彼の過去と彼女の煩悶

 少しして、二人の姿は牀の上にあった。

 皇帝と妃嬪が二人並んで腰を下ろしている、というのは本来であればそれなりに色気を伴う場面ではあったろう。

 しかし、華眞にとってはそれどころではない。

 小虎は……伯都は、華眞が落ち着いたのを見計らって皇宮の権力図に関して説明を始めた。

 まず、現在皇帝として立っているのは伯都であっても、実質的に権力を握っているのはその継母であり、先帝の母、先々帝の皇后であったよう皇太后であるという。

 彼は母の言いなりになるだけの、お飾りなのだと自らを嘲笑した。

 実際、政治において彼が口出し出来る事はない。朝議にあってもただそこにあるだけ。

 彼は先だって、皇太后の命令により、彼女の姪にあたる少女を皇后に迎えた。

 皇后は、十二歳の少女だという。

 何やら異能を持つというが、その詳細は定かではない。

 それというのも、夫たる皇帝とも殆ど顔を合わせず過ごして居るからだという。

 この国には、少ないものの不思議の力……異能を持つ者達が存在する。

 元は天から降りた仙女であったと言い伝えられていた開祖の妃・華皇后が異能を有する女性であったと言う事から、忌まれる事はなくむしろ尊ばれ、殊に女性は皇帝の妃として歓迎される傾向がある。

 しかし、如何によき資質があるといえども流石に年少、皇后が子を為す事は難しいと皇太后も難しいと判断したのだろう。

 その代わりに、太監に銘じては年頃の美女を次々に後宮に送りこんでくるのだという。

 皇帝の訪れのない後宮に妃嬪は増え続けている。

 そのほとんどが、皇太后の命にて送りこまれてきた女性だという。

 送りこんだ女が皇帝の気を引けないと判断すれば、容赦なくその女は後宮の片隅に打ち捨てられ、次が来る。


「仕方ないのでは? 望むと望まないとに関わらず、今皇帝の位にある以上、後継ぎを作り皇統を繋いでいくのはお前の義務だし、皇太后様もそれを気にされて……」

「皇太后様が執念を燃やしておられるのは新しい傀儡を得る事であって、皇統を繋ぐ事ではないと思います」


 それまで柔和であった伯都が見せた皮肉の色に、華眞は思わず目を瞬く。


「……随分、棘があるな」

「友好的な関係とは言い難いので」


 伯都の母は、先々帝の側室の一人であったという。

 身分は低いながら皇帝の寵愛を受け、男児を授かった。

 しかし、ある日伯都たちが暮らしていた宮で失火があり、母は亡くなってしまう。

 誰の仕業であるのか、誰もが口に出来ないものの悟っていた。

 だからこそ、皇子を救い出した者たちは思案した。

 表向きは皇子も亡くなった事にして、密かに子は宮中から出され、かつて先々帝の腹心の一人であった武人……華眞の父の元に預けられた。

 生きている事が知れれば皇太后の魔の手が伸びる事はわかりきっている。

 身元も伏せて、性別すら隠して。危険が及ぶ事のないように、健やかであるように祈りと共に送り出された。

 やがて皇帝が亡くなると、次の皇帝として皇太后の産んだ皇太子が即位した。

 皇太后は側室の子の生存を疑う事なく目の前の権勢に集中し、小虎はそのまま静かに穏やかに暮らして行ける筈だった。


 運命が変わる契機となったのは、兄にあたる先帝が亡くなった事だった。

 兄は跡継ぎを残さず亡くなった。次の皇帝には順当にいけば傍流の皇族から誰かが選ばれる筈だった。恐らく、皇太后の専横を良く思わぬ人物が。

 このままでは自分から権力が失われると苛立ちを覚えている皇太后の元に、側室の子が密かに生存していると囁くものがあった。

 皇太后にとっては夫の寵愛を奪った憎い女の子供。

 けれども、その子を傀儡とするしか自分が権力を握り続ける手段はない。

 皇太后に、他にとれる選択肢はなかった。そして、迎えを差し向けた。

 父は大分抵抗したようだ、むざむざ利用される為に宮中に戻すなどと。

 皇太后の恐ろしさは知っている、だからこそ我が子同然に育てた小虎を渡す事を拒んだ。

 けれども、拒み続ければ父だけではなく妻子も一族も、危うくなる。

 だから、真実を知った小虎は言ったのだ「わたしは、戻ります」と……。


 明かされた小虎が突然消えた理由に、華眞は茫然とする。

 そして、小虎は皇太后の手駒として、皇帝となった。

 皇帝は暗愚で凡庸とされていたのは、そう装っていたからだ。

 そうでなければ、彼を明確な敵と認識した皇太后がどう行動に出るかを想像するのは容易い。安全を守る為には、愚かでなければならなかった。

 年頃というにはやや早い頃から、皇太后は妃嬪を次々と送りこみ、子を為すように命じた。

 そもそも皇帝を生かしておくのは他に男子が居ないからである。

 皇太后としては、真に欲しいのは自分の意のままになる真っ新な傀儡。

 それならば、皇帝に子を作らせれば良い。

 子が生まれさえすれば、不要なものは捨てる事ができる――。

 つまり、妃嬪が一人でも皇帝の子を産んだなら。

 即ち、皇太后が皇帝に変わる傀儡を手にしたならば。

 皇帝はもはや用済み。その生母たる妃嬪も、もはや用済みとなるだろう。下手に生かしておけば後の災いの種になる。

 皇帝は急な病、生母は産後の肥立ちが悪いとでもするのだろうか。

 生まれた子供は皇后の子として育て、皇太后は太皇太后として更なる権勢を振るう事となる。

 皇太后の命にて後宮入りした女達は、寵愛を受けられないならも役立たずとして打ち捨てられ、受けても待ち受けるのは死。いずれにしても、未来はないのだ。

 道理で、と華眞は唸る。


「おかしいとは思っていた。何か裏があるのだろうとは思っていたが……」


 合点がいった。

 叔父と叔母の挙動がおかしかった理由も。どこか罪の意識を感じているような不思議な様子にも。

 何故従妹ではなく、自分でなくてはいけなかったのかも。


「そうでなければ、あれ程分かりやすくお金と権力が大好きな叔父様と叔母様が、自分の娘を後宮入りさせられる、なんていう機会を見逃す筈がない」


 何せ従妹の舜蘭は近隣でも評判になる程愛らしいのだ。皇帝陛下の目に留まりさえすれば、寵愛を得られる可能性とて高い。

 上手くすれば次代の皇帝の外戚として権勢を振るえるかもしれない好機を、みすみす逃す訳がない。

 そこには、何か理由があるだろうとは思っていた。

 確かに、子を産んだら娘の命が危うくなるような状況に、愛娘を送り出したいとは思わないだろう。

 あの人たちは妙な情報通だからと肩を竦める華眞に、伯都は思わずといった風に叫んだ。


「分かっていながら、何故後宮入りを受け入れたのですか! 姐姐!」

「何故と言われても……。あの家において私は居候である事には変わりはないし、その上嫁き遅れなのは事実だし……」


 おかしいと気づいていたのに甘んじて受けた事に、伯都は血相を変えて詰め寄って来る。

 頬を指先でかきながら、些か身の置き場がない気がして華眞は眼差しを泳がせた。

 そんな華眞を見ると、伯都は肩をがくりと落し、これ以上ないという程に深く溜息を吐き出した。

 重苦しい沈黙が二人の間に横たわり、時だけが無為に過ぎていく。

 何か言葉をかけたいところだが、何と言っていいものかわからないし、下手な事を言えば事態は悪化するような気がしてならない。

 ややあって、俯いて黙り込んでいた伯都が顔を上げたかと思えば、低く奮える声で言葉を絞り出す。


「後宮での、不自由ない生活は約束します。私にもしもの事があって後宮が解散した後も、恙無く暮らしていけるようにも取り計らいます。だから、私に関わらないで下さい」


 悲痛な表情と声音で紡がれた一連の言の葉に、華眞が思わず彼の真意を問いただそうと口を開きかけた。

 けれど、それを遮るように伯都の言葉は続く。


「それに、あの力は絶対に人には明らかにしないで。……特に、この後宮では」


 そう呟いたかと思えば突如として立ち上がり、止める間もなく閨を出て行ってしまう。

 残されたのは、茫然とした表情のまま固まり、その背を見送るしか出来なかった華眞のみ。

 漸く思考が戻ってきて、絞り出した声は呻き声にも似ていた。


「好き放題言うだけ言って、勝手に出て行って……」


 皇帝の訪れによってもたらされた情報があまりに衝撃であり、情報過多であり、整理が追い付かないうちに一方的に宣言して出ていった。

 彼が言いたい事も、何を考えてそう言わざるを得なかったのかも、徐々に理解が追い付いてきている。

 何故、自分に関わるなと……もう会わないと言ったのか。

 それに、何故に『力』を人に知られるなと言ったのかも、恐らく……。

 華眞は整えられた髪をぐしゃりとかきむしり、盛大な溜息を吐く。

 会いたかったと、言ってくれたのに。

 私だって、一日も忘れた事はなかったのに。今だって、変わらず大切に思っているのに。

 華眞が更なる溜息と共に呟いた言葉は、酷く苦いものだった。


「これだけ知らせておいて、私を蚊帳の外に置く気か、小虎……」


 置き去りにされた寂しさが、手を振り払われた哀しさが、堪えた。

 遠い過去に、けして一人にしないと誓った相手の今置かれている状況と、向けた拒絶に。

 華眞はただ唇を噛みしめて、沈黙していた……。

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