本人は気にしていなくても

 後宮に自然に忍び込む事などあり得ない蛇の騒動は、下手をすれば怪我人どころか死者を出しかねなかった為に報告される事となった。

 しかし、恐らく無意味だろうと華眞はぼんやりと考える。

 今までの嫌がらせについても報告はされている。確かにそれらとは比べ物にならない悪質さではあったが、ここは後宮――皇帝の寵を巡り愛憎渦巻く、女の修羅の園である。

 後宮の最高責任者は女達の頂点におわす御年十二歳の瑶皇后ではあるが、皇后は皇帝陛下だけでなく、後宮の趨勢にも女達の思惑にも全く無関心である。黙殺されて終わりだろうと華眞は予想している。

 華眞としては、それもまた仕方ないと思っている。憂いているのは、手段が徐々に洒落にならなくなってきていることだ。

 自分はいい、しかし……。

 物思いに耽る華眞の元に、侍女が来客を告げにくる。少しして一人の女性が侍女に案内されて室内に足を踏み入れた。


「ここのところ、こちらは随分賑やかね」

おん修容」


 困ったように笑いながら、女性は華眞へと歩み寄る。

 享楽的なまでに華やかに見えるひとではあるが、その実理知的で思慮深く、中々に舌鋒鋭い女性である彼女の名は、温 玲芳れいほう

 修容の位にある玲芳は、最初は好奇心で声をかけてきた。

 しかし、話してみれば中々に気さくで話しやすく、気が付けば友誼を結ぶまでになっていた。

 温修容は後宮入りしたものの、寵愛を巡る戦いには全く興味はないらしい。むしろ巡る妃嬪達の動向を観察するほうが面白いという。

 情報を掴む事に長けており、後宮きっての情報通とも密かに称されているらしい。

 二人で卓につき、茶を喫しながら話していたものの、温修容は此処の処の騒ぎについて改めて話を聞くと肩を竦める。


「庭荒しに、虫に汚物に動物の死骸。更には怪文書……。果ては毒蛇まで仕込まれたなんて」

「毒蛇を放り込むぐらいなら、素直に毒を盛るなり、暗殺者を送るなりして欲しい。私はいいが、他の者が被害にあったらどうしてくれる」

「……そういう問題ではないと思うけれど……」


 自分が先陣を切り悪意に対応しようと彼女に心酔するものは日に日に増えている。

 下の者など容易く切り捨てる貴人が多いなか、慈しむように守ってくれる毅然とした華眞に、特に侍女たちが主に向けるものは、崇拝の域に達しようとしている。

 しかし、だからといって、他が無事なら華眞が危険に晒されてもいいわけではない。温修容も流石にその言葉には苦笑いして言葉を濁してしまう。

 華眞が何故に同じように皇帝の訪れがない自分をこうも目の仇にしてくるのかと問いを口にすると、温修容がそれは仕方ないわよ、と困ったような笑みを見せる。

 彼女が話してくれた内容では。

 皇帝はそもそも、後宮の妃嬪達におおよそ興味がない。

 妃嬪が入宮した日の夜、そして時々皇太后の圧に負けて適当な妃嬪の元に訪れ一夜過ごす事はあるけれど。


「皆もそれぞれに矜持というものがあるもの。同じ床にいたのに指一つ触れてもらえなかった、なんて口が裂けても言えないわよ!」


 ……つまり、どの妃嬪とも清い間柄を貫いているということらしい。

 やっぱり、あいつは女なのではないか、そんな疑惑が浮かんできた。

 一夜にして昇格を果たし、宮殿を与えられた充媛は、自分達が受けられなかった寵愛を受けたのではなかろうかと疑心暗鬼になっているのだという。

 そんな訳あるか。そのあとこの通り放置ではないかと盛大な溜息を吐き出す。

 だが、妃嬪達には事実はどうでもいいのだ。

 顧みられぬ事に対して、花の盛りを虚しく過ごす事に対して、鬱屈を抱いている。

 皇太后の意向を受けて夢見心地で後宮入りし、結果として役に立たぬとして打ち捨てられた者達も多いという。

 そこに、自分達より頭一つとびぬけたように思える相手がいる。

 委細などどうでも良い、憂さを晴らすにはもってこいだったというわけだ。

 ああ、面倒だと内心で華眞は天を仰ぐ。

 正直、怪文書の言う通りに出家して出ていってやりたいぐらいに思う。

 しかし、出来ない。

 小虎を……伯都をこのまま置いていけない。

 せめて彼の安寧が確かなものになってから、置かれる環境が平らかで、心許せる妃を得られたのを見届けてから……。

 その瞬間、何故か胸が痛む。針を刺した時のような、僅かな一瞬のものだったけれど。

 多分、後宮に居るだけで何も出来てない事に対する苛立ちだ、と思った。

 ここからでは、あいつのいる場所は遠くて、力になってやりたいのにあまりに無力で。

 守りたいと願い、守ると誓った。それを果たせていない事が、悔しい。

 華眞の見つける先の彼方には、皇帝のおわす宮殿がある。

 遣る瀬無い思いを押し殺し、華眞は温修容との会話に興じるのだった……。


 ◇◇◇◇◇


 夜更けて、皇帝の居室には二つの人影があった。

 一つは当代の皇帝である許 伯都。

 傍らに膝を付き控える、端正ではあるが鋭利なな印象を与える容貌の男は、侍従・崇月すうげつ

 崇月が口を開くより先に、伯都が溜息と共に言葉を紡いだ。


「淑妃の茶会で一騒ぎあったようだな」


 報告するより先に皇帝がそれを口にしたことに、崇月は今更驚きはしない。

 侍従たる彼は知っている。

 皇帝が皆の思う程何も知らぬわけではない。

 皇宮の動きも、皇太后の動きも把握している。そして、後宮内の動きも。

 情報を集め、慎重に自身の力及ぶ根を張り巡らし、機を窺っている。

 恐らく皇帝の情報網は彼が想定している以上に広範囲に及んでいる筈だ。


「凶手がそう賢妃様を害そうとしたと……。しかし、本来は」

「……慧充媛を狙おうとしたのだろう?」


 崇月は一度頷いて見せた。

 調べて判明した事実によると、こうである。

 何者かの手による暗殺者たちは、茶会に参加するある妃嬪を狙うよう命じられていた。

 皇后は気分がすぐれないと言う事で不在。

 茶会には、残る妃嬪のうち空位である貴妃を除いて、主催である淑妃を始めとして九嬪の末席……慧充媛までが招かれていた。

 標的は、翡翠色の衣の女と知らされていたという。

 妃たちは暗黙の了解として、それぞれが住まう宮殿の名に因む色の衣を身に着ける事が多い。故に、充媛が翡翠色の衣裳である事は推測する事は容易い。

 しかし、思わぬ妨害により、慧充媛は急遽違う衣裳を纏う事になる。

 翡翠色の衣を纏ったのは、事前に充媛が纏う衣の色を探り、難癖をつけてやろうとした宋賢妃だけとなり……。


 ――結果として、宋賢妃が標的になった。


「せめて一人でも本人を認識できる『中』の人間を入れておけば、失敗しなかっただろうに」


 まあ、居たとしても結果は変わらなかっただろうという、というのは独り言めいた呟きである。

 務めて冷静なまま、崇月は報告を続けた。

 慧充媛は事態を察すると即座に賢妃を庇い、兵士に剣を求め。

 そして、それを手にすると。


「結果としては、慧充媛が……宋賢妃を凶手から守られた、ということです」


 慧充媛は、軽やかに、鮮やかに、見る間に向かってきた凶手を下したのだという。

 それ相応に手練れであっただろうに、皆充媛の前に揃って地に伏す事になった。

 あまりに見事な戦いは、舞を舞うように美しく華があり、凛々しいものであったと、その場にいた者達は上気した顔で口を揃えて言った。


「あの人相手に、数人の凶手程度で何とかできるものか」


 伯都は過去に想いを馳せるように、眼差しを遠くに据えて口を開く。

 生前、慧充媛の父が娘に武術を教えて『誤算だった』としみじみ言った事がある。

 父としては、身を護る術を教える程度の気持ちだったのだろう。

 しかし、娘の資質は父の予想を遥かに上回っていた。道場の門下の男達すら打ち負かし、誰一人として叶わぬ程の強さを、幼い華眞は得てしまった。

 その為、本人はまごう事無き美少女であったのに、鳴り響いてしまったのは武勇だった。

 あれが男であれば武人として名を立てる事も出来たのに、と育ての父は口惜しげであった、皇帝は語り終えた。

 何とも言えない表情になりそうなのを耐え、崇月は続ける。


「……窮地を颯爽と救われたということで、すっかり賢妃様は凛々しい充媛様の信奉者に」

「……姐姐らしいなあ……」


 複雑な表情と声音で、伯都は頭を押さえた。

 そういえば、昔も新しい子供と遊ぶたびに、気が付けばその子達は華眞の虜になって後ろをついて歩くようになっていたものだ。

 気をもんでしまう程の天然人たらしなのは、今も昔も変わらないらしい。

 私の姐姐なのに、とその度に苦い思いをしていた事を思い出す伯都。

 自分だけに笑いかけて欲しくて、自分だけを大事にしてほしくて。

 自分がいつか自分が男である事を明かす事が出来たらと、ずっと胸に秘め続けていた想い。幼心の、ままごとのようと笑われるかもしれないものであっても、伯都にとっては真剣なものだった。


「……誰の手の者か、吐いたか?」

「……陛下のお考えの通りかと」


 不意に、伯都の声が低く怜悧なものに変わる。瞳を伏せたまま応える崇月もまた。

 充媛を慕う声は本人のあずかり知らぬところで日に日に強くなっていった。

 如何に平民の出と貶めたとしても、周りの皆がそれを承知で信奉しているのだから効果はない。

 だが、如何に慧充媛が妃嬪や宮女の心を集めたとしても、後宮における絶対的な身分の差だけはどうにもできない。

 瑶皇后は建国以来続く名門の出というだけではない、現在の最高権力者である皇太后の姪にあたる。

 差は覆らず脅威足りえないとされていた。故に、皇后も、皇后に仕える者達もさして充媛を危険視してはいなかった。

 しかし、ある人物だけは違ったのだ――。

 決意しなければならないと、皇帝は物憂げな吐息を零した……。

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