第8話 弟子入り試験

「お呼びでございますか、橘様」


一月が過ぎただろうか。

その日、董禾に呼ばれた緋眼は彼の部屋を訪ねる。

すると彼は、ドンッと山の様な書物を緋眼の前に置いた。


「あの…これは?」

「明日までに覚えてこい」

「え?」

「そこに記載されている内容を全て明日までに覚えてこいと言っている」


覚えてこいと言われた書物は一つ一つが辞書の様に分厚く、それも数十冊はある。

それを一日もせず覚えろと、また無理難題を吹っ掛けてきたのだ。


「明日まで…ですか?」

「同じ事は何度も言わん。それが出来ないのならば此処には来るな」


それだけを言うと、董禾は背を向けた。

緋眼は取り敢えず置かれた書物を持って、彼の部屋を後にする。

別の場所で一冊の書物を広げてみると、文字がびっしりと書かれていた。

それも現代語ではないので緋眼には読めない。


(これを全部明日までだなんて…徹夜しても無理だ…)


此処に来て初めて緋眼は絶望を覚えた。

この一月あまり、董禾に認めてもらう為に様々な雑務を熟してきた緋眼だが、ここにきてどうやら彼は一気に緋眼を突き放す気でいるらしい。

絶望のあまり頭が真っ白になる。


「大丈夫カ?」


ロトの声で我に返る。

どうせ無理ならば出来るところまでやって、それで破門されよう。

そう思い直して、緋眼は雑務や家事を熟す間はロトに内容を読み上げてもらい、頼光の屋敷に戻ってからもロトに解読してもらいながら死に物狂いで書物を読み漁った。



「………」


日が昇る時間となり、辺りが薄明るくなる。

当然の事ながら徹夜となった訳だが、暗記は終わりを見せなかった。

ロトの協力のお陰もあり何とか三分の二まで目を通す事は出来たが、課題の全て記憶すると言う事は事実上叶わなくなった。

朝餉の時間も食事を取らずに暗記に使ったが、それだけで終わる訳もなく、重い足取りで晴明の屋敷へと赴いた。


「ほう。此処に来たと言う事は、全て覚えられたと言う事か?」


玄関には董禾が待ち受けていた。


「それは…」

「出来ないのならば此処には来るなと言った筈だ」

「もう一日、もう一日猶予をください」

「帰れ」

「っ…」

「私が与えた指示通り出来なかったのならば帰れ」

「……。失礼…致します…」


董禾に冷たく吐き捨てられ、泣きそうになるのを堪えながら来た道を戻る。


「少し厳し過ぎるのではありませんか?」

「あいつの事を私に一任した以上、口を挟まないでください」


董禾はそれだけを言うと、屋敷の中に入っていった。


「どうなりますかねえ」


晴明も特に干渉する気はないのか、呑気な様子で緋眼の遠くなった背中を見つめた。



「ドウスルンダ?」


足取り重く歩を進める緋眼にロトが問い掛ける。


「うん……」


分かってはいたものの、実際に直面してみるとかなり傷付くものだ。

何も考える事も出来ず、緋眼はそのまま堀川の戻り橋の下に腰を下ろし、暫くボーッと過ごした。



昼前になり空腹感も覚え、漸く頭を動かす。

そう言えば、書物に書かれていた事は天文学や陰陽五行思想等、陰陽道に関わる事だった。

それを覚えてこいと言う事は、やっと陰陽道について教えてもらえると言う事だ。

なのに、緋眼は課題を熟す事が出来なかった。

また溜め息をこぼして肩を落とす。

書物に書かれた内容を覚えていなければ、教えられないのかもしれない。

先に進めないのかもしれない。

今から覚えたところで破門されてしまった以上、二度と敷居を跨がせてはくれないかもしれない。

それでも緋眼は、回収されなかった書物に再び手を付ける。

何としても今日中に覚えて、明日また董禾に懇願してみよう。

ただそれだけを思って、緋眼は暗記を続けた。



「緋眼殿?そんな所で何をしているのですか?」


辺りが暗くなってきた頃、突然頭上より声を掛けられる。

見ると弥彦が戻り橋から顔を覗かせていた。


「弥彦様…」

「もうじき日が暮れます。こんな所にいては危険ですよ」


弥彦は逢魔ヶ時になり妖が出てくる事を心配しているのだ。

橋から移動してきて緋眼の傍まで来た。


「陰陽道の資料ですか?」

「はい」

「こんな所で…。今日は晴明殿の屋敷に行かなくて良かったのですか?」


次ぐ弥彦の問い掛けに緋眼は閉口した。

せざるを得なかった。

しかし、直ぐに分かる事だ。

躊躇いはしたものの、正直に話す事にした。


「…実は橘様からの課題を終わらせる事が出来なくて……破門されました」

「え?」

「でも諦めきれなくて…明日までに完璧に覚えて、またお願いに行こうかと…」

「覚えるとは、この書物全てですか?」

「はい。本当は今日までに覚えていなければいけなかったんですけれど、私では一日では到底無理で…」

「一日…」


董禾の事は、師である篷蝉と晴明の付き合いから弥彦もよく知っている。

随分と無理難題を吹っ掛けたものだと思ったが、それは口にはしなかった。


「取り敢えず屋敷に戻りましょうか。皆も心配しますよ」

「はい…」


山程の書物をリネットに乗せ、緋眼は弥彦と並んで帰路に着いた。



屋敷に戻ってからも食事に手を付けず書物に没頭する。

すると、そこへ声がした。


「緋眼殿。今宜しいでしょうか?」

「弥彦様?はい、どうぞ」


緋眼は慌てて御簾を上げる。

そこには高杯を持った弥彦が膝を付いていた。


「何も召し上がらないのでは、お体を壊してしまいます。食べやすい様に屯食とんじきにしましたから、どうか一息入れてください」

「弥彦様…、ありがとうございます」


高杯に乗る器にはおにぎりと漬け物が添えられていた。

弥彦の気遣いに触れ、目頭が熱くなるのを何とか堪える。


「終わりそうですか?」

「後もう少し…後もう少しで覚えきれそうではあるのですが…」

「大丈夫です。貴女ならば出来ますよ」


俯く緋眼に弥彦は微笑み掛ける。


「ありがとうございます。弥彦様にそう仰っていただけると元気が出ます」

「それは何よりです。こんな僕でも、貴女のお役に立てるのでしたら光栄です」

「弥彦様…」

「緋眼殿の頑張りを認めていただけると良いですね」

「橘様にはそれでは駄目なんです…。結果で示さないと…」


何事につけても厳しい董禾の姿を思い出し、緋眼はグッと手を握り締める。


「……。無理はしないでください。この事について僕は何も出来ませんが、話を聞くくらいなら出来ますから。いつでも相談や愚痴がありましたら話してくださいね」

「お気遣い本当にありがとうございます」

「食べ終わりましたら食器は廊下に出しておいてください。後で回収に参ります」

「そこまでしていただく訳には」

「これくらいはさせてください。頑張る緋眼殿のお力に、少しでもなりたいのです」

「もう十分過ぎますよ」

「緋眼殿はもっと周りを頼ってください。それとも、僕ではお役不足でしょうか?」

「そんな事は絶対にないです!」


言い切る緋眼を見た弥彦は柔らかい笑みをこぼした。


「ふふ、ありがとうございます。では、高杯は廊下に出しておいてくださいね」

「それでは、お言葉に甘えさせていただきます」

「はい、甘えてください。これ以上はお邪魔になってしまうので、僕はこれで失礼しますね」

「弥彦様、ありがとうございます」

「緋眼殿、頑張ってください」

「はい、頑張ります」


緋眼は弥彦の姿が見えなくなるまで、その背中を見送った。

彼との会話を経て気分転換と元気を貰った緋眼は、屯食に手を付けて気合いを入れ直す。


(絶対に覚えて、もう一度お願いをしに行くんだ!)



その日も徹夜で書物を読み漁り、弥彦が用意してくれた朝餉を食べてから晴明の屋敷に向かう。


「何をしに来た」


屋敷に着くなり案の定玄関先にいた董禾の開口一番がこれだ。

緋眼は深く息を吸ってから地面に頭を付け土下座する。


「橘様の指定した期間内には出来ませんでしたが、書物の内容を覚えてきました。どうか、もう一度私の弟子入りを許可していただきたく、お願いにあがりました」


その場に緊張が走る。

直ぐに追い返されるなり何かしら反応があると思っていたのだが、暫く沈黙が続いた。

それが尚の事、緊張を高めていった。


「…あれを覚えただと?」

「はい…」


緋眼は怖くて、まだ顔を上げられない。


「ならば本当に覚えているのか、この私が確認してやろう」

「え?」

「いつまで其処で這いつくばっている気だ。さっさと上がれ」


そこで初めて緋眼は顔を上げる。

見えたのは董禾の背中だった。


「早くしろ!」

「は、はい!」


緋眼は慌てて彼の後を追う。

確認するとの事だが、一つの壁は突破出来たのだろうか。

まだ不安は拭えずとも、緋眼は追い返されなかった事に驚きつつ再度彼の背中を見詰めた。


広間に通された緋眼の元に、自室に向かった董禾が何やら分厚い紙束を持って戻ってきた。


「今から試験だ。本当に覚えてきたと言うのであれば、これくらい簡単だろう」


董禾から差し出された紙には、その名の通り問題が書き綴られていた。

びっしりと書き綴られた手書きの文字は彼のものなのだろうか。

綺麗な文字だなと場違いな事を考えていられるのもほんの一瞬だった。


「期限は一刻半。それまでに解答しろ。式神がお前を監視する。不正をしようなどと思うなよ」

「はい」


董禾は再び自室へと戻っていった。

それを見送ってから緋眼は筆を握る。


(何としても橘様に認めてもらうんだ!)


チャンスは繋ぎ止めた。

彼に認めてもらう。

ただそれだけを糧に、緋眼は筆を進めていった。



一刻半後、時間通りに董禾は部屋にやって来た。

緋眼は時間ギリギリで解答を終えたところだ。


「内容を確認する。それまでの間、お前は庭の手入れをしていろ」

「かしこまりました」


採点される。

その結果次第で今後の進展も決まるだろう。

緋眼は気持ちが落ち着かないでいるも、彼に指示された通り庭の手入れに向かうのだった。



「残念だったな」

「え?」


採点が終わり広間に呼ばれた緋眼に、その言葉が突き付けられる。


「二箇所間違えていた。これでは全て覚えられたとは言えん」

「っ…もうしわけ…ございません…!出直してきます!」


思わず緋眼は飛び出した。

確かに完璧ではなかったかもしれない。

否、所詮は付け焼き刃の知識なのだ。

今日認めてもらおうと言う願望は見事に崩れた。

自分が情けなくなって、気付けば緋眼は走っていた。


「素晴らしいではありませんか」


董禾達の様子を覗き見ていたのだろう。

晴明がいつもの笑みを携えて部屋に入ってきた。


「それを全て覚えるのは、貴方でも三日はかかっていた事ですよ。それを二日でここまでやり遂げるとは、彼女も頑張っているではありませんか」

「………」


董禾はどこか不服そうな表情を浮かべて部屋を出ていく。


「ふふふ。董禾、貴方も新たな修行をする時が来たようですね」


董禾を見送った晴明は独り言ちた。



「何処マデ行クンダ?」


暫く道なりを走るとロトが声を掛ける。

そこで緋眼は漸く足を止めた。


「また…覚え直さなきゃ…」

「ヤリ直シ出来ルダケ良イ!早速、勉強再開」

「うん…」


緋眼は息を整えると、大分南へ来てしまった位置から頼光の屋敷へと戻るのだった。



翌日ーーー。

再び弥彦の支援を受けて勉強し直してから出直した緋眼の前に、二度目の試験の採点を終えた董禾が座る。

昨日解答した内容とはまた違う追試に、自分としては全力を出したつもりだが、結果が出るまではやはり緊張は解けない。

前を座る董禾の顔は、いつも以上に難しい表情をしていた。

この様子から今回も駄目だっただろうか。

不安に押し潰されそうになりながら、緋眼は彼の言葉を待つ。


「…認めてやろう」

「え?」


緋眼は思わず彼の言葉を聞き返す。


「書物の内容を覚えてきた事は認めてやると言っている」

「!」

「だが、こんなものは基礎中の基礎だ。これが理解出来ないのであれば最速話しにならん」

「はい…」

「本当の修行はこれからだ。明日から遠慮なくお前のお望み通りに扱いてやろう。覚悟するんだな」

(今までも十分扱かれてきた気がするけれど…それ以上もあるんだ…)

「なんだ?不服ならば今すぐ帰っても良いんだぞ」

「とんでもございません!ありがとうございます!改めて宜しくお願い致します!」


慌てて緋眼は頭を床に付けた。


「……」


取り敢えずは、どうにかして弟子入りを繋ぎ止められた。

董禾に本当に認めてもらえたのかは些か疑問だが、これから本格的に修行を付けてもらえるのだ。

まだまだ修行も勉学もこれからだが、緋眼は一つ肩の荷が降りるのを感じた。


「お前には暫く私の付き人として同行してもらう。明日、早速だが」


董禾の話の途中、急に声が遠くなる。


(あれ…?)


次第に目の前が遠退いていき、緋眼は意識を手放した。


「なっ…どうした?!」


急に倒れた緋眼に、董禾も慌てた様子で近寄る。


「多分、寝テルダケデス」

「は?」

「コノ三日、徹夜デ休ンデイナイカラ、気ガ抜ケテ睡魔ニ勝テナカッタンダト推測シマス」

「……」


董禾は呆れた様子で緋眼を見下ろした。




「……」


緋眼がうっすら目を開けると、薄暗い天井が見えた。

しかしそこは見覚えのない、頼光の屋敷とは違った場所だと言う事に気付く。

ゆっくりと起き上がり、自分が何をしていたのか記憶を手繰り寄せる。


「緋眼、起キタ。緋眼、起キタ」


横にいたロトの声にそちらに目を向けた。


「ロト…」

「目を覚ましたか」


御簾の向こうから聞こえた董禾の声にハッとする。


「橘様!?」

「静かにしろ。今何時だと思っている」

「も、申し訳ございません…」


董禾は御簾を上げて部屋に入ってきた。


「全くお前は非常識極まりないな。話の途中で居眠りとは何事だ」


彼に指摘され、そこで初めて緋眼は自分の失態に気付く。


「もうしわけ…ございません…」


緋眼は力無く言葉を紡いだ。

折角董禾に認めてもらえ修行を付けてもらえる事になったのに、この失態で白紙に戻されるのではないか。

その不安から体が小刻みに震え出した。


「これがお前の分の夕餉だ。これを食べてさっさと寝ろ」

「え?」

「もう一度言う。明日は早朝から依頼主に会う事になっている。お前には私の付き人として同行してもらう。粗相を起こしたらどうなるかは解っているな」

「えと…はい」

「自分の体調管理も出来ない弟子など要らない。今後この様な事がないようにしろ」

「肝に命じます…」

「頼光殿には既にお前が此処に泊まる事を伝えている。これが明日の分の着替えだ。解ったのならば、さっさと休め」

「はい。ありがとう…ございます」

「……」


董禾はそれ以上何も言わずに出ていった。


「……」


破門されない?

修行を約束された直後に居眠りをすると言う大失態を演じた緋眼だが、彼のあの口振りからは今回は大目に見てくれると言う事なのだろうか。

取り敢えずは良かったと安心して良いのだろうか。

そう思うと急に空腹を覚えた。

董禾の用意してくれた夕餉を食べて、緋眼はどこかホッとした様に眠りに付いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る