第13話 月蝕む夜の竹林

蔵から出てきた董禾と共に緋眼は屋敷の門を潜る。

すると屋敷の外では晴明の式神が待っていた。

どうやら式神は屋敷には入らずに、ずっと外で待っていた様だ。

そのまま式神も連れて晴明の屋敷へと戻る。

道中董禾と会話はなく、緋眼は気まずい思いで落ち着く事はなかった。


「お呼びですか、晴明様」


屋敷に上がると董禾は早々に晴明の元へ向かう。

緋眼もその後に付いていった。


「ああ、董禾。戻りましたか」

「何故、こいつを一人で行かせたのです?」


董禾は明らかに怒りを含めて晴明に問い掛ける。


「一人ではありませんよ。ロト達もいますし、私の式神も同行させたでしょう」

「貴方の式神でも事足りた筈。こいつを連れ出す必要性は感じませんが」

「董禾。あまり過保護になって緋眼を閉じ込めていたら、彼女も気詰まりですよ」

「過保護になどなっておりません」

「そう言うのでしたら、たまには彼女の羽も伸ばしてあげないといけませんよ」

「話をすり替えないでください。今はそんな事を言っている場合ではないのは、貴方も承知しているでしょう。そんな時に奴が来たらどうするおつもりですか?」

「私の式神では彼女を守れないと?」

「……」

「私とて、弟子を危険に曝すつもりは更々ありませんよ。式神は護衛のみならず、緋眼を危険な事に巻き込まない様に付き添わせたのです」

「それでも…」


董禾は腑に落ちないと言いた気に拳を震わせる。


「外の世界から遮断する事だけが守る事ではありません。貴方も、もう少し頭を柔軟に使いなさい」

「………」


その言葉にも董禾は納得していないと言う目で晴明を見遣る。


「それで、董禾。貴方を呼び付けたのは、その刹鐃の事です」

「っ!」

「昨晩、嵐山に赴いていた下賀茂の巫女が何者かに襲われました」

「えっ!」

「それが奴だと?」

「ええ。身体的特徴が、ロトに見せていただいた刹鐃の特徴に似ています」

「巫女さんは…?」

「怪我はした様ですが、幸いな事に命までは取らずに刹鐃は引いた様ですね」

「目的は?」

「それは分からないそうです。金品を奪う訳でも、襲った巫女の命を奪う訳でも拐う訳でもない。何を目的としているのか、今の段階では判断出来ません」

「……」

「その事もあり、帝より今宵嵐山周辺を調べる勅命が下されました。緋眼にも同行していただきます」

「なっ!緋眼とて奴に狙われ……囮ですか」


同行の理由を悟った董禾は、更に晴明を睨み付ける。


「私とて不本意ですが、そう言う事です。ですが、今回は私も頼光殿も同行します。仮に襲撃犯が刹鐃で間違いなければ、緋眼を狙って現れるかもしれません。そこを私達で捕らえます。良いですね?」


晴明は董禾に含み聞かせる様に告げる。

董禾はそれに対し納得はしていないながらも、それ以上は反論しなかった。


「申三刻には出発しますので、準備をしていてくださいね。それにしても、緋眼。その首の巻き物は可愛らしいですねえ」

「っ!」

「へっ?あ、ありがとうございます。少し首を冷やしてしまったみたいで…」


緋眼は董禾の実家で彼を待つ間、明らかに首を絞められた跡に見える痣を隠す為に、リネットのキャリーバッグに常に積めている荷物からストールを取り出し巻いていた。

その事を晴明に指摘されるも、帰宅の道中で予め考えていた言い訳を口にする。


「そうですか。まだまだ暑い日が続くとは言え、女性は体を冷やしてはならないと聞きます。慣れない環境もあるでしょうし、気を付けてくださいね」

「お気遣い感謝いたします。気を付けます」


今、この世界では文月だ。

暦で言えば七月なのだが、緋眼達の世界の平安時代と同じく太陰暦は太陽暦とズレがある。

太陽暦で言えば八月に相当するので真夏の時期だ。

更に都は盆地でもある為、かなり蒸し暑い。

屋敷は夏の暑さに対応した作りになってはいるものの、クーラーのある生活に慣れてしまった緋眼や彩耶香にとってクーラー無しで真夏日を乗り切るのは厳しいものがあった。

そんな中でも、冷たい井戸水や川で涼んだり、頼光が氷室と言われる自然の貯蔵庫で保管されている冬場に出来た氷を取り寄せてくれ、けつと言う現代で言うところのかき氷を振る舞ってくれたりと、クーラーが無いなりの過ごし方で暑さを凌いでいる日々だ。

彩耶香は毎日毎日暑いとぼやいているが、緋眼はそんな毎日に楽しく感じている自分に驚きもしている。


「董禾、どうかしましたか?」


ストールに話が移った途端、浮かない表情になった董禾に気付いた晴明が彼に声を掛ける。


「いえ……。では私は支度を整えてきます」


若干歯切れの悪さを残しながら、董禾は自室に戻っていった。


「……」

「首の冷えも駄目なのですかねえ」

「え?」

「ああ、緋眼。今宵は何があろうとも、師である私が命を懸けて貴女を守りますから、どうか安心してくださいね」

「晴明様…。ありがとうございます。とても心強いです」


晴明の言葉に緋眼は笑顔で応えてから、自分も支度をする為にその場を後にする。



予定通り申三刻に頼光達と落ち合い、馬を走らせて嵐山に向かう。

頼光は自分の他に、貞光と公時を彩耶香の護衛の為に屋敷に残し、綱と季武を連れていた。

更に念の為にと弥彦も緋眼の護衛に付き、馬に慣れていない緋眼は彼の馬に乗せてもらった。


「昨晩はこの辺りで巫女が襲われたとの事ですね」

「ええ、まだ瘴気が僅かながら残っていますね。董禾、どうですか?」

「間違いありません。これは、奴の瘴気です」


嵐山に着くなり、残っていた瘴気について刹鐃のものか董禾が鑑定する。


「では、刹鐃で間違いありませんね」

「あやつの目的が分からぬ以上、手を打ち難いが…。先ずは、近辺に他に手掛かりがないか探しましょうか」

「そうですね。分散し過ぎるのは危険ですので、二手に分かれましょうか。また今宵は月蝕ですので、普段以上に気を付けてください」


晴明は上空に浮かぶ月を見遣る。

まだ肉眼では月の欠けは確認出来なかったが、ロトによると既に月蝕は始まっており、陰りが出来ている様だ。

頼光には季武と綱、晴明には董禾と弥彦に緋眼と言う組み合わせで分かれる事になる。


「緋眼殿、どうか僕からは離れないでください」

「はい、分かりました」


弥彦から掛けられた言葉に緋眼は頷く。

一行は晴明を筆頭に竹林の中を歩いていく。

光源として提灯を持ち歩いているものの、竹林の中では頼みの月明かりや星の輝きも満足に届かずに、少し離れた先も暗く見えにくい。

更には今宵は月蝕との事で、次第に月に陰りが目立つ様になってきた。


「ふむ。この辺りは先程の場所より瘴気がありませんね」

「奴は此方には来ていないのでは?」

「そうかもしれませんね。念の為、もう少し先まで様子を見てから戻りましょうか」


ーーー痛いーーー


「っ!」


晴明達の後に続いて歩いていると、突然声が聞こえる。

その声の主を探す為に緋眼は辺りを見回した。


「緋眼殿、どうかしましたか?」

「あ、えと、今声が聞こえませんでしたか?」

「声、ですか?」


緋眼の言葉に弥彦や晴明も不思議そうな表情を浮かべる。


「ロト ノ聴音機ニハ反応無シ」

「えっ…」


ロト達は聞いているかと思って目を向けるも、ロト達も聞いていないと言う言葉が返ってくる。

緋眼以外に誰一人聞いていない事に嫌な考えが浮かぶも、空耳かと思う様にする。

緋眼には霊感はない。

何より、幽霊やその類いは苦手なのだ。


「気のせいかも…しれません。済みません…」


緋眼は気を取り直して一歩歩を進める。


ーーー痛い、痛いよーーー


「っ!ロ、ロト…」

「何モ反応無シ」


再度聞こえた事にロトに問い掛けるが、ロトも同じく何も聞こえていないと返す。

緋眼はロトを胸に抱き締めた。


「こんな時に幻聴なんて…」

「それは本当に幻聴か?」


緋眼の様子を見た董禾が問い掛ける。


「だって…」


自分以外に声は聞こえていない。

それならば、他に思い当たる節はないのだ。


「どんな声が聞こえるのですか?」

「痛い、と…」

「痛い、ですか」


弥彦の質問に返した緋眼の言葉に、晴明も考える仕草をする。


「怯えずに心を落ち着かせろ。座禅の要領で心も頭も空にするんだ。私達が付いている。何も怖いものはない」


董禾は諭す様な声色で緋眼に告げる。

緋眼はそんな彼の言葉を受けて、深呼吸してから目を閉じた。


「!」


すると、緋眼の脳裏に桂川沿いの竹林の先で、何か白っぽいものが怪我をして蹲っているのが見える。


「どうした?」

「川沿いの竹林の奥に、何かが怪我をして…」

「“”のですね。何が怪我をしているのか分かりますか?」

「そこまでは…。白っぽい何かしか…」

「この先から僅かな妖気が流れていますね」

「ええ。刹鐃に繋がるかは分かりませんが、行って確認しましょう」


晴明達は、緋眼の案内通りに竹林の先を進む。

すると、そう遠くない場所から物凄い妖気と爆風が襲ってきた。


「っ!」

「弥彦殿は緋眼を。董禾、行きますよ」

「は」

「お任せください」


晴明と董禾は、吹き荒れる風の中を進んでいく。


「貴方方は…」


その先に見えた二つの人影の姿を捉えると、晴明は僅かに眉を顰める。


「ちっ、晴明か」

「なに?君達は横取りに来たのかな?」


人影の正体は道満と鎌成だった。

晴明を見て渋い表情を浮かべる道満とは対照的に、鎌成は不敵な笑みを携えている。


「横取り、とは的を射ませんが。私達の目的と、貴方方の目的は恐らく違うものと思いますがね」

「どうだかな。貴様はいつもそう惚けた事を言い、獲物を横取りするからな。信用ならん」

「おやおや。酷い言われようですね」

「貴方方はこんな所で何をしているのです?」

「同じ場所に居ると言う事は、同じ目的で来たものと当然思うよね。その質問は野暮なんじゃないかな?」

「晴明様、董禾様!あちらを!」


緋眼は粉塵の舞う方を指差す。

すると、粉塵の中からは三つ目の巨大な犬の様な妖が姿を現した。

その妖は皆既月蝕の紅い光に照らされ、妖しく神々しくも見える。


「あれが妖気の正体ですか」

「やはり、横取りする気ではないか」

「誤解ですよ。私達は他の目的で此方へ赴きました」

「なら、その目的って何なのさ?」

「帝よりの勅命ですので、そう易々と公言は出来兼ねます」

「信用ならんな」


道満は札を構え、晴明と対峙する。

その後ろでは犬の様な妖が尻尾を巨大化させ、此方に向けて薙ぎ払った。


「晴明様!」

「ぬうっ」

「っ」


道満も晴明もそれをギリギリかわす。


「今は晴明達の相手をしている場合じゃないね」

「だが、邪魔立てするのならば容赦はせぬ」


ーーー痛い、痛いーーー


「っ!」


また先程の声が聞こえる。

声はどうやらこの妖から聞こえる様だ。

道満は印を組み、妖に向けて炎を放った。

対して妖は口から何やら力を溜めて吐き出す。


「止めて…止めてください!」

「緋眼殿、危険です!」


思わず飛び出そうとした緋眼を弥彦が止める。

その先では道満の炎と妖の妖力がぶつかり合い突風が吹き荒れた。


ーーー大事なモノ、奪うの許さない。大事なモノ、守るーーー


その声は、悲痛な叫びにも聞こえた。


「声はあの子から聞こえます」

「え?」

「あの子は何かを守ろうとしています」

「それを奴等が狙っていると言う事か」


緋眼の言葉を聞き、董禾は道満と鎌成を見遣る。


「なあに?本当に横取りしに来た訳じゃないって言うの?でもね、邪魔はさせないよ」


鎌成が札から蛇を召喚すると、その蛇を緋眼にけしかける。


「……」


弥彦は緋眼の前に出ると、それを即座に斬り捨てた。


「蓬蝉の弟子か。厄介なのがいるね」

「何を狙っているのかは存じませんが、そちらがその気ならば、此方とて容赦はしません」

「ふふ、いいね。なら、磨呂が勝った暁には、董禾には磨呂の言う事を聞いてもらうよ」

「では、私が勝てば、此処は手を引いていただきます」


董禾は札を手にし、鎌成に対峙する。


ーーー痛い、痛いよーーー


その声に緋眼は妖を見る。

すると、妖の脇腹辺りに怪我をしているのが確認出来た。

先程脳裏に浮かんだ大きさとは違うものの、痛みを訴えているのは目の前の妖である事を確信する。

そして、そこには周囲への恐怖の感情も混じっている事が、緋眼の中に流れ込んでくる。


「怪我…痛むよね。怖いよね」

「緋眼殿?」


緋眼は暴れる妖を見て、そちらに駆けて行く。


「緋眼殿、危険です!」


弥彦とロト達も急いでその後を追う。

妖は緋眼が近付いて来ると、辺りに暴風を巻き起こした。


「緋眼殿!」

「っ!」


弥彦は緋眼を庇う様に抱き締める。


「弥彦様…、ありがとうございます。私、あの子が怯えているのを何とかしたいです」

「怯えている?」


弥彦の言葉に頷くと、彼の腕から出た緋眼は一歩前に出る。

そしてそのまま妖に向けて手を伸ばすと、妖は耳を塞ぎたくなる様な咆哮を上げた。

それでも不思議と緋眼には恐怖心も何もなく、ただただ妖の心を、怯えるその心をどうにかしたいと言う思いが溢れていく。


「私はあなたに何も危害を加えたりしないから。怖がらないで」


そう強く心の中でも思うと、体の内から熱が溢れてくるのが分かった。

緋眼は考える訳ではなく、自然と動いた体に任せて祈る様に手を合わせた。

すると、辺り一面が夜にも関わらず眩く輝き出す。


「これは…」

「なにっ?」


その光に晴明と道満だけでなく、鎌成と董禾も動きを止めて緋眼の方を見る。

光に包まれた妖も動きを止めていた。

緋眼は動かなくなった妖にゆっくりと近付くと、そっと手で触れる。


「っ!」


妖に触れた瞬間、緋眼の脳裏に何かが過る。


古びた小さな祠の前にいる妖ーーー。

妖が生まれた時から、ずっとずっと此処に居る。

片時も離れた事がない。

そう緋眼に伝わってきた。

その日もいつもの様に空を見上げ、雲に隠れていく月を眺めている。

そんな妖に影が差す。

そう思ったのも束の間、妖は剣擊と見られるものを受けて吹き飛ばされてしまった。

傷の痛みに堪えながら起き上がった直後、祠も破壊される。

怒りに満ちた妖が祠を壊した者に攻撃を仕掛けようとするが、その者はそれより早く斬擊を繰り出し更に妖に怪我を負わせると、身軽に立ち去ってしまった。

体を引き摺りながら壊された祠の前まで行く妖。

しかし、祠の中にあったモノが無くなっている。

大切なモノを守れなかった妖は、ただただそこに佇んでいた。


「大事なもの…無くなっちゃったんだね」


妖の記憶と思われるものと共に流れ込んでくるのは、どうしようもない怒りと悲しみ。

緋眼は妖の肌を優しく撫でる。

すると、巨大だった妖はみるみる内に小さくなり、大型犬程の大きさになった。


「なにこれ?どうなってるの?」


状況が飲み込めない鎌成は不可解そうな表情を浮かべる。


「いや、今が好機かもしれんぞ」


小さくなって敵意も見られなくなった妖を見て、道満はある方向へ駆け出す。


「止まってください」


そんな道満に緋眼は声を掛けた。


「貴方方の目当てのものは、もう此処にはありません」

「なに?」

「何を出鱈目をっ!」


緋眼は彼らの目的であろうものがあった場所に目を向ける。

そこには、無惨に壊された祠だったものの残骸があるだけだった。


「どう言う事だ?」

「まさか、そいつがっ」

「この子は、此処でずっとそれを守ってきました。でも、それを何者かに奪われてしまったみたいです」

「誰が奪ったのだ?」

「そこまでは…分かりませんでした」

「そんな言葉を信じろと?どうせ、お前達かそいつが隠したんだろ!」

「いや、鎌成。この辺り一帯には確かに宝珠の気配は無いようだ」

「っ!」


緋眼の言葉を受けた道満は、周囲に気を巡らせた様だが目を閉じて息を吐いた。


「まさか、奴が…」

「なに?董禾、奪った奴に心当たりがあるのかな?」


呟いた董禾の言葉を拾った鎌成が彼に問い掛ける。


「調べれば分かる事でもあるので、少しお話ししましょう。昨夜、この地で巫女がある妖に襲われています。私達は、その妖について調べに此方に赴いたのです」

「ならば、その妖が奪った犯人と言う訳か?」

「断定は出来ませんが、その可能性はあるかもしれませんね。その妖は特に巫女に危害を加える事無く去っているので、妖がこの地に訪れた目的を探っています」

「……」

「磨呂達は無駄足を踏まされたって事」


忌々しげに鎌成は吐き捨てる。


「目当てのものが無いのであれば長居は不要。鎌成、行くぞ」

「ふんっ」


道満と鎌成は、晴明達を一瞥してからこの場を後にした。


「この子の手当てを…」

「でしたら、僕が手当てをします」

「ロト、薬草採ッテ来ル」

「お願いね」


小さくなった妖の脇腹にはいくつもの傷があった。

緋眼と弥彦は妖の傷を洗う為に、妖をリネットに任せて桂川へ水を汲みに行く。


「これも彼女の力ですね」


水を汲みに行った緋眼の後ろ姿を見ながら晴明は呟く。


「あの妖の声が聞こえたのが、ですか?」

「それもあります。彼女は妖と心も通わせました。そして、先程見せた力は一種の浄化にも見えました」

「辺りの瘴気を浄化して、妖の正気も取り戻したと」

「あの温かな光は浄化だけでなく、妖を落ち着かせる事にも働いたかもしれませんね」


晴明と董禾は、今は落ち着いた様子の妖に視線を向ける。


「しかし、それを奴等に見られたのは厄介です」

「彼等ですか?」

「ええ。奴等も緋眼の力を目の当たりにしました。あの力を見て、奴等が今後何もしてこない訳がありません」

「そうですね。少し、用心した方が良いかもしれませんね」


晴明と董禾が会話している内に、緋眼と弥彦が水を汲んで戻ってくる。

ロトも薬草を持って戻ってきたので、弥彦は応急処置を始めた。


「これで取り敢えずは大丈夫です」

「良かった。弥彦様、ありがとうございます」


傷の手当てをしてくれた弥彦に緋眼はお礼を述べる。


「さて。一段落しましたし、そろそろ頼光殿達と合流しましょう。もしかしたら、何か刹鐃の手掛かりを掴んでいるかもしれません」

「ええ。あれから時間も経っています。我々を探しているかもしれません」


夜空に浮かぶ望月は、月蝕を終えいつもの輝きに戻っていた。

晴明と董禾が踵を返す。


「じゃあね。また様子を見に来るからね」


緋眼は妖を撫でてから別れの挨拶をする。

しかし、妖は別れるどころか緋眼の後を付いて来た。


「付いて来ますね」

「懐カレタンジャナイカ」

「えっと…」


緋眼としては心配で置いていく事も憚られる思いであったので、妖が付いて来てくれる事に密かな喜びもあった。

前を歩く晴明達を見る。


「おやおや。余程、緋眼を気に入ったのですかね」

「……」


晴明と董禾も振り返り、付いて来ている妖を見遣る。


「そいつは、ぬりかべです。特に人間に害を為す妖ではありませんが」

「ぬりかべなんですか!?」

「おや、ぬりかべを知っていましたか」


ぬりかべと言えば、一枚の壁に目が付いたものがよく絵巻やフィクションで出てくる。

ところが、このぬりかべと言われた妖は全くの要素を持たず、目が三つ付いているものの強いて言うならば犬の妖怪に見える。


「ぬりかべと言っても希少種ですよ。この姿のぬりかべは、あまり見掛ける事はありません」

「妖にも希少種とかいるんですね」

「どうしましょうかねえ。怪我もしていますし、緋眼に懐いているのでしたら無理矢理追い払うのも気が引けますね。何より、このぬりかべにはもう帰る場所がないのでしょう」

「帰る場所…」


緋眼は先程の壊れた祠を思い出す。

このぬりかべは、ずっとずっと祠の宝珠を守ってきた。

言わば、それがぬりかべの使命であり、生きる意味だったのだ。

祠が破壊され、守るべき宝珠も無くなったぬりかべには、もう何も残されていない。

痛かったのは、その身に受けた傷だけではなく、大切なものを失ってしまった心もだったのかもしれない。

緋眼は思わずぬりかべを抱き締めた。


「どうしますか?董禾」

「何も私の許可を取る必要はないでしょう。緋眼がきちんと面倒を見ると言うのであれば、私が口を出す事ではありません」

「董禾様…」


董禾の言葉に緋眼は頬を綻ばせる。


「ありがとうございます!董禾様!」

「…何も礼を言われる事ではない」


満面の笑みでお礼を告げた緋眼に、彼は居心地が悪そうな表情を浮かべる。


「あ、いたいた」

「皆、無事か?」


そこへ頼光達がやって来た。


「ああ、済みませんね。探させてしまいましたか?」

「少々嫌な気配がありましたからね。心配しておりましたが、無事で何よりです」

「その妖はどうしたのですか?」


綱達の視線がぬりかべへと注がれる。


「先程保護したのです。緋眼にすっかり懐いてしまいましてね」

「妖でも可愛い子は分かるんですねー」

「そ、そんな事は…」


いつもの調子の季武ではあるものの、彼の言葉に緋眼は気恥ずかしさで俯く。


「そちらは何か手掛かりはありましたか?」


頼光達に董禾が問う。


「いや…色々探し回りはしたが、それらしき手掛かりは見付けられなかった」

「そちらは?」

「残念ながら此方もです。ですが、このぬりかべが守っていた宝珠が何者かによって奪われた様です」

「それは、もしや」

「ええ、刹鐃の可能性はあるかもしれませんが、今の段階では断定は出来ません」

「うむ。確かな手掛かりがないのは惜しいですが、今日のところはこれで引きましょう」

「そうですね」


話が纏まると、皆は来た時と同じ様に馬に跨がり帰路に就く。

ぬりかべはリネットに乗って付いていき、そのまま緋眼と共に頼光の屋敷に向かった。



「皆、お帰りなさ…」


屋敷に戻ると彩耶香が玄関で出迎えてくれる。

しかし、彼女の視線がぬりかべに向くなり動きが止まった。


「さや」

「やあね、私ってば疲れてるのかしら。その犬の目が三つに見えるわ」

「いや、見間違いじゃなく三つだけどな」

「!」


彩耶香の後ろを貞光と公時が歩いて来ると公時が告げる。


「これは、ぬりかべと言う妖で」

「妖!?何でそんなものが屋敷に入ってきてるのよ!?」


説明しかけた綱の声を遮って彩耶香は叫ぶ様に述べる。


「緋眼ちゃんに懐いちゃったみたいだから、飼う事になったんだよ」

「妖を飼うですって!?何考えてるのよ!?ムリムリ!キモい!いやぁっ!」


彩耶香は明白あからさまな拒絶の反応を示し、着物の裾を持って自室の方へと走っていった。


「姫さん、相変わらずだなー」

「彩耶香ちゃん…」

「ふむ、慣れるまでの間は彩耶香姫に近付けさせぬ方が良いだろう」

「そうですね。姫が屋敷から逃げ出してしまった方が大変ですからね」


頼光の言葉に綱も同意する。


「申し訳ございません…」

「緋眼ちゃんが謝る事じゃないよ。苦手なものは仕方がないからね」


走っていった彩耶香の方を見詰めて心做しか悲しそうに見えるぬりかべに、彩耶香とぬりかべに対して申し訳ない気持ちが湧き上がり、緋眼はぬりかべの頭を撫でる。

ぬりかべは頭を撫でられた事で嬉しく思ったのか、緋眼に体を擦り寄せた。

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