第32話

 リドの歓迎会も終盤に差し掛かり、今は皆で女子トークを行なっている。

 と言っても貴族のご令嬢が集まっていることから色恋関係の話題はなく、美味しいご飯屋さんや、おしゃれお菓子などの話題ばかりだった。

 

 エマは騎士として自身を律して生きてきたこともあってその手の話題には疎く、話を合わせるので精一杯という様子だった。


 今はジェシカの故郷にある名物でいるパンケーキの話題に相槌を返していた。

 ふと、唯一の男である彼はどんな顔で話題に付いてきているのだろうかと気になり、隣に視線を向ける。

 

 そこで初めて先ほどまで隣で荒ぶるように食事を摂っていたリドが居ないことに気が付いた。

 

 また自分の分を掠め取ろうとしているのかと思い、後ろに話しかける。

 

「おい、リド。いい加減戻って……」

 

 エマは自身の後ろ、出入り口の方を見る。

 そこにリドの姿はなかった。


 というより、部屋の中にいない。

 トイレにしては長すぎる様に思い、アリシアに問いかける。

 

「アンリ様、ご歓談中申し訳ありません。リドを見ませんでしたか?」

 

「リド様なら先ほど外に……」

 

 アリシアは出入り口の方を指す。

 

「ありがとうございます。探してきます」

 

 エマは立ち上がり外に出ようとするが、

 

「あ、でしたらわたくしも……」

 

「いえ、アンリ様はそのままで。お手を煩わせるわけには参りません」

 

 アリシアを制し、エマは一人で外へ向かう。

 

「エマ……気を遣ってくれてありがとう。わかりました」


 エマはなんとなく嫌な予感がして、靴を少し乱暴に履き替えながら外に出た。

 

 リドという男と知り合ってまだ日は短いが、何を考えているのか人に読ませない能力に長けている。

 

 それは、恐らく生まれに関係があると思っている。

 

 自分もそこまでスラムの恐怖を知っているわけではないが、一度弱みを見せたら致命的なことになる場所だということだけは知っている。

 

 だから、物心ついた時から自然と身につけた癖のように、自分の考えを周りに晒さない。

 

 いつも発想が突飛で、突然何かをしているようなイメージだが、それは思考が読めないからそう感じるだけだ。

 頭の回転はズバ抜けて早いやつだと知っている。

 恐らくエマを遥かに上回るほどに。

 彼が何を考えているのかわからないからこそ、不安になる。


 突然消えてしまうのではないのかと。


「リドー! どこだー!?」

 

 エマは夜の校庭に大声を上げ、リドを探すが返事はない。

 

「……全く、自分の歓迎パーティーで主役が抜け出すやつがあるか」

 

 不安を押し隠すようにエマは独り言を呟きながら校庭を回ってリドを探す。

 

 考えてみればリドを強引に皇城に連れてきて、ロベルトと戦うことになり、学園に入ることが決まったが、リドからすればいい迷惑だったのかもしれない。


 エマからすれば、スラムなどという命の危険が常に付きまとう場所から食事も毎日食べられて、殺し合いをする必要もない場所で生きるのは良いことだと思う。


 父の次に唯一自分が認めた男には死んでほしくない。

 いや、違う。この感情の正体はもっと別のものだ。

 まだ形を帯びていないその感情の正体はまだエマにはわからなかった。


 だが隣に居てほしいと、太々しい態度を取りながらも優しい男に、いつか認められたいと思う気持ちは本物だ。


「全く、世話が焼けるな」


 これは強がりだ。

 世話をされていたのはどちらなのか。

 一生かけても、この身、この心を捧げても返しきれないほどの恩をリドに感じている。


 自分の主人を救い、自分の命すらも容易に救ってくれた彼を尊敬している。


 なんとなくふと空を見た。


 あの日、気絶したリドを背負って皇城に運んでいる時に見た、雪が降り終わった夜空を思い出すように。


 彼の体は、あれほどの力を持ちながらびっくりするほど軽かった。


 決して大きいとは言えないガタイだったが、軽く拍子抜けするくらいに重さを感じなかった。


 リドという化け物じみた男も、一人の人間なのだと感じられるほどに。



 反対に我ながら重い女だとは思うが、まだ出会ってから日も経っていないにも関わらず、リドが居なくなったと考えると、少しだけ心細くなる。


 だから、背中の感覚を思い出す様に、自然と空を見上げていた。


 そんな時、遠くの屋根上に月明かりを背にした人の姿が見えた気がした。

 よく目を凝らしてみると、夜風を浴びながら炎髪を揺らす人物だとわかる。

 その姿を見つけて思わず心が躍るが、それを隠して声をかける。

 

「おーい! リドー!」


 なぜそんなところにいるのかなど瑣末な問題だった。

 

 エマは手を振りながらリドに叫ぶが、当の彼は夜空を見上げていて気が付かない。

 夜風も意外と強い春という季節は、声すらも掻き消してしまう。

 エマが先ほどまで考えていたことも吹き飛ばしてくれたが、少しだけ厄介だと思った。

 

「……はぁ」

 

 エマは一度ため息を吐いて階段を目指した。

 リドは恐らく脚力だけで屋根の上に乗ったのだろうが、エマにはそんな人外な真似はできない。

 

 だが、幸運なことに屋根の上に行ける階段がある建物だった。

 外側の階段を上り、屋上で空を見て無言のリドの背中にエマは声をかける。

 

「こんな所で何をしているんだ?」

 

「……エマか、なんか用か?」

 

「用は……特にはない。急にいなくなったので見に来ただけだ」


 心配だから探しにきたという言葉を飲み込む。

 女を捨て、騎士を目指す身として、それを口にしたらおしまいだ。

 

 エマはリドの隣に腰を落ちつける。

 

 リドは「そうか」と如何にも興味なさげに言いながら、まだ夜空を見上げ続けていた。

 それに誘われるように、エマも再度空を見上げる。

 先ほどまで感じていた冷たさのようなものはなく、ただ綺麗な宝石箱のような景色に息を呑む。

 

 しばらく無言が続き、場を繋ぐために何かあったのか? と聞こうとしたエマだが、その前にリドは独り言のようにポツポツと話し出した。

 

「皇城に来てからは毎日大量の食事を取って腹を満たしてきたが、今日みたいに暖かいと感じた飯はオマエやアリシアと肉を食べた時以来だ」

 

「それは良かった。寮母さんも喜んでくれるだろうな」

 

 自分が作ったわけではないが、リドの言葉に少しだけ誇らしく胸を張る。

 

「スラムにいた頃は、何をどんだけ食っても空腹が満たされることはなかった」

 

 決してエマには視線を合わせず、リドは夜空を見上げ続ける。今日は満月だった。

 空から監視している目の様にも見えるその大きな月は、リドとエマを優しく照らす。

 

「夜は危険だ。視界が制限されるから、敵が襲ってくる。部屋の明かりを絶やさないようにして、死んだように息を殺す。そんな毎日だった」

 

「そうか……」

 

 大変だったな。だとか。

 

 もうそんな生活をしなくていい。だとか。

 

 安い言葉は今は不要だと思えて、エマは相槌だけを返す。

 

 おそらく、これからリドがこの話を語ることは二度とないだろう。

 だからこそ、淡泊に見えるような反応で、決して忘れないように一言一句逃さず聞く姿勢をエマは取る。

 

「……オレだけがこんなに楽な世界で生きていいのか。もしかしたらオレは、あの時死んだんじゃないか。そう思えて、昔から何も変わらない夜空を見たくなる」

 

 これは城にいた時からの癖だと知っている。

 時々、リドが夜に部屋から姿を消して居なくなることがあるとヨルが話していた。

 

 リドにとって、身の危険を感じる必要のない夜という空間は酷く気味の悪いものなのだろう。

 まるで、今まで横の部屋にいた騒音が酷い隣人が居なくなった時のような、ありがたくも少しだけ寂しい感覚。

 

 その感覚は、今まで相手にしてきたスラムの危険人物よりもよほど不気味で、もしかしたら別の世界に来たのではないかと錯覚してしまうほど、リドの過去は血に塗れている。

 

 警戒せずに食事を一緒に摂る。

 建物の玄関から音がしても警戒しなくてもいい。

 食事に毒を盛られているのか考えなくてもいい。

 心地よい空間であればあるほど、リドは気持ち悪さを感じていた。

 

「……エマ、オマエはロイと会ったことはあるのか?」

 

「ロイ・エディッサ様か? いや、無いな。子供の頃はわからないが、父からは良く話を聞いていたくらいだ」


 ロイとロベルト、そしてエマの父のクリード。

 アンリの両親である先代の皇帝両陛下は学園での同期だと聞く。

 当時新設したばかりの騎士科Sクラスという場所で一緒だったらしく、戦場に赴く前から特別研修で世界各地を回らされたと言っていた。

 戦友でもあり、親友でもあり、仲間だったらしい。


 ロイという名前は聞き馴染みがあるが、会ったことはない、と思う。


 そんなエマの言葉にリドは「そうか……」と少しだけ安心したように言って、

 

「今日は親父について色んなことを知った。ベティーが親父を知っていたことも、アリシアが子供の頃から親父を知っていたことも……親父が、先代皇帝を殺したかもしれないことも」

 

「そうか……」

 

 エマはただリドの言葉を受け止めるために相槌を返していた。

 その噂は知っていたが、信じてはいない。

 リドの父親であり、父が似ていると口にする様な人物ならやらないだろうと確信を持っていた。

 

「でもオレは親父について何も知らねぇ……息子なのに、だ。剣を教わった。人を信用してはいけないことを教わった。人を育てる方法を教わった。それ以外何も知らねぇ。アイツらの方がよっぽど親父のことに詳しい」


 そう語ったリドは、少しだけ悲しげに口元を釣り上げた。


「フッ、なんでだろうな。ちょっと悔しいのは」

 

 リドは初めてエマの前で自虐的な笑いを浮かべる。

 

「……息子なんだ。その気持ちは当然だろう」

 

 その横顔を見て、エマは胸が締め付けられるような感覚を味わった。

 出来ることなら支えてあげたいと思える程には、リドという男の存在がデカくなってきている。

 

「その事も疑問なんだよ。『エディッサ』って家名は親父に貰ったものだ。あの男に会うまではスラムに生まれただけの『リド』だった。ただのスラムのリドだった」


 スラムに生まれ落ちただけの、何も知らない子供だった。そのはずだった。


 そう語るリドに、エマは目を伏せて相槌を返す。


「それが今じゃ、ロイの息子だなんだと言われ、こんな学園に来ちまった。よかったのか? オレはこんなところに……アリシアやエマと一緒に生きていいのか?」

 

 言外に、こんなに幸せでいいのかと言っているようにリドは初めてエマに視線を向けた。

 まるで、次の言葉で全てを決める覚悟を持ったかのような強い目だった。

 

 エマはリドの言葉に内心かなり驚いている。

 もっと豪快な奴だと思っていた。

 心が豪胆すぎるほど強く、どんなことでも切り離して、何をするにも冷静だと。

 そんな完璧超人のように思っていた。


 だが違う。

 リドは完璧なんかじゃない。

 ただチグハグなのだ。


 外の世界のことを何も知らず、本で得た知識のみを武器にして、ただ桁外れな力を持っているだけの純粋すぎる青年だ。

 

 純粋だからこそ、スラムという地獄を受け入れて生活を送っていた。


 何も知らないからこそ、当たり前の様に人を殺めていた。

 

 社会を知らないからこそ、家名の正体を知って悩んでいる。


 様々なことが少しずつわかってきたからこそ、違和感が強くなって行くのだ。


 充分すぎるほどに人間味がある。

 

「……リド」

 

「なんだ?」

 

 だからこそエマは思う。

 リドに対して生まれて初めての感情を持つ。

 恋愛などではなく、憧れに近い感情を。

 出会った時からか、助けてもらった時からか、話をした時からか、ものすごい力を見た時からか。

 

 恐ろしいくらいの強さを持ちながらもそれと同じくらいの優しさを持っていることを知った時からか、リドの戦う姿に昔憧れた騎士の面影を見た時からか、それとも今この時にリドの人間味を知ったからか。

 

 エマにとって、リドという人間は充分に特別だと思えていた。

 

「私はリドという人間が好きだぞ。そこにエディッサという家名は関係ない」

 

「……どういう意味だ?」

 

「今、私が見ている男は、リド・エディッサという英雄騎士の息子ではなく、死を待つだけだった私を救ってくれた優しいリドという同い年の男の人だ」

 

 月明かりに照らされたエマは、真っ直ぐにリドの顔を見て言い放った。

 その頬は若干赤くなっていた。

 

「……フッ。そうかよ」

 

 リドはやはり、何を考えているのかわからない様な顔をしていたが、その口元は隠しきれないほど優しく緩んでいる様に感じた。


「もしリドが望むなら、父上に詳しく聞いてみるぞ」


「……いや、いい。オレの親父のことくらい、オレで探すさ」


「そうか」

 

 少しだけ春風が強く吹いて、エマは軽く体勢を崩す。

 その拍子で横にいたリドの肩に軽く自分の肩が触れた。

 内心、心臓が破裂しそうなほど緊張が走るが、敢えて動かずそのままの体勢でリドの肩と自分の肩を触れ合わせる。


 軽くもたれかかってくるエマを引っぺがすこともせずに、リドはまた視線を上げて空を見上げた。

 

 今にもこぼれてきそうな満天の星空。

 

 ずっと見ていたら自分が空に落ちていってしまいそうで、リドは目を瞑った。

 

 今肩と手に感じる温かさを噛みしめるように、リドは軽く微笑んだ。

 

 過去でも未来でもなく、今この時を生きるリド・エディッサ。

 

 ただのリドを支えると決めた、ただのエマの言葉はひどく胸に刺さった。

 だからか、柄にもなくリドはエマ・トリエテスという少女が、立派な騎士になるまでは面倒を見てやろうと決意した。

 

 英雄の息子、エディッサとしてではなく、リド個人が縁を結んだ相手として。

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