妖女はわらう

 戸惑いのうちに明けた夜から、はや幾日。

 華眞は複雑な胸の裡を隠して、変わらぬように振舞っていた。

 ただ、あまり調子は良くないと言う事で舞い込む誘いは最低限のもの以外は丁重な文を認めお断りさせて頂いている。

 一時は、もしやご懐妊ではとの噂も流れたというが、直にお渡りがないのだから違うだろうとおさまった。


 物憂さから逃れるように今日も庭仕事に勤しんでいると、侍女達が茶会のお誘いが、と大慌てで華眞元に知らせにきた。

 正直、茶会と聞いて即断りかけたが、それを聞いた侍女たちが蒼褪めて慌てる。

 様子がおかしいとおもえば、どうにも、この度お招きをあずかったのは、皇太后陛下が主催される茶会であるらしい。

 現在の最高権力者である皇太后の誘い。流石に、此れを辞退した場合『拙い』どころではない。気が進まないと言ってもいられないだろう。

 何故に、皇太后は自分を招いたのか。ある位階までの妃嬪を皆招いたというならば不思議はないが、何かがあるような気がしてならない……。

 皇太后の真意は何処にあるのかを怪訝に思いながらも、華眞は茶会に赴く準備を整える事にした。



 晴れた空のもと、皇太后主催の茶会は華々しく開かれた。

 初めて足を踏み入れた皇太后の居城である黎仙れいせん宮のあまりの威容と煌びやかさに思わず茫然となりかけたのを必死で堪えて、努めて楚々とした笑みと振舞いを心掛ける。


 招かれたのは、華眞を含めた九嬪までの妃嬪達であった。

 此度は皇后の姿もある。流石に叔母の招きは断れなかったのだろう。

 それまでの後宮では慣例だった朝の挨拶も皇后の意向で取りやめになっていた為、華眞はここで初めて皇后の姿を見た。

 精巧な人形のように繊細で儚い雰囲気を持つ美しい少女だった。

 けれども何処か感情の色が薄く、生気がないように感じてしまう。

 居並ぶ妃嬪達にも関心を払わず、どこか退屈そうにも見える。


 そして、初めて姿を目にしたのは皇后だけではない。

 皇太后の姿を目にしたのも、これが初めての事だった。

 確かに、後宮にて上に上り詰めるに相応しい妖艶な美貌と、他者を圧する何とも言えぬ威厳を持つ、一度見たならば記憶に焼き付き消える事はないだろう人物である。

 大体の年齢は聞いているが、それが信じられないほど若々しく生命力にあふれた女性だと華眞は思った。

 それと同時に、底なし沼のような得体のしれぬ恐怖を与えるひとであるとも。

 茶会は思いの外和やかに進行していた。


 末席に控える華眞は、皇太后から言葉をかけられ舞い上がる妃嬪達の様子を眺めつつ、穏やかに過ごして居た。

 仲が良いのは温修容だが、彼女とは座席が離れてしまっている。

 隣の妃嬪達は何かと話しかけてはくるものの、如才なく答えを返しつつも、華眞はどこか上の空だった。

 皇帝を傀儡としその命を脅かさんとする存在がすぐそこに居ることに、思う事がありすぎる。

 やがて、楽が奏されると皆が揃って目を細めて聞き入っていたけれど、華眞はひそかに皇太后を窺っていた。

 このひとが、小虎を奪った人で。伯都を脅かすひとなのだ。

 その思いが表情に出ないように細心の注意を払い無言であった時、不意に鮮やかでいて凛とした声が耳に飛び込んできた。


「幼き日の思い出というものは、時を経ても失い難き宝であることと思わぬか? 慧充媛……」


 かけられた思わぬ言葉に、脳裏が白くなる。

 自分に向けられたものであるとすぐに気付けず一瞬反応出来なかったものの、すぐにそれが奏でられた郷愁の楽に関して触れたものであると気づき、当たり障りない応えを返す。

 無礼に当たらなかっただろうかと内心ひやりとしたものを感じたが、皇太后は鷹揚に笑うと更に華眞に言葉をかけた。


「慧充媛には陛下も関心を持っておられると聞いておる。良い知らせも期待できると思うておる故、はよう妾に孫を抱かせておくれ」


(……ご期待には添えなさそうです)


 皇太后は、宮を与えた後に一度も渡りが無い事を知らないのだろうか。

 残念ながら事実がない以上、それから生じる希望など持てようはずがない。

 何とも言えない内心を隠して恐縮した様子を作っていると、目の前に皇太后の側近である侍女が、茶の入った白磁の茶碗を華眞の前に置いた。


「子宝に恵まれるという有難き謂れある薬茶である。そなたに進ぜよう」


 周囲の妃嬪達が騒めいている。

 皇太后様が直々に言葉を下されただけではなく、謂れ目出度き茶を勧めて下さった。

 それも四夫人や上位の妃嬪をおいて、集う中では末席に位置する慧充媛に。

 やはり彼女は特別なのかと憧憬の眼差しや嫉妬の眼差しが入り乱れ飛び交う中、華眞は恐縮して俯いたまま、驚愕していた。

 皇太后陛下が直々に言葉を下され茶を勧めて下さった、という事にではない。


 ――この茶には、毒が入っていると察したからだ。


 確証はない。銀の器にて証拠が示されているわけでもない。 

 だが、背筋に一瞬走った電撃のような感覚は、恐らく潜む殺意に対する本能的な警告だ。

 ああ、成程そういう事か、と心に独白する。

 この茶を飲めば、当然ながら死が。

 拒めば、皇太后の名誉を傷つけたとなり何がしかの処分は免れない。

 何れにしても、皇太后は自分を生かしておくつもりはないのだろうと華眞は確信した。

 恐らく、皇太后は小虎が……皇帝が、華眞に執着して居る事に気づいている。

 表向き渡りは一切ないように見えて、他の形で心遣いをしていると……華眞の元に届けられる匿名の贈り物の主が皇帝である事を知っている。

 先の言葉からして、幼き日に華眞と伯都がかつて家族として暮らしていた事など、とうに掴んでいるのだろう。

 だからこそ、見せしめのために彼の大切なものを……華眞を殺そうとしている。

 己の意に添わねば、こういう事になるのだと知らしめるために。


(敵はお前より一枚上手だぞ、小虎……)


 皇太后の底に冷気の潜む笑みを感じながら、逡巡は一瞬だった。

 自分は決めたのだ、と華眞は心に呟く。

 花の如き笑みを浮かべて皇太后に謝意を述べると、茶碗を淑やかな手付きで手にして。

 華眞は、茶を静かに飲み干した――。



 茶会から暫しして。

 慧充媛の住まう翠鴛宮は俄かに慌ただしくなり、只ならぬ空気に包まれた。

 何があったかは箝口令が敷かれ、人の出入りも制限され、物々しい雰囲気が宮全体を覆っている。

 人々は、もしや慧充媛が亡くなったのではないか……と囁き合う。

 それは、慧充媛が全く人前に姿を見せなくなった事から、かなりの信憑性を以て語られた。

 恐らく……と続けかけて、皆は口を噤む。

 何が原因であるか……誰の意思によるものかに、皆気づいていたから。

 きっと、慧充媛の存在はあの方の意を損ねてしまったのだ。

 皇帝が如何に寵愛したとしても、あの方の意に沿わねば消されてしまう。

 この皇宮において、絶対なのはあの方の意向なのだと……。



 皇太后は、ある日の朝議にてかつて後宮にて起きた二度の失火の慰霊の祭祀を執り行いたいとの意を示した。

 一度目は、先々帝の同母の妹君が亡くなった二十年と少し前。

 二度目は、他ならぬ皇帝の母が亡くなった十八年前。

 亡くなった二人と、巻き込まれて逝った者達の魂を改めて弔いたいと申し出たのだ。

 死した者達の魂は後宮内に未だ彷徨い、それが皇帝の子が生まれぬ要因となっていると皇太后付の占者が告げたというのだ。

 二度目の失火が誰によるものなのか、言葉に出来ずとも悟っている者達にしてみれば、誰がどの口でと思っただろう。

 しかし、実際に言葉として紡げる人間は皆無だ。

 そして、皇帝とてそれは同じ事。

 継母である皇太后の意に背くどころか、その傀儡であるしかできないと揶揄される皇帝は、異を唱える事もなくすんなりと皇太后の申し出を受け入れたのである。



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