揺れに揺れて留まるを知らず

 それは願いを心に浮かべて、三日後の事だった。


「……陛下の、お渡り?」

「今宵、慧才人様の元にお渡りになられるとの事です。身を浄め、お待ちになりますように」


 思わず「私?」と言いたげに自分を指さしながら問い直すと、報せを伝える女官は重々しく頷いて見せる。

 もう一度確認の為問うけれど、返る応えは同じだった。

 放置すると見せかけてからの唐突な触れに、茫然とするしかない華眞。

 今までは何か用事があって取り込み中であったのか。はたまたただの気まぐれか。

 もしかしたら、あまりの放置に太監が何か口添えしてくれたのかもしれないが……。

 急な報せに華眞の周囲は俄かに慌ただしくなる。

 分からないというのは恐怖に通じる。だが、戸惑っていても時間は止まってはくれない。

 強張った表情のまま、侍女の手を借りて華眞は皇帝の訪れに備える支度をする事になった。



 やがて空が黒い天鵞絨に覆われ、夜が来て。

 華眞は初めてこの国を統べる尊きお方の尊顔を拝謁する事となった。


  ――天女が舞い降りた。


 それが華眞の当代の皇帝である宗寧そうねい帝・許 伯都きょ はくとに対する第一印象だった。

 男性に対する表現としては適当ではないかもしれないが、そう思ってしまった。

 黒絹を思わせる滑らかで艶やかな黒い髪、黒曜石もかくやという憂いを含んだ黒瞳。

 きめ細やかな肌は陶磁器にも似て、形良い唇。

 やや線が細く感じるものの、均整取れた長身は男性を思わせるところがあるけれど……。

 美人だ、と心の中だけで華眞は呻いた。当然ながら口に出す訳にはいかないが、これは絶世の、美女だと。これでもかという程に美辞麗句が尽きない美貌である。

 これが、皇帝にのみ許された色に文様の袍を纏っていなければ、間違いなく妃嬪の一人と思っただろう。それも寵愛を一身に受けていてもおかしくないと。

 確かにこれは心を蕩けさせるという噂も頷けると心に何度も頷きながら顔を伏せる華眞の耳に、怜悧なほどに落ち着いた皇帝の言葉が触れた。


「人払いを。……呼ぶまで下がっているように」


 それは、傍にいた近侍や華眞の侍女達に向けたものだった。

 一瞬置いた後、一礼した後に彼女達は命じられた通りに閨を後にする。

 気まずい。

 華眞ももうそれなりに年齢を重ねている。流石に閨にて何があるか分からないなどとは言わない。

 後宮に入った以上、何れその時が来る可能性は十分に想定出来た。

 それでも、閨に二人残され、満ちる沈黙の重さを感じ取れば心の内に戸惑いともつかない感情が募っていく。

 この期に及んで情けない、と自らを叱咤するけれど、心の揺れは止まらない。

 そして、暫ししてから。

 皇帝が何も言わず、ただ立ち尽くしていると言う事に気づく。

 何か不調法でもしてしまっただろうか、気分を損ねてしまったのだろうかと、今度は焦りが生じ始める。

 何か申し開きをと恐る恐る顔を上げて、皇帝へと躊躇いがちに視線を向けたなら……。


「……陛下……?」


 最上級の白磁を思わせる頬に、伝う透明な輝き。

 まさか、と心で呻き、瞬きを何度もして、もう一度見つめる。

 そこにある事実は、変わる事は無かった。

 泣いているのだ、皇帝が。

 何度見直しても、茫然とした華眞の眼差しの先で皇帝陛下が、泣いている。

 真珠の粒が零れ落ちるようにも見える涙を流しながら俯く皇帝は、もう絶世の佳人としか言いようのない、雨下に濡れる花の風情である。

 ああ、美しい人は泣く様さえこうも麗しいのだなと感心しかけて、慌てて思考を引き戻す。

 皇帝は涙を拭いながら笑みを作ろうとしつつ、呟いた。


「すいません……つい、懐かしくて……堪えきれなくて……」

「懐かしい、と仰られましても……」


 自分と、涙に濡れるこの方は、今が初対面の筈である。

 懐かしさなど覚えようもないのに、何故このような事を言うのだろうか。

 淑やかさに押し隠そうとしても、怪訝に思う心は隠しきれず、言葉の端があやふやなものになってしまう。

 少し苦笑すると、皇帝は万感の思いが込められたその言葉を口にしたのだ。


「会いたかったです、姐姐……」

「……姐姐…………?」


 此処に至り、華眞は完全に被る猫も楚々とした振舞いも、完全に消え失せてしまう。

 愕然とした表情で相手を見つめる華眞の身体は、少し震えていた。

 有り得ない。まさか、そんな事は。

 自分をそんな風に呼んだのは、唯一人。

 可愛い大切な『妹』だけ……。

 泣き笑いの表情さえ愛らしい……そう、今この方が浮かべているような、儚げでありながら光が零れるような、笑顔が……。


「まさか……」


 絞り出した声は、掠れて呻き声のようになってしまった。

 不敬と責められても文句の言えない程凝視してしまった相手に、茫然とした表情でその問いかけを口にする。

 そもそも、あの子は女の子だった。何時も後をついてくる、華眞の可愛い妹だった。

 有り得るわけがない。そんなわけがない。脳裏を埋めつくすのは否定の言葉だけ。

 それなのに、何処かで感じている。

 目の前の相手が、そうであると。

 いけないと思いながらもつい指をさして、その名を絞り出した。


「……小虎……?」

「はい、華眞姐姐……!」


 眩暈がしそうだった。いや、目の前がぐらぐらと揺れているような心地がする。

 まさかと思った事実を、否定される事なく、肯定された。 

 つまり、ここにおわす皇帝陛下はかつて自分が小虎と呼んだ、別れてからもずっと大切に想い続けていた、可愛い妹その人だったのだ。

 蒼褪めた顔で、華眞は思わず頭を抑える。

 いや、そもそも。


「お前……男の子だったのか!?」

「……気づいてないと思ってはいたけれど、やはり……」


 そこからですか、と頭を押さえて呻く小虎こと、皇帝・許 伯都。

 自分よりもよほど嫋やかで儚げで、守ってやりたくなる風情だった『妹』。

 確かに言われてみれば、着替えや風呂などは別に行うように母が自然と仕向けていた気がする。

 小虎という名前も、ずっと呼び続けていたから違和感を覚えなかったが、女の子の名前としては少しばかり勇ましいような……。本人の愛らしさが勝って気が付かなかったけれど。


「姐姐が後宮に来たのを知って。気持ちの折り合いをつけるのに十日もかかってしまって……」


 照れたように俯く皇帝の横顔に、見慣れた面影を感じて目の前がくらくらする。

 つまりは、そういう事なのだ。

 何と言う事だ、と華眞は顔を手で覆い、天を仰いだ。

 絶世の美少女は、あろうことか絶世の美男に成長していた。

 更には、何と万乗の尊きであらせられる、当代の皇帝陛下であるという。

 生きていてくれたのは嬉しいし、再会できたのは嬉しい。

 だが、情報量が多すぎて理解が追い付かない。


「とりあえず、事情を説明してくれ。……あと、何か飲みたい……喉が……」

「はい、姐姐」


 朗らかに微笑むと、伯都は卓に置かれていた茶器にて茶を淹れ、優雅な仕草で手渡してくれる。

 今、ごく自然に皇帝陛下に茶を所望してしまった気がする。

 いや、皇帝陛下じゃなくて、小虎で、私の妹で。

 小虎は男の子で、皇帝になったから、やはり皇帝陛下で……。

 話を聞くにしても、少しばかり落ち着く必要がありそうだ、と痛む頭を押さえながら華眞は心に呻いた。



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