこが何処であるのか分からない緋眼はただ首を振る。


「!どうやら、渡辺殿は上賀茂の森で鬼女と対峙している様です」


同時に追跡していた式神から情報を手に入れた董禾が、緋眼に代わり場所を告げる。


「直ぐに加勢に向かいますか?」

「季武達を向かわせる。董禾はそのまま綱の様子を見ていてはくれぬか?」

「は」


頼光は直ぐ様立ち上がり、廊下へ向かう。


「女の人だけじゃないです…」

「なに?」


先程から続く胸騒ぎ。

鬼女の姿を捉えたものの、その胸騒ぎの元が鬼女ではなくまた別のものからする。

上手く捉える事が出来ないものの、それを伝える為に緋眼は言葉を選ぶ。


「ハッキリとは分からないのですが、危険なのは女の人じゃないです…」

「どう言う事だ?」

「董禾、緋眼を連れて綱殿の元へ行ってくださいますか?」

「なっ!他に鬼が控えているかもしれません。こいつを連れて行くのは」

「董禾。もし他に危険が迫っているのであれば、被害が大きくなる虞があります。被害を出さない為、大きくしない為にも緋眼の力が必要です。彼女が感じているものを確かめる為にも、綱殿の元へ連れて行ってください。大丈夫です。緋眼はさくもちが守ってくださいますよね」


晴明は緋眼に寄り添うさくもちに微笑みかける。

さくもちは、それに応える様に尻尾を振った。


「董禾様、私は大丈夫です。行きます」

「……」

「さあ、早く」

「済まない。直ぐに季武達も向かわせる。馬を使ってくれ」


緋眼は立ち上がり、さくもち達と共に玄関に向かう。

董禾は晴明を一瞥してからその後を追った。




「渡辺。わざわざ果たし状を送り付けるとは、嘗めた真似をしてくれるな」

「何を言っている?送ってきたのはお前の方だろう」

「出鱈目をっ!たかが一度腕を斬ったくらいで調子に乗るなっ!」


鬼女は言い終えるより先に抜刀し、綱に斬りかかる。

綱も即座に抜刀してそれを受け止めた。


「腕を斬られた恨み、一日たりとも忘れた事はない。今度は私が貴様を八つ裂きにしてくれる!」


鬼女は切っ先を弾いて綱から距離を取ると、再度斬りかかる。

綱も遅れを取らずに鬼女に反応した。

暫く予断を許さない攻防が続く。


「全く、血の気の多い事だね」


綱と鬼女の斬り結ぶ様子を隠れて伺っていた鎌成は呆れた様にこぼす。


「腕が完全でない事すら悟らせぬこの動き。この素材を強化すれば、更に強力な鬼となろう」

「使えるものは適材適所に使わなくちゃね」

「やるぞ」


道満は印を結ぶと呪文を唱える。


「っ!?」


その瞬間、鬼女の左腕が爆発した様に吹き飛んだ。


「あああぁぁぁぁっ!!」

「!?」


腕が吹き飛んだ鬼女は、雄叫びの様な悲鳴を上げる。

何が起こったのか把握出来ない綱は、呆然とそんな彼女を見るだけだった。


「ぐ…あああぁぁぁぁっ!」

「……」

「おのれ…おのれぇっ!謀ったなあっ!わたなべええええぇぇぇっ!!」

「違う、俺は」

「うああああぁぁぁぁぁっ!」


鬼女は苦しそうに叫びながら、この場から飛び去った。


「渡辺様!」


その直ぐ後に、緋眼と董禾が馬で駆け付ける。

董禾の後ろに乗せてもらった緋眼は、彼が降りると同時に自分も馬から降りて綱の方へ向かう。


「董禾に…緋眼か」


綱は二人の姿を確認すると、力無く太刀を下ろす。


「お怪我は!?」

「いや、大丈夫だ」

「一体何があったのですか?鬼女がいた筈ですが」


董禾のその言葉に綱は口を閉ざす。


「皆、無事かい!?」


季武と貞光、公時も鎧を纏った姿で馬に乗り駆けて来た。


「渡辺殿は鬼女と戦われていたと聞いていますが」

「それは…」


馬から降りた貞光の疑問にも、綱は言葉を詰まらせるだけだ。


「董禾様」

「どうした?」

「あそこに、さっきまで人がいた感じがします」


緋眼は自分達のいる場所より少し離れた先にある大木の方を指差す。

もう人の姿は見られないものの、説明し難い感覚がそこに人がいた事を緋眼に訴えてくる。


(この術の気配…道満と鎌成か)


董禾は緋眼が指差す方を見詰めながら、僅かに残る術の気配に眉間を寄せる。


「他に人がいたと言う事かな?」

「まだ近くにいるのか?」

「もう近くにはいないみたいですが…」

「では、その者を探しますか?」

「いえ、深追いはしない方が良いでしょう。鬼女もおらず渡辺殿が無事ならば、引くべきではないでしょうか」

「そうだね。じゃあ、綱くん。戻ってから事の詳細を話してくれるね?」


綱は黙ったまま太刀を収め頷いた。


「緋眼、他に何か感じるか?」


董禾は緋眼にだけ聞こえる声音で訊ねてくる。


「いいえ…。でも、これで終わりではない気がします」

「鬼女か、此処にいた人間が仕掛けてくると言う事か?」

「そこまでは分からないのですけれど…」


緋眼は一向に収まる気配の無い胸騒ぎに胸元をギュッと押さえる。


「董禾くんと緋眼ちゃんも戻ろうか?」


立ち止まったままだった二人に季武が声を掛ける。

二人は会話を止めて季武達の後に続いた。



屋敷に戻ると、季武達の着替えを待ってから皆が広間に集う。

その場には、彩耶香と弥彦も呼ばれた。


「綱、一体何があったのだ?」


頼光の問い掛けに綱は少しの間口を閉じていたが、やがて一息吐いてから口を開く。


「少し前にこの文が届きました」


綱は懐から先程見ていた文を取り出し、頼光に差し出す。


「これは…果たし状か。愛宕姫あたごひめからとな?」

「はい」

(愛宕姫…)


緋眼は初めて聞くその名を心の中で復唱する。


「前に腕を斬り落とされた恨みを晴らそうってか?」

「えっ?腕を斬り落とされたの?」


彩耶香が驚きの声を上げる。


「ああ。そなたらがこの世界に訪れる少し前、綱は戻り橋で愛宕姫と遭遇してな。その時、彼女の腕を斬り落とし撃退している」

「しかし…晴明殿の言い付けを破り、腕を取り返されてしまいましたが…」

「気に病む必要はありませんよ。あちらは貴方の心に付け込んだのですから」


膝の上でグッと拳を握り締め目を伏せる綱に、穏やかな声色で晴明は声を掛ける。


「一条戻リ橋ノ鬼女ノ話ダナ」

「うん」

「緋眼ちゃんは知ってるの?」

「私達の世界の伝承の一つです」

「緋眼はホント、その手の話好きよね」

「姫さんは知らなかったのか?」

「いくら地元でも、私は妖怪とか興味ないもの」


言い切る彩耶香に公時達は笑い声を漏らす。


「して、愛宕姫はどうしたのだ?」

「斬り合いの途中、急に愛宕姫の腕が吹き飛び…逃げて行きました」

「吹きとっ!?」


彩耶香は信じ難い話の内容に口許を押さえる。


「なんだよ、それ?」

「それが…よく分からぬのです」

「恐らくは道満と鎌成の仕業でしょう」


そこへ董禾が静かに声を挟む。


「あの場に僅かでしたが、奴等の術の気配がありました」

「二人は一体何が目的だったのかな?」

「そこまでは解りませんが、状況から推察するに愛宕姫が狙いだったのでは?」

「そう言えば、あいつは俺から果たし状を送られたと言っておりました。無論、そんなものは送っておりません」

「綱の名を騙り、愛宕姫を呼び付けたと言う訳か」


頼光は顎に手を添え眉間を寄せる。


「ならば、その果たし状も愛宕姫からではなく、道満達の仕業でしょうね。緋眼が文から感じていたのは、それが綱殿と愛宕姫を陥れる罠だったからではありませんか?」

「……」


緋眼が感じていたものの正体は分かった。

しかし、それをハッキリと感知出来ずに愛宕姫を傷付ける結果になってしまった事に、緋眼は申し訳がなくて浮かない気持ちになる。


「逃げた愛宕姫も気になるが…道満達の動きも気になるな」

「ええ。嵐山の件もありますしね。それに、愛宕姫の吹き飛んだと言う腕はどうしましたか?」

「私が駆け付けた時には、あの場には何もありませんでした」

「愛宕姫が持って逃げたか」

「ふむ。再び腕を再生させますかね」

「どう言う事?」


晴明の言葉に彩耶香は首を傾げる。


「力を持った鬼は人間よりも強靭な肉体を持ち、普通の武器では傷付ける事も敵いません。ですが、強力な術や霊刀と言った特別な武器を用いれば撃退する事が出来ます。そして強靭な肉体を持つ鬼は、傷を負っても人間よりも遥かに早い治癒力で傷を治し、肉体の一部を欠損してもその部分が無事であるならば、元の状態に再生させる事も可能なのです」

「うえぇ…」

「綱が愛宕姫と対峙した時も、我が源氏の霊刀・髭切を帯刀していた為その力によって愛宕姫の腕を斬り落とす事が出来たのだ」


鬼の話を聞いた彩耶香は気分が悪くなった様で口を押さえて俯く。

緋眼が心配して部屋に行こうと声を掛けるも、彩耶香は大丈夫とその場に留まった。


「道満達の狙いが何なのか気になりますね。愛宕姫としても、再度腕を傷付けられたとなれば、このままでは済まないでしょうしね」

「愛宕姫は丹波の鬼の一味。なれば、酒呑童子達が都を攻め入る口実にもされ兼ねますね」

「申し訳ございません。俺の迂闊な行いが招いた結果です」


綱は面目無さそうに深く頭を下げる。


「謝る必要はない。まさか、裏で道満達の思惑があるとは誰も思わぬだろう」

「愛宕姫の今後の同行に注意せねばなりませんね」

「ええ。更に警戒を強めましょう」


頼光と晴明は真剣な面持ちで頷き合う。

その後、少し都の警備について話し合った後、皆で一緒に夕餉を取る。

そして夕餉が済むと、晴明と董禾とは別れる事となった。


「緋眼」


別れ際、董禾が緋眼に声を掛けてきた。


「何か感じた事、気になる事があれば、例えどんなに些細な事でも必ず私に話せ。いいな」

「はい」

「私が離れている時は式神を飛ばせ。出来るな?」

「かしこまりました」

「絶対に一人では行動するな。私が間に合わない時は弥彦を頼れ。あいつならば術が使える。約束しろ」

「はい、お約束致します」


緋眼の返答を聞くと、彼は踵を返して先に行った晴明の後を追う。


「董禾様、お休みなさいませ」

「…ああ、お休み」


緋眼が董禾の背中に言葉を投げ掛けると、彼は一度振り向いて挨拶を返してから再度歩を進めた。

緋眼は董禾の背中を見送りながら、そっと胸に手を添える。

董禾の本心は分からない。

しかし、何だかんだ言いながら彼は緋眼の事を、それが心配からなのかは分からないものの気に掛けてくれている。

その事が緋眼にとっては嬉しくて仕方がなかった。

だからこそ、足手纏いにはなりたくないし、迷惑も掛けたくない。

一日でも早く立派な術師になって、彼の助けになりたい。

それが、今の緋眼の原動力とも言えた。

董禾の姿が見えなくなっても少しの間その場に佇んでいたが、足元で擦り寄るさくもちに我に返る。

そんなさくもちの頭を撫でてから、緋眼は明日に備える為に自分の部屋へ歩いて行った。



「弟子同士の内緒話ですか?」


追い付いた董禾に、晴明はクスクス笑いながら問い掛ける。


「ただ釘を刺しただけです。こうでもしなければ何かあった時、あいつは勝手に行動するでしょう」


晴明の様子に気にする素振りも見せず、董禾はいつもの素っ気ない態度で返す。


「昼間の時もそうでしたが、貴方は随分と緋眼の事を信頼する様になりましたね」

「は?」

「貴方が緋眼を問い詰めなければ、綱殿がどうなっていたか分かりませんでした」

「今まであいつが気になった事が、勘違いや気のせいであった事がなかった。ただそれだけの事です」


言いながら董禾は歩を進めて晴明を追い越す。


「それでも貴方だからこそ、彼女も話したのでしょう。二人とも良い関係が築けている様で、師としては嬉しい限りです」


その言葉に董禾は何も返さずに歩き続ける。

晴明は微笑みながら、彼の後ろを歩いて帰路に就いた。

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