第10話

 

 遡ること数刻前、大通りからリドを追って飛び出したエマを見送り、皇城へ帰ろうと道を引き返したアリシアは微かな違和感を覚えて路地裏に目を向けた。

 

 何も居ないように見えるが、よくよく目を凝らすと真っ黒な毛並みの猫がいた。

 

「あら、子猫さんですか」

 

 エマや近衛騎士の面々からは絶対に野良猫には近づくなと口酸っぱく言われている。

 だが、可愛いものを可愛がるのは当たり前のこと。

「こっちにおいで」と声をかけたらゆっくり近寄ってきて、アリシアの足元にグルグルと頬を寄せているのだ。

 恐らくでは何かの魔法を使っている。魅惑の魔法とか、頭を撫でさせる魔法とか。

 だからこれは仕方ないのです。

 そう思いながらデレデレ顔でよしよししてしまうのも仕方ないのだ。

 

「綺麗な毛並みですね。お手入れもされていますね? もう暗くなりますし、ご主人様が心配するので早く帰るのですよ?」

 

 顎下を触されながらゴロゴロと言っている猫は、満足したのか路地裏へ戻って行った。

 自分で諭したにも関わらず、アリシアは去っていった子猫を見て残念そうにしゅんと肩を落とした。

 

 しばらく猫が消えていった方を見ていたが、猫は何かを咥えて、またアリシアの側に近寄ってきた。

 その口には手紙のようなものを加えている。

 

「これを私に?」

 

 にゃあーと気の抜けたような声をあげる猫の頭を撫でてから手紙を開く。

 目を通したアリシアは思わず立ち上がった。


『この手紙が優しい方に届くことを願い筆を取ります。


 私はバハムス公国所属のユリシン辺境伯が次女ユリアといいます。

 エルサレム王国へ訪れ、観光途中に護衛共々アルバノという奴隷商人に囚われました。

 私以外にも囚われている方はたくさんいます。しかし、日を追うごとにどこかへ連れ去られ、戻ってきません。

 

 助けてほしいとは言いません。

 

 父、ユリセン辺境伯に私は死んだとお伝えください。

 親不孝な娘で申し訳ありません。とも。

 もし、出来るのなら、この子を。

 手紙を持たせるこの子をお願いします。

 大切に育ててあげてください。

 

 心の優しい子です。よろしくお願いします』


 何度も手紙を読み返したアリシアは身を裂かれたような気持ちになった。

 皇位を預かるものとして、これほどまでに酷い話があるのかと。

 

 国外から来た少女が我が国で悪党に攫われ、いつ死ぬかもわからない状況に落ちる。

 アリシアの……いや、皇帝であるアンリの理想とする国の女王として、とても首を突っ込まざるを得なかった。

 

「子猫さん、貴方は賢く勇敢な子ですね。主人の事が大好きなのですね?」


「にゃあー!」


 そうだよ! とでも言っていそうな子猫を見て、アリシアは優しく微笑む。


「貴方を私が引き取ること出来ます。そうなったら、貴方を大事に育てると約束します。ですが、貴方は違うのでしょう?」


「にゃぁ……」


 申し訳ないとでも言いそうな黒猫の頭を再度撫でて、アリシアは覚悟を決めた。


「貴方の大切な人の元まで、案内してくれますか?」

 

 確かに言葉が通じていると感じる子猫に、慈悲深い微笑みを向けるアリシア。

 恐らくこの子猫はご主人様に「優しそうな人を見つけたら、この手紙を渡してね」とでも言われていたのだろう。

 

 アリシア顔をしばらく見上げた後、一度間の抜けた声を出す子猫。

 しかし次には付いてこいと言わんばかりに路地裏に歩き出した。

 

 恐怖心はあった。だが、それ以上に憤っていた。

 アルバノという悪をアリシアは国を任されている皇帝として、どうしても許せなかった。

 

「すぐに助けますから、お姉さんに任せてください。こう見えて交渉は得意なんです」


 黒猫は心配そうに振り返って「にゃぁあー」と鳴く。

 そんな子猫の姿を姿を必死に追うアリシア。

 普段から皇務と学業続きで運動不足気味のアリシアは、ゆっくり歩く子猫の後についていくのも大変だった。

 一人の少女と一匹の子猫はこれから、国に根差した巨悪に立ち向かう。

 

 だがアリシア達は貧民街という場所を甘く見過ぎていた。

 日の落ちたスラムの恐怖を知らなかったのだ。


 

 黒猫に案内されるまま、アンリは汚れた裏路地の中を進む。

 まだ日が上がっているにも関わらず、路地には人の気配はなかった。

 本当にここに人が住んでいるのかどうかも分からないほど、人の気配というものがなかった。

 帝都の中にいるにも関わらず、まるで別の世界に迷い込んでしまったかのような、どこか不気味な雰囲気を肌で感じていた。

 

「子猫さん。もう少し着くかしら?」

 

 肩で呼吸するアリシアは、なんとか威厳を保つ為に声の震えを抑えながらそう聞いても、子猫はにゃぁーと答えるだけだった。

 もう少しだよと言っているように。

 

 黒猫は時々、人の気配を感じて立ち止まる。

 そして気配が消えたら歩き出す。

 まるでアリシアを隠しながら進んでいるかのように。

 アリシアはそれを休憩だと思っていた。

 

 そして30分ほど歩いたところで、今まで見た中で一番大きな建物の前についていた。

 

 まるでここだけ公爵級貴族の屋敷があるかのような場違い感。

 

(元老院の方に、ここの区画は今は使われていないと聞いていたけれど、こんなにも立派なお屋敷があるということは、何か立派なお仕事をされているのでしょうか?)

 

 などと考えるアリシア。

 よく見れば、いやよく見なくても門番のような強そうな人が立っているのが見える。

 その人物に向け、一歩踏み出そうとしたアリシアのスカートを、黒猫は必死になって噛んで止めようとするが、後一歩間に合わなかった。


「何者だ!?」


 気配を敏感に察知した門番が叫ぶと同時、アリシアは微笑みを浮かべて声をかける。

 

「驚かせてしまい申し訳ありません。ここの中にこの子猫さんの飼い主の方がいらっしゃると思うのですが……」

 

 その言葉が外での最後の言葉だった。

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