もうあの頃には戻れない

 変わりない日々が終わり陽は落ちて、やがて夜となり。

 夜闇の作り出す暗さに紛れ、翠鴛宮の敷地内を、気配を殺し足音を忍ばせ進む影があった。

 その影は、灯りが漏れるとある部屋の前まで進み、そして中を伺おうとして……。


「こそこそ様子を窺うぐらいなら、正面から来たらいいのに」

「……!? 姐姐!?」


 背後からかけられた声に、文字通り飛び上がらんばかりに驚愕した。

 影……目立たぬ装束の伯都が振りかえれば、そこにはこの宮の主である慧充媛が……華眞が腕組みして立っている。

 ここまで誰にも気づかれなかったのに、と呻くように呟く伯都に、私がお前の気配に気づかない訳があるかと呆れた様子で華眞は言う。


「ここは後宮で、お前は一応皇帝なのだろう? 別に忍ぶ必要も遠慮する必要もないのでは?」


 お前がこっそり忍んできたせいで、侍女達が幽霊を見たといって怯えて仕方なかった……とぼやく華眞に、身を縮ませながら伯都は言葉を失う。

 か細い月明りは光源としては心もとないものの、華眞には伯都がばつの悪そうな顔をしているのがはっきりとわかった。

 そして、何かを言い出したくて、躊躇しているのも。


「言いたい事があって来たんだろう?」


 促されても暫し俯き唇を噛みしめていた伯都だったが、やがて思い切ったという風に顔をあげて、言葉を紡ぎ始める。


「姐姐は出家する為に後宮を辞したと言う事にします。郊外にて恙無く暮らせるように整えます。だから……」

「断る」


 伯都が告げた言葉に対して間髪入れずに返ったのは、拒絶だった。

 唖然として華眞を凝視する伯都を真正面から見据えつつ、華眞は眉を寄せて告げる。


「ここまで知って、お前を置いていけるか」


 思わぬ場所で再会する事となった、可愛い妹。本当は男だったけれど、大事な存在である事には変わらぬ者が成長した姿である彼。

 彼は今この城にて、権力を握る存在に傀儡として、危うい糸で手繰られている。

 それなのに、自分だけが安全な場所に逃げて、安穏と暮らせなどと言われて頷けるわけがない。

 華眞は、次なる言葉を紡げずにいる伯都を見つめながら、更に言う。


「皇太后の命で子を為さなければならないというなら、少なくとも特定の妃嬪に通う素振りをしていれば余計な疑念を抱かれずにすむだろう?」


 それなら、事情を知る自分の元にしておけば気が楽だろうし、協力も出来る。精神的な避難所程度にはなれようと、華眞は笑った。寵愛による権勢が欲しいわけではないから安心しろという華眞に、震える声音で伯都は言葉を絞り出す。


「それでは、姐姐が……」


 ただでさえ、少し抜きん出たというだけで華眞は嫌がらせを受け続けているのだ。

 見せかけだけの仮初のものとはいえ、寵愛を受けるようになったと知れば、今度は嫌がらせでは済まない。

 『あの方』がしたように、命を狙ってくるものとて増えてしまう。

 首を左右にふり弱弱しく拒絶を紡いでいた伯都に、華眞は屈託なく笑いかけながら、言った。


「……可愛い小虎の為なら、何でもない」

「私は!」


 ――次の瞬間、何がおきたのか華眞は理解出来なかった。


 『小虎』が、苛立ちを露わに叫んだところまでは分かった。

 けれど、その次に起きた事が理解できなくて……理解を拒んでいて。


「……私は、もう小虎ではありません……!」


 気が付いた時には、華眞の身体は力強い温かさに捉われていた。

 くるしい、と小さく呻く程に強く、二本の腕は華眞を引き寄せ、戒めている。

 『小虎』が自分を抱きしめているのだと、気づいても茫然と目を見張るばかり。

 何故、と小さく呟いても答えは出なくて。

 これは、誰だと……心に問う華眞の耳に、追い詰められたように余裕のない響きが触れた。


「貴女が、ずっと好きだった……! 引き離されて、この冷たい皇宮に連れてこられても、ずっと」


 手を引いて彼の前を歩いてくれるひとは、世界で一番愛しいひとだった。

 引き離されて冷たい場所へ連れてこられても、その笑顔を思い出せば耐えられた。


「密かに様子を探らせる事だけは出来ました。お元気でいらっしゃることに、安堵して。でも何時嫁いでしまわれるか心配でならなくて……」


 会う事が出来ないからこそ募る。もはや届かぬものへの崇拝の域なのかもしれない。

 けれど、何時か会えたなら、本来の性別であの人の前に立てたなら、その時は迷わずに想いを告げたいとずっと願ってきた。


「何時かまた会える日が来ると思う事が、私の支えだった……」


 抱き締める手に籠る力は痛い程。

 この腕を振りほどけない。何か言いかえしたくても、問いと戸惑いが鬩ぎあい、脳裏を埋めつくして何も紡げない。

 少しだけ力が緩んだ気がして、見上げた先には自分を見つめる、何かに焦れたような切ない眼差しがある。

 華眞の知らない『男』の表情が、そこにある。

 何かを振り切るように目をつぶったかと思えば、伯都は華眞を解放し、背を向けた。

 その背に呼びかけたかった。

 それなのに、一つの音も口からは零れない。何の言葉も、彼の名前も。

 走り去っていく背中をただ見送るしかできなくて、視界から完全に消えてしまった後、華眞はその場に座り込んでしまった。


 ――あれは、誰だ?


 あんな顔をする奴を、私はしらない。

 あれは、私の妹じゃない。私の、小虎じゃない。

 そういえば、自分は相手を見上げていた。

 離れている間に、背も随分伸びて、逆転していた事に今気づいた。どれだけ女のように線が細く美しく見えても、抱く腕も、広い胸も、確かに男のものだった。愛らしさではなく、端整な凛々しさを有していた。


 そうだ、言っていたじゃないか。

 もう『小虎』は居ないのだと……。

 私のあの子は、もうどこにもいない。もう、あの頃には戻れない。

 それが変えられないなら、私はどうする? 

 変わってしまった事を嘆いて、過去だけを抱いて? もう。別のものなのだと、諦めて?

 

 過ぎる風は少しばかり冷たさを帯びていて、見上げる夜闇には冴えた光を放つ細い月。

 移り変わりゆくもの。変わらぬもの。もう戻らないもの。

 何を守りたかったのか。これから、何の願いを抱いて、どうするのか。

 揺れに揺れる心は、未だ落ち着きそうもなかった。

 

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