第12話 董禾に潜む影

「送っていただく事になってしまって、本当に申し訳ございません」

「気になさる事ではありません。僕もあの映像と言う記録を見たら、貴女の事が気掛かりでなりませんから」


早朝ーーー。

晴明の屋敷へ向かう道中、緋眼が切り出した言葉に弥彦が返す。


「でも、弥彦様の貴重なお時間を」

「これは僕自身が望んだ事です。それとも…ご迷惑でしたでしょうか?」

「迷惑だなんて、そんな事は全くないです!」

「それならば、貴女も気に病まないでください」


否定した緋眼に弥彦は柔らかな表情を向ける。


「はい、ありがとうございます」


いつも気を遣ってくれる彼に心からの感謝の気持ちが湧き、緋眼は笑みを返した。


「では、夕刻にお迎えに参りますね」

「はい。弥彦様も、どうか道中お気を付けて」

「ありがとうございます。護衛が襲われる様な事があれば、面目が立ちませんからね」


弥彦はふふっと声を漏らして笑いながら背を向ける。

緋眼は彼が戻り橋を渡りきり姿が見えなくなるまで見送った。


「董禾様、おはようございます」


屋敷に上がり廊下を歩いていると、董禾の姿が見えたのでその背中に声を掛ける。


「おはよう。…怪我の具合はどうだ?」


振り返り挨拶を返した董禾は、少し間を置いてから問い掛ける。


「お気遣い感謝致します。これくらいは何ともありませんから大丈夫です。それよりも、董禾様は…」


緋眼から返ってきた言葉は、昨晩董禾が晴明に返したものとほぼ同じだった。

更には、自分の怪我よりも董禾の怪我の心配をしている。

その事に董禾は内心眉を顰める思いであったが、彼女の頬には目立つ切り傷があったので、それを目安に他の怪我の具合も判断出来る。


「私の心配は不要だ」

「ですが…」

「不要だと言っている」


董禾は強い口調で言い放つ。

その圧に緋眼もそれ以上告げる事が出来なくなり押し黙るしかない。


「お前のそれは奴の瘴気と妖気で出来た傷だ。手当ての際、邪気と毒気は抜いてもらっているとは思うが…」

「はい。弥彦様が手当てをしてくださった時に抜いてくださった様です」


弥彦はそう言った手法の手練れだったので、緋眼の手当ては彼が行った。

その時の様子を思い出しながら緋眼は答える。


「とは言え普通の切り傷ではない。体にもあるだろう。傷が癒えるまでは実戦は無しだ」

「えっ…」

「そんな顔をするな。修行を付けないとは言っていない。ただ、無理をして傷を悪化させ、奴が再び現れた時に満足に動けないのであれば、何の為に修行を付けているのか分からないだろう」

「はい…」


不安げな表情を浮かべた緋眼に董禾は付け加えた。


「休むのも仕事の内だと以前晴明も言っていただろう。出来る時に己の出来る事をしろ」

「かしこまりました」

「それから…」

「はい」

「私の言う事は絶対だ。妖に出会した時、逃げろと言ったら必ず逃げろ」

「……」

「返事はどうした?」

「…絶対に足手纏いにはなりません。今よりもっと強くなります。だから…一緒に戦わせてください」


緋眼は彼に切望を込めて懇願する。


「そんなに死にたいのか?」

「え?」


しかし、彼からはいつもの冷たい言葉が放たれる。


「お遊びでやっている訳ではない。妖相手も怨霊相手も、一歩間違えば此方がやられる。己の力量を見誤れば返り討ちに遭い死ぬだけだ」

「……」

「自分の至らなさは、いつでもロト達が補助してくれると甘えていないか?今までもお前はロト達が居たからこそ妖相手に戦えていただけだ。それを己の力だと勘違いするな」

「それは…分かっているつもりです」

「どうだかな。理解していると言うのならば、もっと己の力量を省みろ。そうすれば、昨日の行為もどれだけ自殺行為であったか分かる筈だ」

「はい…。肝に命じます」

「今日は修行以外はいつも通りに行え。修行については追って話す」

「かしこまりました…」


そう告げて董禾は自室の方へと歩いていった。

緋眼は彼からの指摘に俯き加減でグッと拳を握り締める。

しかし、少ししてから気持ちを切り替える為に深呼吸をすると、自分の仕事をするべくその場を後にした。



「少し家を空ける。お前はその間、座禅を組んでいろ」

「かしこまりました。どちらへ行かれるのですか?」

「それをお前が知る必要はない」

「はい…」


洗濯を済ませ広間の掃除をしていると、董禾から声を掛けられる。

しかし、最近では珍しく外出に同伴させてもらえないばかりか、行き先も教えてはもらえなかった。


「今日は晴明もいる。この屋敷には結界が張ってあるから滅多な事では妖は入って来ないが、絶対に一人でこの屋敷から出るな」

「かしこまりました。お気を付けて行ってらっしゃいませ」


董禾を玄関まで見送ると、緋眼は一つ溜め息をこぼした。

自分の力を認めてもらえないばかりか、自分一人では戦力外通告された様な彼の言葉の数々に、己の無力さを嫌でも痛感し本当に自分が嫌になった。

確かに緋眼は強くないし、ロト達が居なければ、一人では何も出来ないちっぽけな存在だ。

ロトと共に妖に立ち向かい、術師として修行を付けてもらって、少し自分が強くなった様な気がしていたのも事実だ。

昨日は董禾が怪我を負ってしまうかもしれない。

殺されてしまうかもしれないと、不安で怖くてどうしようもなくて、自分一人で逃げるなど出来なかった。

でもそれは、彼にとっては迷惑で、足手纏いにしかならなかったのかもしれない。

彼一人ならば、刹鐃を倒せていたのかもしれない。

そう思えば思う程、自分の無力さが嫌で嫌で堪らなかった。


「董禾は出掛けましたか」


掃除の続きをしていると、晴明がひょっこり顔を覗かせる。


「はい。先程お出掛けになりました」

「そうですか。董禾は実家に戻っただけですので、心配は要りませんよ」


行き先を告げられなかった緋眼の事を分かってか、晴明はいつもの笑みを携えたまま告げる。


「彼には橘の家があるのですが、何分私には生活能力が無いのです」

「え?」


董禾がーーー、との事よりも、晴明に生活能力が無いとの言葉に、緋眼は耳を疑った。


「料理も出来ませんし、掃除も私がすると酷くなってゴミ屋敷みたいになってしまうのですよ」

「そんな…」


見掛けからは全く想像出来なかった内容に、緋眼は開いた口が塞がらない。


「妻には式神を怖がられ、別居状態ですからね」

「奥様がいらしたのですか!」

「ええ、もう結婚して20年は経つのですがこの様です」


今までずっと董禾と居るところしか見ていなかった上、そう言った話が一切出なかった事もあり、緋眼は驚きを隠せない。

しかし、相手は晴明程の相手だ。

平安時代同様結婚する時期も早いだろうし、晴明とて結婚していてもおかしくはない。

今更ながら、失言であったと緋眼は頭を下げる。


「大変失礼致しました」

「おや?私は何かされた覚えはありませんよ?」

「その…普通に考えれば、奥様がいらっしゃる方が自然ですのに…」

「ああ、気になさらずに。妻にはもう愛想を尽かされているかもしれませんね」

「そんな事、仰らないでください」

「こんな体たらくですからね。董禾には住み込みで弟子入りしてもらったのですよ」

「そうだったのですね」

「お陰で私の生活は安泰しました」

「は、はは…」


晴明の言葉に緋眼は乾いた笑いを漏らす。


「更には、貴女の美味しい食事も堪能出来る日々です。私は弟子に恵まれていますね」

「私などまだまだです。董禾様の足元にも及びません」

「そう謙遜する必要はありませんよ。貴女は日々強くなっています。師の私が言うのですから、もっと胸を張ってください」

「………」


晴明にそう言われたものの、緋眼には先程の董禾の言葉が脳裏を過る。


「董禾は余程、貴女に無理をさせたくないのでしょう」

「え?」


まるで自分の考えを見通しているかの様な晴明の言葉に、緋眼はいつの間にか俯いていた顔を上げて彼を見遣る。


「貴女はとても頑張り屋です。でもそれは無理をしていると言う事でもあります。董禾も貴女をずっと見てきて、それを分かっています」

「無理をしているつもりはありません。私はまだまだ未熟ですし、覚える事も沢山あって修行も足りません」

「その言葉が出てくる事は素晴らしい事だと思います。ですが、無理をしているかしていないかは、意外と自分自身では分からないものです」

「……」

「貴女は昨日刹鐃に勇敢に立ち向かいました。勿論、無事に帰って来てくれたからこそ言える言葉ですが、私は貴女の勇気を誇りに思います」

「でも…あれは、ただの私の独り善がりで…ただの無鉄砲です…」

「その行為は、本当にただの無鉄砲からくるものですか?」

「力もないのに…傲っていたのは確かです」

「それだけですか?」

「それだけ、とは…?」


晴明が何を言いたいのか理解出来なかった緋眼は、疑問符を投げ掛ける。


「私には、それだけの理由で貴女があの場に留まったとはとても思えません」

「……」


晴明の言う通り、自分の力を過信しただけの理由であの場に居た訳ではない。

少しでも董禾の力になって、彼の助けになりたかったから。

彼に怪我をしてほしくなかったから。

もしかしたら、あの危険な男に殺されてしまうのではないか。

その恐怖が、自身の危険を顧みずに戦う行為へと緋眼を駆り立てた。

自分はどうなってでも、彼だけは助けたいと思ったから。

けれども、それは単に自分の独り善がりだ。

そう思うととてもではないが、そんな事は口が裂けても言えない。


「貴女の事です。董禾を置いて、自分だけで逃げる事は出来なかったのではないですか?」

「っ!」


緋眼の思いを知ってか知らずかーーー。

またもや晴明は緋眼の考えを代弁するかの様に述べる。


「それは何等恥ずべき事でも、独り善がりでもありませんよ」

「でも…董禾様の足手纏いになったから…董禾様はあんな事…」


昨日の董禾の様子と先程の彼の言葉を思い出し、緋眼は顔を歪める。


「あれで足手纏いだと言うのならば、貴女以上に他の者達はとても足手纏いでしょうね」

「そんな筈は…」

「彼も恐らく、貴女にもしもの事があるのを恐れたのでしょう。貴女の身の安全を考え、逃げてほしかったのだと思います。現に、貴女にこの様に傷を負わせてしまいましたからね」


晴明は傷のある緋眼の頬に目を向ける。


「……。これは自分の迂闊な行為で出来ただけです。董禾様のせいではありません。それよりも、私は…董禾様が怪我をして…あの人に殺されてしまうんじゃないかって……」

「……」

「そう思ったら…怖くて…怖くて……どうしようもなくて……」


気付けば緋眼の目からは涙が溢れ流れていた。


「でも…それは…、私が董禾様を…董禾様の強さを信じていなかっただけで……、弱い私が居た事が…却って董禾様の足手纏いに……」

「大丈夫ですよ、緋眼。貴女は足手纏いでも、弱くもありません」


晴明は涙する緋眼の頭を優しく撫でる。


「董禾は幸福者しあわせものですね。こんなにも、自分を想ってくれる人がいるのですから」


泣き続ける緋眼が落ち着くまで、晴明は優しくその頭を撫で続けた。





それからと言うものの、董禾は緋眼を屋敷に置いて実家に戻る事が多くなった。

晴明が屋敷を空ける時は、念の為にと送迎ついでに弥彦に居てもらい、緋眼を一人にする事はなかった。


それが数日続いた頃、晴明が董禾を呼び戻してほしいと緋眼に自身の式神を付き添わせて橘の家に送り出した。


「此処…かな?」


晴明の式神の案内で辿り着いた屋敷の前で緋眼は一人言ちる。

頼光の屋敷には及ばないものの晴明の屋敷よりは広く、いかにも貴族の住む屋敷と言った感じだ。

緋眼は恐る恐る門を叩く。


「ごめんください」


緋眼が声を掛けると、暫くしてから雑仕とおぼしき男が出てくる。


「何か用か?」

「あの、私は十六夜緋眼と申します。安倍晴明様のお屋敷で董禾様にお世話になっております。晴明様の遣いで董禾様に会いに来たのですが…」

「晴明殿の遣いか。董禾殿ならば蔵に居ると思うが」

「そうですか」

「入るといい」

「お邪魔します」


男に招き入れられるまま緋眼は門を潜る。

董禾は蔵に籠っているとの事で、許可を貰ってから緋眼はその蔵の場所へと向かう。

辿り着いた先には、古びてはいるもののとても大きく立派な蔵があった。


「董禾様」


緋眼は外から呼び掛けてみる。

何度か声を大きくして呼び掛けてみたが、中からは何の反応も見られない。


「随分、壁モ分厚イ。音ガ通リニクイト推測スル」

「勝手に入ったら怒られる…よね」


彼の事だ。

今までの経験上、彼のものに勝手に触れようものなら怒号が飛び交ったので、勝手に蔵の扉を開ける事も気が引ける。

せめてと扉を叩こうと手が触れた時だ。

手が扉に触れたと同時に、今まできっちりと閉まっていた扉が開く。


「董禾様?」


董禾が扉を開けたのかと思ったが、開いた扉の先には誰もいない。

機械も無い平安時代とほぼ同じなこの世界に自動ドアなどありはしない。

目の前の扉は緋眼が開けた訳ではなく、内側からも誰かが開けた様子はない。

即ち勝手に開いたと言う事になる。


「……。董禾様…」


恐る恐る扉から顔を覗かせる様にして彼の名を呼んでみる。

しかし、中からは相変わらず何の反応もない。

扉の向こうに見えた光景に緋眼は息を飲む。

そこは蔵の中と言うよりは、巨大な図書館の様に書物等が並べられていた。

まるで迷路の様にも思えるそこに、緋眼は吸い寄せられる様にして中へと足を踏み入れる。

薄暗い中を暫く進むと、その先に僅かな明かりが漏れていた。

そこに董禾が居るのだろうと思い歩を進める。


「緋眼、緋眼」

「なに?」

「横、横」


その途中、ロトが呼び掛けてくる。

言われるがままに横に視線を移すと、そこにあるものに目を疑わずにはいられなかった。

そこの壁には、エジプトの壁画の様なーーー否、エジプトで見られる古代のエジプトの姿を描いた壁画があったのだ。

何故平安時代と同じこの世界の、それも董禾も屋敷の蔵にこんなものがあるのだろう。

緋眼は驚愕しながらも、壁に続いて描かれている壁画を追う様に歩を進めた。


「うん?」


そこで声がする。

声の主とおぼしき気配が近付いて来た。


「おやおや。許可もなく勝手に入ってきちゃダメじゃないか」

「あっ、申し訳ございません!何度か声を掛けさせていただいたのですが」


やって来たのは董禾だった。

彼の姿に緋眼は慌てて頭を下げる。

扉が開いたからと言って、勝手に入ったのは事実だ。

彼の次ぐ言葉を待つ様に身構える。


「そもそも此処は入れない様に扉と蔵周辺に結界を張ってあるから、普通は近付けもしないんだけどねえ。どうやって入って来たの?」

「え?私は何も…。扉も勝手に開いたので…」

「扉が勝手に?そうか。君…」


董禾は緋眼をまじまじと見遣る。

緋眼はそんな彼の様子に違和感を覚える。

口調もだが、いつもの彼とは明らかに違う。

姿は彼で間違いないのだが、オーラやその内から感じるものが彼とは全く違う様に感じられた。

それに、いくつかの灯台の灯りのみで薄暗いものの、目の前の男の瞳は董禾の深い藍色とは全く違う暖色系の色で、光を反射してキラキラしている。


「あの…勝手に入ってしまって本当に申し訳ございませんでした。董禾様がどちらにおられるかご存知ですか?」

「ん?」


董禾と容姿が同じと言う事は、一卵性双生児なのだろうか。

緋眼はそう判断し相手に問い掛ける。


「董禾?董禾なら目の前に居るじゃないか」

「え?でも…貴方は…」


相手から返ってきた言葉に緋眼は困惑する。

確かに姿は彼と瓜二つ。

けれども、瞳の色の違いもそうだが、緋眼は直感的にも相手と董禾は別人だと感じている。


「ふ、ふふふ。そうか。君って、そう言うのも判っちゃうのか。なら、隠す必要はないね」

「貴方はどなたですか?」

「それを君が知る必要はないよ」

「っ!」


それは以前董禾から言われた事のある言葉。

思わずその時の事を思い出してしまい緋眼は息を飲む。


「でも、この体は董禾そのものさ。董禾の体は僕の体だからね」

「!どう言う事ですか!?董禾様をどうしたんですか!?」

「そんなに大きな声を出さないでよ。別に何も危害を加えちゃいないさ。大事な肉体だからね。今は眠っていてもらってるだけさ」

「董禾様から出て行ってください!」


その言葉を聞いた途端、男の目が冷たいものへと変わる。


「一体誰に向かって口を利いているんだい?小娘風情が、この僕に生意気な口を利いた事を後悔させてあげようか」

「うっ」


男は緋眼の首を掴んで壁に押し付ける。


「緋眼!」

「おっと、動かないでおくれよ。君達が厄介なのは董禾の記憶から知っているからね。この小娘の首をへし折られたくなければ、大人しくしている事だ」


飛び掛かろうとしたロトとリネットより先に男は言葉で牽制する。

ロト達はその言葉により動きを止めざるを得ない。


「忠実で何よりだ。さて、この僕に無礼を働いた君に、このまま仕置きをしようか」


緋眼の首を絞め上げ壁に押し付けたまま男は口角を上げる。


「それにしても、成る程ね。君、そんな力をどこで手に入れたんだい?」

「く…う……」


緋眼の首を絞める力を緩める事なく男は問い掛ける。


「その力があれば、良い母体にはなりそうかな」


そう言ってから漸く男は手の力を緩めた。


「っ!けほっ、けほっ…」

「君さ、董禾と子供を作ってよ」

「っ!?」


次いだ男の言葉に、緋眼は噎せ込みながらも耳を疑った。


「君のその力と董禾の魔力。それらが合わされば、果てしない魔力を持った肉体が出来る。董禾の体も良いけど、そっちの方が今以上の魔力が手に入りそうだ」

「なに…言って……」

「保険を掛けておくのも悪くないからね。そうと決まれば、今直ぐにでも…」


男が一歩緋眼に近付く。

すると、男は急に顔を歪め頭を押さえた。


「くっ……董禾の意識が…何故……」

「董禾様?」


顔を顰める男の言葉に、董禾の意識が戻ろうとしているのではないかと感じた緋眼は彼の名を口にする。


「いいかい。今日此処で見聞きした事は、絶対に他言しない様に…ね。それは…董禾にも、だ」

「貴方の言う事を聞く道理は」

「董禾の命は僕の手の中にある。それを…忘れない様にね…」

「っ!」


その言葉を最後に男は倒れ込む。

緋眼は慌てて董禾の体を支えようとするが、緋眼の力では完全に支えきれずに倒れそうになったところを、ロトとリネットが羽に質量を持たせて二人を支えてくれた。

そのままゆっくりと緋眼は抱き締める董禾の体と共に膝を付く。


「董禾様!董禾様!」

「うっ……」


緋眼が呼び掛けていると、そう経たない内に彼から声が漏れる。


「ひ、がん…?」

「董禾様?大丈夫ですか!?」


意識が戻った彼は、緋眼に凭れ掛かる形になっていた自身の体をゆっくりと離す。


「わたしは…いったい……」

「っ…」


記憶がない様な彼の様子に、緋眼は言葉に詰まる。

男に口止めされた上、この様子から董禾は男の事を知らない可能性が高い。

すると彼はハッとして辺りを見回した。


「お前…何故此処に?」

「それは…」

「此処には結界を張っていた。破って入って来たのか?」


明らかに董禾の声色には怒気が含まれている。

蔵に入った緋眼に対して怒っているのは明白だ。


「勝手に入ってしまった事はお詫び致します。でも、私は何もしていません。扉を叩こうとしたら、扉が開いたんです」

「………」


男とも一度したやり取りをもう一度する。

入った事への謝罪をしながら、信じてもらえないかもしれないが、自分が結界を破った訳ではない事を伝える。

董禾は変わらない表情で緋眼を見遣るだけだ。


「本当に申し訳ございませんでした。出て行きます」


居たたまれなくなった緋眼は立ち上がって踵を返した。


「待て、緋眼」


その言葉に緋眼は肩を跳ね上げる。

まるで金縛りにあったかの様に足も動かなくなる。

このまま勝手に入った事を怒られると思うと、身体中が強張った。


「此処へ、何をしに来た」

「と…、董禾様を探しに…」

「そうではない。何か用があったから来たのではないのか?」


彼のその言葉に、橘の屋敷に来た理由を訊ねているのかと思った緋眼は、ゆっくりと彼の方へ振り返る。

彼の様子から、もう怒っている雰囲気は感じない。


「あの…晴明様が董禾様に用がある様で、呼びに参りました…」

「そうか…。他に誰が来ている?弥彦か?」

「え?ひと…あの、いえ、晴明様の式神とロトと…」


人間は緋眼一人であったので一人と言おうとして、案内兼護衛でもあった晴明の式神の事を口にする。

しかし、それを聞いた董禾からは再び怒りの気が漏れていた。


「ひ、一人ではないですよ?晴明様の式神と一緒に来ましたし」


刹鐃の一件から緋眼を一人で行動させる事を、特に董禾は良く思っていない。

なので、式神とは言え一人ではない事を取り敢えずロト達も付け加えて弁明するが、そう言えば式神は何処に行ってしまったのか。

蔵に来た時には既に姿がなかったと思い返しながら、緋眼は董禾の様子を伺う。


「………」

「ま、まだお昼時ですし…、それでは私はこれで…」


董禾の怒りが爆発する前にと、緋眼は彼に背を向ける。


「緋眼」

「っ!」


再び彼に呼び止められ、またもや足が止まってしまう。

いくら晴明の式神が道中一緒だったとは言え、それは董禾からしたら許せる範囲ではないのは彼の反応から見て明らかだ。

また浅はかだと怒られるのだと、緋眼は身構える。


「私は…お前に何か……したのか…?」

「え?」


ところが、次いだ董禾の言葉は全く別のものだった。

彼にしては珍しく、躊躇い混じりで様子を伺っている様にも見える。


「いえ…何も…」


先程までの男とのやり取りが過る。

董禾にも話してはならない。

話せば彼がどうなるか分からない。

緋眼はどうしたら良いのか分からず、彼に隠し事をする後ろめたさを感じ、無意識の内に視線を逸らしてしまう。


「その首はどうしたんだ?」

「え?」


突然の言葉と首と聞いてピンとこず、緋眼は首を傾げる。

するとロトが首に絞められた跡が出来ている事をパラメトリックモードで教えてくれた。


「あっ…、あの…、これは来る途中でちょっと…」

「誰かに会ったのか?」

「いえ…そうではなくて…ですね…」


咄嗟の事とは言え、自分でも苦しい言い訳になってしまったと思い言葉に迷う。

正直に話す事も出来ず、道中何かあったとなれば、式神を付き添わせたとは言え晴明が責められるかもしれない。

この時ばかりは頭の足りない自分を呪うしかなかった。


「緋眼、ロト ト リネット ト追イカケッコシナガラ来タ。緋眼、途中デ川、落チソウニナッタ」

「っ!?」

「助ケヨウトシタラ、ロト 緋眼ノ首、絞メソウニナッテタ」

「………」


突然、ロトはとんでもない事を口走る。

いくらなんでもそれを信じる人間がいるとは思えない。

緋眼は落ち着かない様子で董禾を見る。


「そうか。お前はそんなに早死にしたいのか」

「えっ!したくないですっ」

「ならば気を付けろ」

「は、い…」


ロトのとんでもない言い訳を彼は信じたのだろうか。

彼はそれ以上は追及してこなかった。


「……」

「晴明が呼んでいるのだったな」

「はい」

「直ぐに支度を整えるから蔵の外で待っていろ。一人で帰ろうとしたら解っているな」

「承知しております…」

「この蔵で見た事は絶対に他言するな。晴明にもな」

「はい…」


先程聞いた言葉と同じ事を言う彼の背中に、緋眼は何とも言えない気持ちになる。

この蔵の古代エジプトを思わせる壁画。

董禾の体を乗っ取って何かを企んでいる男の存在。

拭えぬ不安を胸に、緋眼は蔵の出入口へと向かった。



蔵の奥へと戻った董禾は、己の手を見遣る。

手には何かを握り絞めた様な生々しい感触が残っている。

先程までの記憶も無い事に、董禾は顔を顰めて目を閉じた。

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