4th Gadjo Dilo 許されざる者ども
Chapter 1
「……あっ」
パイが、床に落ちる。
アトリが拾い上げる間もなかった。「待ってました!」とばかりにマックスが飛びついて、がつがつと一気に平らげてしまったからだ。
「……意地汚いですね、マックスは」
「同感だ」とばかりに、クラリスとクラレントがぶるぶる鼻を鳴らす。
「……知りませんよ、今度こそ、敷物にされたって」
我ながら、勿体無いことをしたと思う。まだ、あんまり食べてなかったし。でも、だからって拾って食べる気なんてないけど。三秒ルールっていうわけの分からないルールが元の世界にあったけど、【異世界】に来てまでやりたいとは思わない。
それ以前の話、アトリはそんな真似絶対しないし。
「……そもそも、ここ、
干し草に水、鞍置きに蹄鉄。馬の世話をするのに必要なものは、全部揃っている。ただし、クラリスとクラレント以外の馬はいない。折角厩があるのにどうしてだろうって思って聞いたら、エメさんいわく「掃除が大変だし、いざ
成程、合点がいった。エメさんは副業でカウガールをやっている。だから、自分の馬を牧場に預けているのだ。
それはそうと、ここは厩である。アトリは置かれているベンチに腰を下ろし、持参した軽食を食べていた。ケサダが持たせてくれた、カボチャのパイだ。
少ししか食べられなかったけど、とてもおいしかった。また食べたいと思う。
「……今度は、ブッチさんも、一緒だったらなぁ」
アトリは一人、ごちる。
ここのところ、アトリは一人で食事をすることが多い。部屋に閉じ籠ってする食事が。
側にいてくれるはずのブッチがいないからというより、アトリが意図的にそうしているからなのだけど。
それもこれも、洒落にならない事に遭遇したお陰だ。実際、トラウマになりかけた。ネット掲示板によく載っている【みんなのトラウマ】なんて言葉じゃ済まされないくらい、本当に本っ当に洒落にならないぐらい。
あれは、カマロンの町に来てまだ間もない頃のことだ。
その頃はまだ、アトリは
慣れてしまえば
ブッチと一緒に食事できないのは心細かったけれど、愚痴を零すことはしなかった。
それぐらいの弁え、アトリにだってある。愚痴なんか零したって、どうにもならないものはどうにもならないってことぐらい、分かっているつもりだ。
零せばもしかすれば、なんとかなるかもしれないってことはある。最近、胸の奥に変なものをなんとなく感じるし、変な物音がやたらと気になるし。多分、神経が過敏になっているだけだろう。完全に【異世界】に慣れきっているってわけじゃないし。
だから、事件は起こった。
なんとなくぼーっとしながら食事をしていたら、いきなり手を掴まれた。それも、知らない男の人に。
「美しいお嬢さん、どうか俺にあなたを崇拝させてください!」
そして、突然のことでなにがなんだかで目を白黒させるアトリの手に貨幣を握らせて手を引っぱってきた――かと思ったら、次の瞬間、男は駆けつけたエメさんにぶっ飛ばされていた。
その際エメさんが「昼間っから行きずりの女と洒落こもうなんざ、いいご身分だね!」と怒鳴りつけるのを聞いて、アトリはようやく察したのだった。「心身共にまともな状態でいたいってんだったら、女であることはひた隠せ」という警告は、そういう意味だったのだと。
後々になって思い出したのだけど、西部開拓時代っていうのは、女性の数が圧倒的に少なかったっていう。なんでも、平均寿命が低かったせいなのだとか。
当たり前だ。トウモロコシの脱穀とか
でも一番の理由は、男が荒くればっかりなのが嫌でみんな逃げてしまったかららしいけれど。
結果、西部は女性が激減。おかげで、金にものを言わせてどこからか無理矢理連れてくるとか、孤児や未亡人や家出娘を娼婦にやつさせるとか、酷い時には「女がいないならいないでいい!」と開き直った男性同士のカップリングが成立したりしたのだとか。
とまあ、そんなことがあって以来、アトリは部屋にしっかりと籠って、一人で食事をするようにしている。
どうしても一人でいられないって時は、クラリスとクラレントがいる厩で食べるようにしている。一人になりたい、一人にしてほしいって思っていても、一人でいたくないってときは。
それが、言い分として完全に矛盾しまくっていることが分かっていようとも。
「……とはいいますけど、女性も女性だったんですよね。……一人の女性が複数の男性と関係を持つことだって、普通にしていたっていいますし」
アトリは一人、ごちた。誰に対して言っているわけじゃないので、自然とそうなる。なんか、どうしようもなく虚しかった。
ふと、思う。そもそも、一人でいて、虚しいなんて感じたこと、今まであっただろうか?
一緒にいてくれるだけで、ただ楽しい。寄り添ってもらって、安心感を得ることができる。
そんな人と、ただ他愛のない話をしたり、同じテーブルでご飯を食べたりして――
そんな人がいなくても、アトリは今までなんとかやってこれたはず。
大体、一人でいることが、アトリの当たり前だったはずなのに。
それこそ、【あの人】がいなくなってしまってから、ずっとずっと。
でも、この【異世界】ではそうならなかった。出会うことが出来たのだから。側に寄り添ってくれる、一緒にいてくれる、そんな
ブッチ・キャシディ。
元【ワイルドバンチ強盗団】の
今は【不死者】たる存在。
けれども、アトリにとっては普通の
「……嫌だ」
握りしめた掌の中から、嫌な音が鳴る。縋りつかれたお守りが、軋む。
「……嫌だ、そんなの」
無意識のうちに、アトリの口から言葉が零れ落ちる――
「……嫌だ、そんなの、嫌だよ」
ぎしっ、とお守りが、苦鳴のような軋みを上げた。けれども、アトリが気付くことはない。
元いた世界に戻らなければ、帰った方が、本当はいいはずなのに。他ならぬアトリが、それを望まなきゃいけないはずなのに。けれども、アトリの口からは拒絶の言葉が、ぼろぼろと零れ落ちていく。
一人で過ごすことのない日常。
誰かとする食事のおいしさ。
自分以外の誰かの手の温もり。
それらが存在していないだけの日常に、戻るだけなのに。
「……なんで、どうして……?」
「一体、なにをなさってきたってんですかっ、
ブッチの姿を見るなり、ケサダはガチで卒倒しかけた。
「どこの馬鹿野郎ですかい!
「落ち着けよ、ケサダ」
「落ち着いてられますかってんですよ!」
おおよそ十日ぶりに帰ってきたブッチは、到底まともな状態ではなかった。かなり濃密なにおいを纏っていたのだから。
だが、そんなことどうでもいい。
「
「ケサダ、落ち着け。あと、ちぃとばかり黙ってくれや」
「落ち着けやしませんし、黙れやしませんよ!
「いや、そう言われても、これは不可抗力ってモンでよ」
「そんな不可抗力、あってたまりますか! なにがありゃあ、両手が出来損ないのローストビーフになるってんです!?」
その言葉に、あやはない。勿論、冗談ですらも。あるのはそのままの事実だけ。
今のブッチは、両手に酷い火傷を負っている状態だ。銃身を素手で直に掴み、引き金を引くなんてことをやらかせばこうなる。
銃弾が射出される際の摩擦熱と、弾倉の隙間から吹き洩れ出る燃焼ガスは高温だ。それこそ、人間の皮膚がこんがり焼けるぐらいじゃ済まされないぐらい。下手すれば、
それ以前に、真っ当に生きることだって。
銃が撃てないどころか、指をまともに動かすことが出来なければ、人間としてまともにやっていけないだろう。
けれども、これでもまだマシになってきている状態だ。やらかした直後は、それこそ眼も当てられないぐらい惨たらしい状態だったのだから。だが、今は出来損ないのローストビーフ――火ぶくれまみれ程度でしかない。
ほぼ、
痛みに耐えることさえ出来れば、どれだけダメージを負おうとも【再生】することが叶ってしまう【不死者】である、今のブッチには。
「確かにそうさなぁ。飯も食えねぇ自分の汚ねぇ尻を拭えねぇ人間になっちまうよなぁ」
「実際そうですよ! 他人事みてぇに言わねぇでくだせぇ!」
「まー、言うなれば【ワカサユエノアヤマチ】ってモンらしくてよ」
「知りませんよ、そんなの!」
「そういや、アトリのヤツはどうしてるってばね?」
【ネットワーク】に接触することと、しばし過去に浸ってしまっていたがため、おざなりにしてしまっていた少女のことについて尋ねる。何もなければ御の字だったのだが。
「お嬢さんでしたら、厩に引っ込んじまいましたぜ」
「厩に?」
「多分、飯食ってると思いますぜ。さっき、パイを持たせてやりましたから」
「はァ!?」
ただ厩に引っ込むだけなのなら、分からないでもない。一緒に旅をするようになってから、クラリスとクラレントの世話は、ほぼアトリがやっているからだ。あの二頭にしてみれば、珍しいことである。あの
だが、どうも違和感を覚える。
「お前んとこの
「ごっ、誤解ですぜ、
食事中に見知らぬ男に声をかけられて手を掴まれて――ということがあってと、必死に弁解してきたケサダに、ブッチは、思わず舌打ちした。そういう馬鹿をやらかすろくでなしってのは、どこにでもいるものだ。
でも、いつまでもおんぶに抱っこを任せるアトリもアトリなのだが。
これはあとで、色々と言い含めておく必要がありそうだ。
「って、
今更ながら、ケサダが水樽へと駆け寄っていく。
ブッチは今一度両手を見る。健康で瑞々しい肌に覆われた手に、火ぶくれは一つも見当たらなかった――もう、完治しなおっている。ひりつく痛みが伝わってこなければ、手に変な違和感があるだけ。しかし、痛みは存在している。いずれ引いてしまうのは分かっているけれど。
「
そうであっても、痛みそのものがなければ、火傷の存在自体がそもそもなかったってことになるのだ。
「存在そのモンが無くなっちまおうが、痛みだけは残るってか? なァ……キッド」
「痛むんでしたら、ぶつくさ言ってねぇで薬でもお飲みになっていてくだせぇよ。カロメルかアヘンチンキのぐれぇ持ってるでしょうに」
「そうさな」
とりあえずアヘンチンキの方でも飲んでおくかと、懐に手を突っ込んで――
「って、結局持ってきちまったんだっけなぁ」
手に触れたのは、S&Wモデル2・アーミーだ。
あの現場から持ち出したものだが、なにか意図があったというわけではない。
といっても、得物が無ければ無いでシリンゴは大いに困るだろうから、結果として意趣返しぐらいにはなるだろうけれども。
「つーか、マジでどうすっかなぁ、コレ」
持て余すしかない。こんな、縁起の悪いもの。正直、呪われたアイテムもいいところだ。数多の
「
「いや、ちょっとコイツで思うところがあってな」
「へェ、イイ銃じゃねぇですか」
「やるよ、俺ぁいらねぇし」
「いいんですかい!?」
「成り行きで手に入れただけだ。三挺も持っていたくなんかねぇよ」
元々、ブッチの得物はコルトM1851のみだ。S&Wモデル2・スコフィールドの方は、色々あってただ手許に置き続けているだけである。
第一、多種な銃を扱いこなせるほど、ブッチは器用ではない。だからといって全く使わないわけでもないのだけれども。
現実を正しく見据えた上での判断だ。
大体、持てる以上の銃を持つのは割に合わなかったりする。弾薬の消費量と銃の手入れの時間が通常の倍になるっていう面倒は、抱えたくないものだから。
いつ何時勃発するかわからない乱闘や銃撃戦に巻き込まれることが約束されている
故に、ブッチは違和感を意識せざるをえなかった。どうも、妙な引っ掛かりがある。決して忘れてはいけない、重要な引っ掛かりが。
【ピンカートン探偵社】のこともある。けれど、それ以前のなにか。
「いやぁ、ンなこと言われましても、まさかアタシみてぇな下っ端が、
されど、そんなのケサダは露知らずだ。誕生日に子犬をもらった少年みたく、大喜びしている。
「どう間違ったって、壁に飾ったりなんてすんな。次の新月の晩あたり、
「そんな遠慮がすぎる言い方なんて止めてくだせぇよ。まるで、この銃が不吉の象徴みたいじゃねぇですか」
「その銃、チャーリー・シリンゴの得物だぜ」
「~~!? ~~!!!!」
咄嗟とはいえ、ケサダは叫び声を放たなかった。それだけじゃなく、受け取った銃を取り落すこともしなかった。自制心をフル稼働させて、圧し押さえたからだ。
「どういうことでさっ、
「授けてやるなんざ、最初から言っちゃいねぇよ。俺自身やるのが嫌だから、お前に代わりに捨ててくれって頼みたくてな」
鹵獲品として使うなんて罰当たりだ。でもだからって、下手に捨てようものなら足が付く。
「だったら、最初っからそうおっしゃってくだせぇよ! ってか、そんなモン
正直、笑えない冗談だ。今のブッチなら尚更。
それはともかく今更だけれど、【ピンカートン探偵社】の嫌われぶりは相変わらず凄まじいのだと再認識せざるをえない。
けれども、これでもまだマシな方なのだ。「泣いている孤児がいたら。それは【ピンカートン探偵社】に両親を殺されたからだ」という笑えない冗句が流行っていた、一昔前に比べれば。
「そこまで言われるってなると、マジで半端ねぇんだな」
「そんなことより、そんなことよりですぜ、
先程取り落としかけた銃を、ケサダはそろそろと、ダイナマイトでも扱うかのよう慎重に置くと、軽く足で蹴って脇へ追いやった。
賢明な判断である。無骨に見えるが、銃とは実は繊細に仕上がっている武器なのだ。昔と比べると頑強な作りになっているが、うかつな衝撃で壊れてしまうことがないわけではないし、下手をすれば暴発の危険だってある。
「ああ、本当さね」
「なんで言ってくださらなかったんですかい?」
「お前らを巻き込まねぇうちに、黙って出てくつもりだったんだよ。突然押しかけたところを何も言わず匿い入れてくれたことだけで、俺ぁ十分だってんだ」
「そんな水臭ぇことなんておっしゃらねぇでくだせぇ! 憎き【ピンカートン探偵社】と一戦交える必要があるってのならば、アタシだけじゃなく、エメも喜んでご一緒させていただきやすのに!」
「必要ねぇよ」
「アタシらだけじゃありませんぜ。
「だから、必要ねぇってんだよ」
ブッチは、はっきりと言い切る。
「お前らの手ぇ借りる必要なんざ、そもそもねぇよ。それ以前に【ピンカートン探偵社】と戦り合うつもりなんざ、俺にはさらさねぇってんだ」
「なにをお言いになります、
「馬鹿野郎! お前はもう、堅気だろうが!」
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